第163話 「幼き菊童丸(きくどうまる)と、水霊若葉の白粥」
――食べさせる前に、怖くない場所を作る――
翌朝。
茶太郎は道三の診察を受けてから、ようやく布団を出ることを許された。
「今日は小戸を開かぬこと。走らぬこと。疲れたら、すぐ休むこと」
「はい」
「料理も一人で作らぬこと」
「……はい」
返事が少し小さくなった。
父・宗次と母・志乃、曲直瀬道三が同行し、茶太郎は南禅寺近くの幕府御所へ向かった。
足利義晴は、幼い菊童丸を抱いて待っていた。
後の足利義輝となる子だが、今はまだ一歳ほど。
政治も剣も知らず、父の衣を小さな手で握っている。
「昨日から、粥もほとんど口にせぬ」
義晴の顔には、六角堂の会談とは違う緊張が浮かんでいた。
「甘い物なら食べるのではないかと思い、蜂蜜を用意させた」
茶太郎は蜂蜜の壺を見て、すぐに首を横へ振った。
「今日は使いません」
周囲の侍女たちが驚く。
「蜂蜜は滋養のある貴重品です」
「貴重でも、幼い子に何でも使っていいわけじゃないです。どこで採れたか、いつ壺へ入れたかも分かりません」
菊童丸はまだ身体が小さい。
初めて口にする物をいくつも混ぜれば、具合を崩した時に原因を見分けられない。
道三も蜂蜜の壺を下げさせた。
「まずは御身体を診まする」
熱はない。
腹もひどく張ってはいない。
喉にも強い腫れは見られなかった。
ただ、菊童丸はしきりに指を口へ入れ、歯茎を気にしている。
「歯が生え始め、口の中がむずがゆいのでしょう。硬い物や熱い物を嫌がっているのかもしれませぬ」
「病ではないのか」
「今のところ、大きな病の兆しは見えませぬ。ただし熱や下痢、嘔吐が出れば、改めて診る必要があります」
茶太郎は、菊童丸が食べるところを見せてもらった。
侍女が粥を一匙すくう。
「若君、お口を開けてくださいませ」
「さあ、もう一口」
「食べねば強くなれませぬ」
周囲から何人もの声が掛かる。
菊童丸は顔を背け、父の胸へしがみついた。
粥の器へ近づく前から、泣き始めている。
「食べ物が嫌なんじゃなくて、食べる時間が怖くなってるのかも」
茶太郎が言うと、侍女の一人が眉をひそめた。
「若君のためを思って、お勧めしているのです」
「みんなに見られて、口を開けてって言われたら、ぼくも嫌になる」
宗次が茶太郎の肩へ手を置く。
「まず、人を減らしてみてはいかがでしょう」
義晴は少し迷った後、侍女たちを下がらせた。
部屋へ残ったのは、義晴、道三、宗次、志乃、茶太郎だけ。
茶丸は廊下で待つ。
菊童丸の泣き声は、少しずつ小さくなった。
「料理を作ります。でも、食べさせるのは義晴様にお願いします」
「私が?」
「お父さんだから」
義晴は困った顔をした。
「戦や政の指図ならできる。だが、幼子へ粥を食べさせたことはない」
「ぼくのお父さんも、最初から上手だったわけじゃないと思う」
宗次が咳払いする。
「余計なことは言わなくてよい」
志乃が笑った。
「茶太郎へ最初に粥を食べさせた時、匙を傾けすぎて全部こぼしたものね」
「志乃まで……」
部屋の緊張が、少しほどけた。
茶太郎たちは、白米を十分に柔らかく煮た。
粒が残ったままの粥を一部取り分け、さらに湯を加えてすり潰す。
細かな布で濾し、口当たりを滑らかにした。
味噌も塩も入れない。
出汁も、初めの一口には使わない。
温度を確かめ、人肌より少し温かい程度まで冷ます。
《水霊若葉の白粥》。
最初の一匙は、ごく少量だった。
「菊童丸」
義晴が名を呼ぶ。
家臣へ命令する時とは違う、ぎこちない声だった。
菊童丸は匙を見て顔を背ける。
「無理に口へ入れないでください」
茶太郎は少し離れた場所から言った。
「待ちましょう」
義晴は匙を持ったまま待った。
菊童丸は父の顔を見る。
白粥を見る。
また父の顔を見る。
やがて、自分からわずかに口を開いた。
義晴が慎重に匙を運ぶ。
半分ほどが口へ入り、残りは菊童丸の顎へ流れた。
「こぼれた」
「最初はそんなものです」
宗次が、どこか遠い目で答えた。
菊童丸は泣かなかった。
口の中の白粥を飲み込み、父が持つ匙へ手を伸ばす。
「もう一口、食べるか」
今度は、義晴の声が少し柔らかくなった。
二口。
三口。
茶太郎は、そこで止めた。
「もっと食べられそうだが」
「最初から多くしない方がいいです。少し休んで、欲しがったらまたにしましょう」
「食べられる時に食べさせた方がよいのではないか?」
道三が首を横へ振る。
「食べた量だけでなく、その後に吐かぬか、腹を壊さぬかを見る必要がございます」
義晴は名残惜しそうに匙を置いた。
菊童丸は父の指をつかみ、そのまま離さない。
「この子が生まれてから、私は何を教えるかばかり考えていた」
義晴は小さな手を見つめた。
「将軍家の礼法、武家の覚悟、政の難しさ。だが、この子が何を怖がっているかを、見ようとしていなかったのかもしれぬ」
「菊童丸くんは、まだ話せないから」
茶太郎は答えた。
「だから、顔とか手とか、食べ方を見るしかないんだと思います」
義晴は静かにうなずいた。
その日、菊童丸が食べた白粥は、椀の四分の一にも満たなかった。
それでも義晴にとっては、豪華な饗応膳より忘れがたい一椀となった。
帰り際、義晴は《水霊若葉の白粥》の木札を受け取った。
「この作り方を、御所の者にも教えてよいか」
「はい。でも、菊童丸くんの様子を見ながら作ってください」
「承知した」
茶太郎は父と母の間を歩きながら、何度か休憩を取った。
疲れていないふりはしなかった。
幼い菊童丸が自分の速さで食べたように、茶太郎も自分の速さで進む。
その背後で義晴は、眠り始めた我が子を、自らの腕で抱き続けていた。




