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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第三章 ~五歳の茶太郎、伏見へ――南へ広がる水輪~
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第163話 「幼き菊童丸(きくどうまる)と、水霊若葉の白粥」

 ――食べさせる前に、怖くない場所を作る――


 翌朝。

 茶太郎は道三の診察を受けてから、ようやく布団を出ることを許された。


「今日は小戸を開かぬこと。走らぬこと。疲れたら、すぐ休むこと」


「はい」


「料理も一人で作らぬこと」


「……はい」


 返事が少し小さくなった。


 父・宗次と母・志乃、曲直瀬道三まなせ・どうさんが同行し、茶太郎は南禅寺近くの幕府御所へ向かった。

 足利義晴あしかが・よしはるは、幼い菊童丸きくどうまるを抱いて待っていた。


 後の足利義輝となる子だが、今はまだ一歳ほど。

 政治も剣も知らず、父の衣を小さな手で握っている。


「昨日から、粥もほとんど口にせぬ」


 義晴の顔には、六角堂の会談とは違う緊張が浮かんでいた。


「甘い物なら食べるのではないかと思い、蜂蜜を用意させた」


 茶太郎は蜂蜜の壺を見て、すぐに首を横へ振った。


「今日は使いません」


 周囲の侍女たちが驚く。


「蜂蜜は滋養のある貴重品です」


「貴重でも、幼い子に何でも使っていいわけじゃないです。どこで採れたか、いつ壺へ入れたかも分かりません」


 菊童丸きくどうまるはまだ身体が小さい。

 初めて口にする物をいくつも混ぜれば、具合を崩した時に原因を見分けられない。

 道三も蜂蜜の壺を下げさせた。


「まずは御身体を診まする」


 熱はない。

 腹もひどく張ってはいない。

 喉にも強い腫れは見られなかった。

 ただ、菊童丸きくどうまるはしきりに指を口へ入れ、歯茎を気にしている。


「歯が生え始め、口の中がむずがゆいのでしょう。硬い物や熱い物を嫌がっているのかもしれませぬ」


「病ではないのか」


「今のところ、大きな病の兆しは見えませぬ。ただし熱や下痢、嘔吐が出れば、改めて診る必要があります」


 茶太郎は、菊童丸きくどうまるが食べるところを見せてもらった。

 侍女が粥を一匙すくう。


「若君、お口を開けてくださいませ」


「さあ、もう一口」


「食べねば強くなれませぬ」


 周囲から何人もの声が掛かる。


 菊童丸きくどうまるは顔を背け、父の胸へしがみついた。

 粥の器へ近づく前から、泣き始めている。


「食べ物が嫌なんじゃなくて、食べる時間が怖くなってるのかも」


 茶太郎が言うと、侍女の一人が眉をひそめた。


「若君のためを思って、お勧めしているのです」


「みんなに見られて、口を開けてって言われたら、ぼくも嫌になる」


 宗次が茶太郎の肩へ手を置く。


「まず、人を減らしてみてはいかがでしょう」


 義晴は少し迷った後、侍女たちを下がらせた。

 部屋へ残ったのは、義晴、道三、宗次、志乃、茶太郎だけ。

 茶丸は廊下で待つ。


 菊童丸きくどうまるの泣き声は、少しずつ小さくなった。


「料理を作ります。でも、食べさせるのは義晴様にお願いします」


「私が?」


「お父さんだから」


 義晴は困った顔をした。


「戦や政の指図ならできる。だが、幼子へ粥を食べさせたことはない」


「ぼくのお父さんも、最初から上手だったわけじゃないと思う」


 宗次が咳払いする。


「余計なことは言わなくてよい」


 志乃が笑った。


「茶太郎へ最初に粥を食べさせた時、匙を傾けすぎて全部こぼしたものね」


「志乃まで……」


 部屋の緊張が、少しほどけた。


 茶太郎たちは、白米を十分に柔らかく煮た。

 粒が残ったままの粥を一部取り分け、さらに湯を加えてすり潰す。

 細かな布で濾し、口当たりを滑らかにした。


 味噌も塩も入れない。

 出汁も、初めの一口には使わない。

 温度を確かめ、人肌より少し温かい程度まで冷ます。


 《水霊若葉すいれいわかばの白粥》。


 最初の一匙は、ごく少量だった。


菊童丸きくどうまる


 義晴が名を呼ぶ。

 家臣へ命令する時とは違う、ぎこちない声だった。

 菊童丸きくどうまるは匙を見て顔を背ける。


「無理に口へ入れないでください」


 茶太郎は少し離れた場所から言った。


「待ちましょう」


 義晴は匙を持ったまま待った。


 菊童丸きくどうまるは父の顔を見る。

 白粥を見る。

 また父の顔を見る。

 やがて、自分からわずかに口を開いた。


 義晴が慎重に匙を運ぶ。

 半分ほどが口へ入り、残りは菊童丸きくどうまるの顎へ流れた。


「こぼれた」


「最初はそんなものです」


 宗次が、どこか遠い目で答えた。


 菊童丸きくどうまるは泣かなかった。

 口の中の白粥を飲み込み、父が持つ匙へ手を伸ばす。


「もう一口、食べるか」


 今度は、義晴の声が少し柔らかくなった。


 二口。

 三口。

 茶太郎は、そこで止めた。


「もっと食べられそうだが」


「最初から多くしない方がいいです。少し休んで、欲しがったらまたにしましょう」


「食べられる時に食べさせた方がよいのではないか?」


 道三が首を横へ振る。


「食べた量だけでなく、その後に吐かぬか、腹を壊さぬかを見る必要がございます」


 義晴は名残惜しそうに匙を置いた。

 菊童丸きくどうまるは父の指をつかみ、そのまま離さない。


「この子が生まれてから、私は何を教えるかばかり考えていた」


 義晴は小さな手を見つめた。


「将軍家の礼法、武家の覚悟、政の難しさ。だが、この子が何を怖がっているかを、見ようとしていなかったのかもしれぬ」


菊童丸きくどうまるくんは、まだ話せないから」


 茶太郎は答えた。


「だから、顔とか手とか、食べ方を見るしかないんだと思います」


 義晴は静かにうなずいた。


 その日、菊童丸きくどうまるが食べた白粥は、椀の四分の一にも満たなかった。

 それでも義晴にとっては、豪華な饗応膳より忘れがたい一椀となった。


 帰り際、義晴は《水霊若葉の白粥》の木札を受け取った。


「この作り方を、御所の者にも教えてよいか」


「はい。でも、菊童丸きくどうまるくんの様子を見ながら作ってください」


「承知した」


 茶太郎は父と母の間を歩きながら、何度か休憩を取った。

 疲れていないふりはしなかった。


 幼い菊童丸きくどうまるが自分の速さで食べたように、茶太郎も自分の速さで進む。

 その背後で義晴は、眠り始めた我が子を、自らの腕で抱き続けていた。

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『茶太郎がゆく』
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