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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第三章 ~五歳の茶太郎、伏見へ――南へ広がる水輪~
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第167話 「泥の香る鯉と、坪内石斎の試し」

 《水霊余温すいれいよおんの蕪椀》を出した饗応の翌朝。


 幕府台所へ、大きな水桶が運び込まれた。

 中では一尺を超える鯉が、重そうに尾を動かしている。


「三好家からの進物です」


 桶に付き添っていた男が、低い声で告げた。

 四十を過ぎた頃の、太い腕を持つ庖丁人だった。

 腰には包丁を差しているが、身なりに派手さはない。男は茶太郎を見つけると、片方の眉を上げた。


「この童が、長慶様の申しておられた料理人か」


 茶太郎は慌てて頭を下げた。


「見習いです」


「それでよい。最初から名人を名乗る者ほど、魚を駄目にする」


 男は三好長慶みよし・ながよしに仕える庖丁人、坪内石斎つぼうち・せきさいと名乗った。


 鶴と鯉を扱わせれば並ぶ者なし――。

 進士晴舎しんじ・はるいえも、その腕を認めているという。


 石斎は桶を指した。


「この鯉を、昼の膳へ出す。どのように料理する」


 茶太郎は鯉へ近づいた。


 艶のある鱗。

 傷も少ない。

 見た目には立派な鯉だった。


「お吸い物……それとも、味噌で煮る?」


「わしに尋ねるな。鯉に尋ねよ」


 茶太郎は桶の縁へ手を置いた。

 霊性味覚を使うまでもなく、水から土と藻の強い匂いがする。

 ナギが茶太郎の肩越しに桶をのぞいた。


「……みず……にごってる……さかな……くるしい……」


 茶太郎は鯉の動きを観察した。

 長い道を揺られてきたためか、呼吸が速い。桶の底には泥が沈み、糞も混じっている。


「今は、料理できません」


 台所の空気が止まった。


 進物を昼の膳へ出さないとなれば、三好家の面目にも関わる。

 幕府の役人が顔をしかめた。


「三好殿から届いた上等な鯉だぞ」


「上等だからこそ、今は使えないです」


 茶太郎は桶の水を指した。


「このまま料理したら、泥の味も、苦しい味も残る」


 役人は石斎を見た。

 贈り主側の庖丁人が怒れば、茶太郎の見習い修行まで終わりかねない。

 しかし石斎は腕を組み、口元だけで笑った。


「では、どうする」


「宇治川の水をそのまま入れるのは危ないから、きれいな井戸水を汲んで、少しずつ替えます。静かなところで休ませて……明日まで待ちます」


「昼の膳には間に合わぬぞ」


「別の料理を出します」


 茶太郎の声は小さかったが、引かなかった。

 進士晴舎が役人へ告げる。


「本日の献立を改めます。三好家へは、鯉の状態と明日供する旨を、記録とともに伝えましょう」


 石斎も頷いた。


「この鯉を運んだのはわしだ。長慶様への説明は、わしがする」


 昼の膳には、保存してあった干し椎茸と蕪を使い、澄まし汁が出された。

 豪華な鯉料理を期待していた者からは、物足りないという声も上がった。

 それでも晴舎は献立を変えなかった。


 茶太郎は鯉の桶を、風の当たらない場所へ移した。

 井戸水は一度に全て替えず、鯉の様子を見ながら少しずつ入れ替える。

 餌は与えない。

 何度も水を確かめ、桶の温度が急に変わらないようにした。


 翌朝。


 水の濁りは薄くなり、鯉の動きにも力が戻っていた。

 石斎は桶から鯉を取り上げると、まな板の前に立った。


 右手に包丁。

 左手には真魚箸まなばし

 魚へ直接手を触れず、迷いのない所作で鯉を捌いていく。


 茶太郎は息をすることも忘れて見つめた。

 速いのではない。

 一つ一つの動きに、戻る動作がなかった。


「すごい……」


「昨日待たせた者の責任だ。今日は見届けよ」


 石斎は骨と身を分けた。

 骨から出汁を取り、身は湯へくぐらせる。味つけは塩と、わずかな溜まりだけ。

 茶太郎は水と火加減を確かめ、晴舎が椀を温める。

 三人の仕事が、一つの膳へまとまった。


 《水霊清流すいれいせいりゅうの鯉椀》


 椀の蓋を開けると、澄んだ湯気が立ち上った。

 泥臭さはない。

 鯉の脂と骨の旨味が、静かに汁へ溶けている。


 幕府の役人は一口飲み、昨日の不満を忘れたように黙り込んだ。


「……これが、昨日の鯉か」


 石斎は答えず、空になった椀を見た。

 その後、茶太郎の前へ一本の真魚箸を置いた。


「包丁はまだ早い。まず、これで豆を十粒、別の皿へ移せ」


「豆?」


「魚を切る者は、刃を持つ前に、左手を育てねばならぬ」


 茶太郎は真魚箸を握った。

 一粒目は滑った。

 二粒目は皿の外へ転がった。

 三粒目を追いかけた茶丸が、前足で止める。


「……ニャッ(逃げたぞ)」


 石斎が豪快に笑った。


「鯉を待たせる知恵はあっても、豆には逃げられるか」


 茶太郎も赤くなりながら笑った。

 その日、十粒すべてを移すことはできなかった。

 けれど石斎は、真魚箸を持ち帰ることを許した。


「次に会う時までに、十粒揃えよ。できたなら、鯉の骨の読み方を教える」


 進士晴舎の見習い札。

 武野紹鴎たけの・じょうおうの懐紙。

 坪内石斎の真魚箸。


 茶太郎の荷物には、まだ使いこなせないものが、また一つ増えた。

 だがそれは同時に、幕府と茶人、そして三好家の台所を結ぶ、新しい縁の始まりでもあった。

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『茶太郎がゆく』
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