第164話 「幕府台所の見習い札と、揃わない十切れ」
菊童丸が白粥を食べた日から、七日が過ぎた。
宇治の茶畑へ、幕府から一通の書状が届く。
宗次が読み上げた。
「菊童丸様は、少しずつ食べられるようになったそうや。進士晴舎殿が、茶太郎を幕府の台所へ招きたいと書いてある」
茶太郎の顔が輝く。
「ぼく、料理番になれるの?」
志乃は、浮き立つ息子の額を指でつついた。
「見習いの、そのまた見習いよ。道三先生の許しが出た半日だけ。火と刃物には勝手に近づかないこと」
「……はい」
曲直瀬道三の診立ても同じだった。
「料理人になる前に、五歳の身体を壊さぬこと。それも修行じゃ」
こうして茶太郎は両親に伴われ、幕府の台所を訪れた。
板敷きの広間には、包丁、真魚箸、膳、椀が順序正しく並んでいた。
煮炊きの音は絶えないのに、誰も走らない。声も必要な分しか飛ばない。
奥から、内膳頭の進士晴舎が現れた。
「白粥の件、礼を申す」
晴舎は頭を下げたが、すぐに厳しい顔へ戻った。
「されど、一度よい料理を作ったからといって、料理番になれるわけではない」
茶太郎は背筋を伸ばした。
「はい」
「では、手を洗え」
最初に任されたのは、料理ではなかった。
手と爪を洗い、布巾を煮沸する。椀の欠けを調べ、米を升で量り、使った道具の数を確かめる。
茶太郎が大鍋へ近づこうとすると、晴舎の声が飛んだ。
「まだだ。火の前に立つ者は、自分が何を持ち、何を置いたか覚えておらねばならぬ」
茶丸が足元で短く鳴く。
「……ニャッ(基本だ)」
ようやく茶太郎の前へ、柔らかく茹でた蕪と木製の練習包丁が置かれた。
「これを十切れ、同じ大きさにせよ」
「それだけ?」
茶太郎は慎重に切った。
ところが、並べてみると太いもの、薄いもの、斜めになったものが混じっている。
直そうとして削るうちに、二つはずいぶん小さくなってしまった。
「……揃わない」
晴舎は一番厚い切れと、一番薄い切れを持ち上げた。
「同じ鍋へ入れれば、片方が煮える頃には、片方が崩れる」
「味が同じでも……だめ?」
「百人へ出す料理では、百椀が同じ時に仕上がらねばならぬ。霊性も珍しい発想も、その後だ」
茶太郎は唇を結んだ。
これまで、味を感じ取れば料理は作れた。だが、同じものを正確に繰り返す技は足りていなかった。
茶丸も手を貸さない。
土霊で蕪を揃えることはできても、それでは茶太郎の腕にならないからだ。
二度目。
茶太郎は細い竹片を一本借り、その長さを目安にした。
一切れごとに並べ、比べ、ずれていれば次の切り方を直す。
十切れすべて同じとはいかなかった。それでも、最初より形は近づいた。
晴舎は黙って蕪を鍋へ入れた。
やがて、十切れはほぼ同時に柔らかくなった。
「今日は、ここまでだ」
「できてないよ」
「だから、次がある」
その言葉に、茶太郎は顔を上げた。
隣の膳所では、若い料理人が記録を読みながら菊童丸の白粥を作っていた。
米と水だけ。柔らかく煮て、潰し、丁寧に裏ごしする。
茶太郎は何も指示しなかった。それでも、あの日と同じ白粥が椀へ注がれていく。
「ぼくがいなくても、作れてる……」
「料理番の仕事は、自分だけが作れる味を誇ることではない」
晴舎は静かに答えた。
「必要な味を、誰かが同じように作れる形で残すことだ」
別室では、義晴が幼い菊童丸を抱いていた。
白粥をひと匙差し出し、口を開けるまで急かさず待っている。
菊童丸が食べると、義晴は声を上げず、ただ目元を緩めた。
その所作だけで、茶太郎には分かった。
父はもう、将軍の子としてではなく、目の前の幼子を見ている。
帰り際、晴舎は小さな木札を差し出した。
表には「台所見習」と墨書されている。
「月に一度、半日だけ来い。まず洗い方、量り方、火の見方を覚えよ。包丁を持つのは、その後だ」
茶太郎は木札を両手で受け取った。
「はい。次は、十切れ揃えます」
「九切れでもよい。昨日より一つ多く揃えよ」
秘密基地へ戻った茶太郎は、木札を皆に見せた。
レオが目を輝かせる。
「……茶太郎……料理番……?」
「まだ見習いだよ。それに、蕪も揃えられなかった」
ゆかりの糸が、細い金色となって木札へ結ばれた。
「でも、その糸……先へ続いてる」
茶太郎は失敗した蕪の形を帳面へ描いた。
上手にできた料理ではなく、揃わなかった十切れを、最初の修行の記録として残すために。
茶丸が、その隣へ前足を置く。
「……ニャッ(ここからだ)」
茶太郎は頷いた。
まだ見えない未来も、一切れずつ、自分の手で揃えていけばいい。
小さな見習い札は、やがて天下の台所へ続く、最初の一歩となる。




