第156話 「六角堂の同じ椀と、偽りの急使」
――料理は和解を命じず、話を続ける時間を作る――
六角堂の白い敷石を挟み、幕府方と三好方が向かい合った。
幕府方の中央に立つのは、将軍・足利義晴。
三好方からは、三好長慶と三好長逸が出席する。
双方とも、連れてきた供回りは最小限だった。
刀は本堂へ入る前に、それぞれの従者へ預ける。
幕府方だけでも、三好方だけでもない。町組の者が、預けられた刀の数を木札へ記した。
墨屋宗白が一礼する。
「本日の会談は、どちらが上かを決めるものではございません。下京の火付けと偽命令について、同じ証拠を改めるための場です」
義晴と長慶は、同時に白い敷石へ足を進めた。
どちらか一方を先へ通さないため、甚八が考えた二つの入口が役立った。
会談の卓には、山科言継が座る。
その前には、三本爪の帳面、偽の荷印、油倉で見つかった書状が並べられていた。
すべて幕府方、三好方、町組の三者が封を確認している。
「始める前に、膳をいただこう」
義晴の言葉を受け、最初の椀が運ばれた。
《水霊三縁の澄み膳》。
近江の昆布と燻しモロコ。
宇治の干し椎茸。
二つの出汁を合わせた、淡く澄んだ汁だった。
茶太郎が椀の前で説明する。
「最初の一口は、みんな同じ味です。その後で、好みの薬味や味噌を足してください」
義晴は木の芽を選び、長慶は少量の味噌を溶いた。
同じ汁から始まりながら、最後の味は違う。
「同じに見えても、好みまで同じではないか」
義晴が言う。
長慶は椀を置いた。
「違うことが、すぐ争う理由になるとは限りません」
それ以上の言葉はなかった。
だが、会談を始めるには十分だった。
言継が三本爪の帳面を開く。
「下京の汚染井戸、四条の油倉、宇治へ運ばれた偽の茶荷。三つの事件に、同じ印が残されております」
幕府の奉公衆が書状を確認する。
「この命令文は、幕府の書式に似せておる。しかし用語が一部異なる」
三好方の祐筆も偽の触書を示した。
「こちらは三好家の荷改め印を真似ておりますが、押す位置が逆です」
両方を詳しく知る者が作った偽文。
敵は幕府方にも、三好方にも出入りしている可能性があった。
「三好家中に内通者がいると申すのか」
義晴が長慶を見る。
「幕府方にもいるかもしれません」
長慶は視線をそらさなかった。
「ゆえに、どちらか片方だけで調べることはできませぬ」
空気が張りつめた、その時だった。
六角堂の外から、激しく板木が鳴った。
一人の使者が庭へ駆け込んでくる。
「申し上げます! 三好方の兵が、六角堂の西を囲んでおります!」
幕府方の奉公衆が立ち上がった。
「長慶殿、これはどういうことか!」
三好方の武者も腰へ手を伸ばす。しかし刀は入口へ預けてあり、そこに武器はない。
長逸が使者を睨む。
「我らの兵には、宇治より動くなと命じてある」
「偽りを申すな! 既に町人が見たと――」
「待ってください」
茶太郎が声を上げた。
義晴と長慶の間へ入ったわけではない。
厨房の入口から、父のそばに立ったまま尋ねた。
「見た人は、誰ですか?」
使者は答えに詰まった。
「そ、それは……西の町の者が……」
「名前は?」
「急ぎゆえ、聞いておらぬ!」
宗白が静かに立ち上がる。
「私どもの町組には、そのような知らせは届いておりません」
屋根の上から虎吉が鳴いた。
「ニャッ!」
茶丸が念話を受け取る。
『……西に兵はいない……荷車が三台……止まっているだけだ……』
弥七と日置雪は、裏口から確認へ向かった。
会談は中断されたが、義晴も長慶も席を立たなかった。
進士晴舎が二杯目の澄まし汁を運ぶ。
「冷めまする」
短い一言だった。
義晴は再び椀を手に取った。
長慶も続く。
もし料理がなければ、双方は立ち上がり、疑いを抱えたまま別々の場所へ戻っていたかもしれない。
料理は、誰かを信じさせたわけではない。
ただ、確認が終わるまで卓へ残る時間を作った。
やがて弥七と雪が戻ってきた。
「兵はおりません」
「西にあったのは、槍を積んだように見せた荷車です。中身は竹と古布でした」
雪は一枚の板札を差し出した。
「荷車には、三好家の偽印が付けられていました」
急使の顔から血の気が引く。
「私は……西の路地で、この札を渡されただけだ。急いで知らせれば銭をやると……」
また一人、偽りを運ぶために利用された者だった。
義晴は男を見つめた後、奉公衆へ命じる。
「斬るな。誰から渡されたかを調べよ」
長慶も家臣を制した。
「三好方だけで取り調べれば、口を封じたと疑われる。幕府方、三好方、町組から一人ずつ立ち会わせる」
宗白が深く頭を下げた。
「町組より、私が立ち会いましょう」
会談は再開された。
話し合いの末、三者による共同の調べ組が置かれることになった。
幕府から奉公衆。
三好から長逸。
下京から宗白。
山科言継が、調査記録の写しを預かる。
捕縛や家探しは一方だけで行わず、三者の確認を経る。
完全な信頼ではない。
だが、疑いを理由に先に刃を抜かないための決まりが作られた。
膳の最後に、茶太郎は小さな元気玉を出した。
義晴が一つ手に取る。
「これが、長慶殿へ届けられたという菓子か」
「携帯食です。忙しい時でも食べられるように作りました」
「私にもあるのか」
「同じ箱から出しました」
義晴は元気玉を口へ入れた。
蜂蜜と水飴の甘みが広がる。
「なるほど。長慶殿が返書を急いだ理由が分かった」
「それは証拠を重んじたからでございます」
長慶は真顔で答えたが、元気玉をもう一つ取っていた。
義晴はそれを見て、わずかに笑う。
「甘味を好むことは、恥ではあるまい」
「将軍様も二つ目でございますな」
「これは味を確かめている」
「私も同じです」
広間に小さな笑いが生まれた。
会談を終えた義晴は、茶太郎へ声をかけた。
「我が子・菊童丸は、まだ言葉も話せぬ」
後に義輝となる幼子の名だった。
「されど、いずれ将軍家の重さを背負わせることになる。私は父として、何を残すべきであろうな」
茶太郎はすぐには答えられなかった。
「分かりません。でも……一緒に食べた味は、残ると思います」
「一緒に食べる、か」
義晴はしばらく黙り、元気玉を一つ懐紙へ包んだ。
「これは菊童丸へはまだ早い。私が食べる。代わりに、あの子が口にできる物を、いつか作ってくれ」
「はい」
幕府と三好の争いが消えたわけではない。
三本爪の黒幕も、まだ見つかっていない。
それでも六角堂の卓では、疑いから始まるはずだった一日が、同じ記録と同じ椀を守る約束へ変わった。
白蓮の奥で、救世観音が静かに目を閉じる。
一針目は、確かに結ばれていた。




