第168話 「慶寿院の白札と、帳面にいない子どもたち」
坪内石斎から真魚箸を預かって以来、茶太郎は毎朝、大豆を十粒ずつ別の皿へ移していた。
一粒目は落とす。
二粒目は転がる。
三粒目は茶丸に止めてもらう。
それでも七日目には、十粒のうち八粒まで移せるようになった。
次の幕府台所での修行日。
茶太郎は、食材蔵から運ばれた豆を小升で量る役目を任された。
「声に出して数えよ」
進士晴舎が命じる。
「一杯、二杯……九杯、十杯!」
一つ目の桶は帳面どおり。
二つ目も合っている。
だが三つ目で、茶太郎の手が止まった。
「一杯、足りない」
蔵番は眉を寄せた。
「昨日、確かに改めた。童の数え違いではないか」
茶太郎は最初から量り直した。
それでも一杯足りない。
桶の底にも、棚の隙間にも、豆は落ちていなかった。
晴舎は帳面を閉じた。
「御台所へ報告する」
幕府の食材が消えたとなれば、台所だけで処理することはできない。
しばらくして、女房衆を伴った若い女性が現れた。
足利義晴の御台所。
のちに慶寿院と呼ばれる、近衛家出身の女性だった。
まだ二十三歳ほどだが、幼い菊童丸を守る母として、奥向きの衣食を預かっている。
「一杯だけなのですね」
御台所は、責めるより先に確かめた。
その後ろから、一人の女が帳面へ手を伸ばす。
名は日野小夜。
四十を過ぎた、静かな目を持つ女性だった。御台所のもとへ出入りし、奥向きの出納を手伝っているという。
小夜は三日分だけでなく、ひと月分の記録を並べた。
「一杯ではございません」
「どういうことですか」
「十二日前から、豆、米、味噌が少しずつ減っています。一度に盗めば気づかれる。ゆえに毎日、誰かが一食分ずつ抜いております」
茶太郎は帳面をのぞいた。
大きな損失ではない。
だから、誰も前の日との差を気に留めなかった。
「小さな違いを見つけたのは、そなたですか」
御台所に問われ、茶太郎は頷いた。
「真魚箸の稽古で、豆を数えていたから……」
「修行とは、思わぬところで人を助けるのですね」
晴舎が下働きの者たちを調べると、十五歳ほどの少年が膝をついた。
「私が持ち出しました」
「売ったのですか」
御台所が尋ねる。
「いいえ。下京の焼け跡にいる子どもへ……」
少年の爪には、湿った灰が入り込んでいた。
天文法華の乱で家族を失った子どもが五人、焼け残った塀の陰で暮らしているという。
炊き出しへ行けば、名と家を尋ねられる。
法華宗徒の子だと知られることを恐れ、名を変えながら生きていた。
「盗みを働いたことに、違いはありません」
少年は額を床につけた。
「ですが、あの子らは三日、まともに食べておりません」
役人は処罰を求めた。
台所の食材を勝手に持ち出す者を許せば、蔵の決まりが崩れる。
しかし御台所は、すぐに裁きを下さなかった。
「まず、その子たちを連れてきてください。兵ではなく、女房を向かわせます」
京鈴の助けもあり、五人の子どもは南禅寺門前の小さな一室へ迎えられた。
だが部屋へ入っても、壁際から動かない。
御台所は、幼い菊童丸が大勢の視線を怖がって白粥を食べられなかった日のことを思い出した。
「人を減らしてください」
役人と大半の女房を下がらせる。
残ったのは御台所、小夜、茶太郎、京鈴だけだった。
御台所は五枚の白い木札と、五つの椀を並べた。
「名を言わなくても、今日は食べられます」
子どもたちは動かない。
「けれど、この札は捨てません。自分の名を取り戻したくなった日に、自分の手で書いてください」
誰にも筆を持たせず、御台所は一歩下がった。
長い沈黙のあと、一番小さな子が白札を一枚、自分の前へ引き寄せた。
それを見た京鈴も、黙って汁椀を子どもの前へ押した。
言葉より先に、食べる音が部屋へ戻ってきた。
少年の盗みは消えない。
少年は蔵の仕事から外され、墨屋宗白のもとで働きながら、持ち出した分を返すことになった。
一方、五人の七日分の食料は、御台所自身の御料から出されることになった。
「七日だけ、ですか」
茶太郎が尋ねる。
「私の分を分け続けるだけでは、六人目を救えません」
御台所は厳しくも静かに答えた。
「この七日で、次の椀へつながる仕組みを考えます」
小夜も頷く。
「施しだけでは蔵が空になります。働ける大人には仕事を。売れる品には正しい値を。その利益から、働けない子の椀を支えるのです」
茶太郎は五つの空椀を見つめた。
「食べたら終わりじゃなくて、次の食事を作れる料理……」
「考えられますか」
小夜に問われ、茶太郎はすぐには答えなかった。
答えが見つからなくても、探しながら歩けばいい。
そのとき、一人の子どもが懐から折れた紙を取り出した。
「知らない男が、これをくれた。飯をやるから、幕府の蔵に米が何俵あるか見てこいって……」
紙には、台所の裏口と荷運びの刻限が記されていた。
隅にあるのは、三本の黒い爪痕。
茶丸の白斑が静かに光る。
「……ニャッ(黒三爪だ)」
小夜は紙を一目見ると、表情を変えた。
「この数字の付け方は、奥向きの帳面と同じです」
「では、幕府の内側に……?」
「写した者がいます」
小夜は紙を小箱へ納め、懐から取り出した鍵で錠を閉じた。
七つの色石を嵌め込んだ、不思議な鍵だった。
茶太郎が見つめると、小夜はすぐに袖の中へ隠す。
「今は、こちらの話です」
だが、ゆかりにだけは見えていた。
小夜の袖から伸びる古い金色の糸。
それは幕府でも近衛家でもなく、かつて京の銭と権力を握った一人の女性の霊へ続いていた。
その名を、日野富子という。
御台所は茶太郎へ向き直った。
「七日のうちに、子どもの椀と、働く者の銭を同時に生むものを考えてください」
茶太郎は厨房に残されていた米麹へ目を向けた。
砂糖を使わずとも、米を甘く変える力を持つもの。
飲む者の身体を温め、町でも売ることのできる一杯。
新しい料理の形が、茶太郎の胸に芽生え始めていた。
やがて京と宇治を巡ることになる《水輪甘酒》は、五枚の白札と、七日分の椀から生まれようとしていた。




