↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第三章 ~五歳の茶太郎、伏見へ――南へ広がる水輪~
PR
174/316

第166話 「冷めた蕪椀と、膳所までの百二十歩」

 口切りの茶事から数日後。


 進士晴舎しんじ・はるいえは、茶太郎が考えた《水霊初香すいれいはつかの蕪椀》を、幕府の小さな饗応で出すことにした。


 客は三好家から来る使者たち。

 六角堂で始まった対話を絶やさぬための、ささやかな会食だった。


「同じ椀を、八つ用意せよ」


 晴舎の指示を受け、料理人たちが動き出す。


 昆布の出汁。

 同じ大きさに揃えた蕪。

 味つけは、わずかな塩だけ。

 茶太郎も蕪を十切れずつ並べ、形を確かめた。


「今日は揃っているな」


 晴舎に言われ、茶太郎は嬉しそうに頷いた。

 味見をした汁は温かく、蕪の甘みも十分に出ている。


「これなら大丈夫」


 ところが――

 客前へ運ばれた蕪椀を口にした使者は、何も言わなかった。


 不味そうな顔ではない。

 だが、箸が進まない。


 晴舎は一礼して椀を下げると、台所へ持ち帰った。


「飲んでみよ」


 茶太郎が口をつける。


「……ぬるい」


 台所で味見をしたときとは、まるで違っていた。

 昆布の香りは弱まり、蕪の甘みもぼやけている。表面には薄い水気だけが残っていた。


「台所では、ちゃんとできてたのに……」


「料理は台所で完成するのではない」


 晴舎は静かに言った。


「客の口へ届いた時に、初めて完成する」


 茶太郎は台所の入口から、客のいる膳所ぜんしょまで歩いた。


 一歩、二歩、三歩――

 廊下を曲がり、渡り板を越え、控えの間を通る。


「百十八、百十九……百二十歩」


 途中では、別の膳を運ぶ者とすれ違った。

 戸口では、役人の確認を待たされた。


 八つの椀を一度に運ぶため、最後の椀が盆へ載るまでにも時間がかかっている。


「遠いだけじゃない。待つところがいっぱいある」


 茶丸が廊下の隅へ座り、耳を動かした。


「……ニャッ(風も通る)」


 渡り板の下から吹き込む冷たい風が、椀の熱を奪っていた。

 茶太郎は腕を組んだ。


「もっと熱くすればいいのかな」


「熱くしすぎれば、蕪が崩れる。運ぶ者も火傷をする」


 晴舎は答えを教えなかった。

 茶太郎は膳所までの道を、もう一度見直した。

 そのとき、湯を張った桶で器を洗う料理人が目に入った。


「椀が冷たいんだ」


 空の椀へ温かい汁を注げば、器そのものを温めるために熱が奪われる。


「先に椀を温めよう。それから、八つ全部を一度に作らないで、四つずつ仕上げる」


 さらに蓋を用意し、運ぶ直前まで鍋から汁を注がないことにした。

 廊下では、甚八が作った小さな木札を置き、膳が通る時間だけ人の行き来を止めてもらう。

 役人にも先に椀数を知らせ、戸口で数え直さずに済むようにした。


 二度目の蕪椀が作られた。

 温めた椀へ蕪を置き、熱い汁を注ぐ。

 すぐに蓋をして、四椀ずつ運ぶ。


 茶太郎は後ろから歩数を数えた。


「百十七、百十八、百十九、百二十!」


 膳所で蓋が開かれる。

 白い湯気が、ふわりと立ち上った。


 使者が汁を口へ運ぶ。

 今度は、その目がわずかに細くなった。


「……静かな味ですな」


 隣に座る幕府の役人も頷く。


「先の茶を邪魔せず、身体だけを温める」


 会食の話し声が、少しずつ柔らかくなっていった。


 料理が人の考えを変えたわけではない。

 だが、冷えた身体と固い表情をほどき、言葉を交わす時間を作った。


 晴舎は空になった椀を確かめた。


「名を改めよう」


 《水霊余温すいれいよおんの蕪椀》


 それは特別な霊力で冷めない料理ではない。


 器を温め、蓋をし、道を空け、運ぶ時間を揃える。

 人の手で、食べる瞬間まで温もりを残した一椀だった。


 帰り際、晴舎は茶太郎へ一本の細い組紐を渡した。


「次から、料理を作る時はこれを台所から膳所まで張れ」


「何のため?」


「料理が通る道を、目で見えるようにするためだ。味だけを見る者は、料理番にはなれぬ」


 茶太郎は組紐を両手に載せた。

 料理には、材料の流れがある。


 水や薪が台所へ届くまでの流れ。

 鍋から椀へ、椀から客へ届くまでの流れ。

 そのどこか一つが詰まれば、おいしさは失われる。


 秘密基地へ戻ると、ゆかりが組紐に触れた。


「この糸……台所の外へ続いてる」


「うん。料理って、作ったら終わりじゃなかった」


 茶太郎は帳面に、台所から膳所までの道を描いた。


 曲がり角。

 風の通る渡り板。

 人が止まる戸口。

 そして、百二十歩の先に置かれた一つの椀。


 その地図は、茶太郎が初めて描いた「味の通り道」となった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
面白いと思っていただけたら、ぜひブックマークや評価(★)をお願いします!
『茶太郎がゆく』
style=
目次からブックマークをお願いします
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。