第165話 「口切りの茶事と、香りを消した一椀」
茶太郎が幕府台所の見習い札を受け取ってから、ひと月が過ぎた。
その間、茶太郎は蕪を切り続けた。
最初は大きさの違った十切れが、八切れ、九切れと揃うようになり、ようやく十切れが同じ時に煮えるようになった。
そして二度目の修行の日。
幕府台所では、いつも以上に多くの水が運ばれ、膳や茶器が磨かれていた。
「今日は何があるの?」
茶太郎が尋ねると、進士晴舎は一つの茶壺を示した。
「口切りの茶事だ」
春に摘まれた宇治茶は茶壺へ詰められ、夏のあいだ封じて熟成される。
秋になって初めて封を切り、その年の茶を味わう。それが口切りだった。
「宇治のお茶……」
「本日の客は、茶の香りに厳しい。料理が目立ちすぎてもならぬ」
晴舎の視線の先には、質素な小袖を着た商人が座っていた。
堺と京を行き来する茶人、武野紹鴎である。
紹鴎は茶壺へ一礼し、静かに封が切られる様子を見守っていた。
茶太郎に与えられた役目は、茶の前に出す小さな汁物を考えることだった。
「ぼくが作っていいの?」
「考えるところまでだ。包丁と火は、我らが扱う」
晴舎は念を押した。
用意されているのは、蕪、干し椎茸、昆布、味噌、山椒、柚子、少量の鶏肉だった。
茶太郎は胸を躍らせた。
「全部合わせたら、きっとおいしいよ」
昆布と椎茸で出汁を取り、鶏肉の旨味を加える。味噌を溶き、山椒と柚子で香りを立たせる。
料理人たちの手で完成した汁は、確かにおいしかった。
だが、試食した晴舎は何も言わない。
茶丸も鼻を近づけたあと、目を細めた。
「……ニャッ(香りが多い)」
茶太郎も汁を飲み、その直後に新茶の香りを確かめた。
「あれ……お茶が分からない」
味噌と鶏の余韻が舌に残り、山椒と柚子の香りが鼻を覆っている。
料理だけならおいしい。
しかし、そのあとの茶を消してしまっていた。
「失敗だ……」
晴舎は頷いた。
「良い材料を多く使えば、良い膳になるとは限らぬ。今日の主役は何だ」
「宇治のお茶」
「ならば、料理はどこまで退くべきか考えよ」
茶太郎は材料を見つめ直した。
味噌を外した。
鶏肉も使わない。
山椒と柚子にも手を伸ばしかけたが、戻した。
「蕪と、昆布だけにする」
「椎茸は?」
「おいしいけど……新茶の香りと重なるから、今日は入れない」
昆布の出汁を薄く引き、同じ大きさに切った蕪を静かに煮る。
味つけは、ひとつまみの塩だけ。
だが、茶太郎が味見をすると、少し物足りなかった。
足したい。
味噌を一匙入れれば、もっとおいしくなる。
それでも茶太郎は、茶壺から立つかすかな香りを思い出した。
「もう少し煮て。蕪の甘みが出るまで待つ」
強い味を加える代わりに、時間を使った。
やがて澄んだ汁に、蕪の柔らかな甘みが溶け出した。
仕上がった一椀には、白い蕪が三切れ浮かぶだけだった。
《水霊初香の蕪椀》
紹鴎は椀を取り、一口飲んだ。
目立った反応はない。
そのまま新茶を口へ運ぶ。
しばらくして、紹鴎は茶碗を置いた。
「この椀を考えたのは、誰ですか」
茶太郎は晴舎の後ろから、おそるおそる顔を出した。
「ぼくです。でも、最初はいっぱい入れて……失敗しました」
「そうでしょうな」
紹鴎はわずかに笑った。
「多く持つ者ほど、飾りたくなる。しかし茶の前では、持つものを手放す勇気が要る」
紹鴎は空になった蕪椀を見つめた。
「この椀には、何もないのではない。茶の香りが入る場所が残されている」
茶太郎は、自分の小さな手を見た。
料理とは、何かを加えることだと思っていた。
けれど、食べる人や、その後に続くもののために、あえて入れない料理もある。
「おいしくできるものを、入れないのも料理なの?」
「それを選べる者が、料理人です」
晴舎が答えた。
茶事が終わると、紹鴎は茶太郎へ一枚の懐紙を渡した。
そこには短く記されていた。
――一味を足す前に、一息置くべし。
「いつか堺へ来ることがあれば、あなたの料理をもう一度いただきたい」
「堺……遠い?」
「五歳の足には遠いでしょう。ですが、縁が続けば道は近づきます」
茶太郎は懐紙を見習い札と重ね、大切に包んだ。
帰り道、茶丸が尋ねる。
「……ニャッ(今日は何を覚えた)」
茶太郎は少し考えてから答えた。
「作れるからって、全部作らなくていい。入れられるからって、全部入れなくていい」
茶丸の尻尾が、満足そうに揺れた。
その夜、茶太郎は帳面に二つの椀を描いた。
一つは、味噌、鶏、椎茸、山椒、柚子を詰め込んだ失敗の椀。
もう一つは、蕪が三切れだけ浮かぶ澄んだ椀。
失敗した椀も消さなかった。
何を入れたかだけでなく、なぜ外したのかを忘れないために。
幕府台所で始まった小さな修行は、茶太郎に料理の新しい形を教えていた。
足す知恵と、引く勇気。
その二つが揃ったとき、料理は初めて、次に訪れる味へ道を譲るのだった。




