第16話 「大吉山の邂逅:レオ、影の中から」
――名もない鵺の子が、自分の居場所を選ぶ日――
翌朝、茶太郎たちは再び大吉山へ向かった。
先頭を歩くのは、かん太。伊平じいさんが古い山道を案内し、茶太郎と縁がその後ろを進む。茶丸と希太も、周囲の気配を警戒していた。
こたろは志乃とお地蔵さまに見守られ、秘密基地で留守番である。
「ぼくも行く」と最後まで粘ったが、足場の悪い洞穴へ大勢で近づくのは危険だった。
茶太郎は、布で包んだ分福茶釜と、名を失った瓢箪を大切に抱えている。出発前、分福が沸かした湯も用意してきた。
「茶太郎。洞穴へ入るんは、兄ちゃんが安全を確かめてからや」
「うん。勝手に近づかない」
山の奥へ進むほど、空気が冷たくなった。
鳥の声が消え、木々の間には黒い霧が漂っている。
「糸が震えてる」
縁には、黒と赤の糸が洞穴の方角へ集まる様子が見えていた。
「怒ってるんじゃない。怖がって、絡まってるみたい」
『昨日より怨気が強い』
茶丸は地面の匂いを確かめた。
『我らが戻ってくるのを、待っていたのかもしれぬ』
◇
岩陰の洞穴へ着くと、伊平じいさんは少し離れた場所で足を止めた。
「わしはここで退路を見とる。中の様子は、かん太に任せるぞ」
「じいさんも無理に動かんといてや」
「誰に言うとる。山道なら、まだお前より詳しいわい」
かん太は洞穴の入口を調べ、すぐに崩れる危険がないことを確かめた。ただし、奥へは入らない。茶太郎たちも入口から距離を取り、外で待つことにした。
茶太郎は洞穴へ向かって呼びかける。
「鵺の子。昨日の茶太郎だよ」
暗闇の中で、二つの金色の瞳が開いた。
「……また来たの?」
「うん。でも、嫌なら近づかない」
茶太郎はその場へ座り、分福を地面へ置いた。
「話を聞きに来たんだ」
「ぼくと話したら……怖いものを見るよ」
洞穴の中で、小さな影が揺れた。
猿に似た顔。
狸のような丸い胴。
虎を思わせる四肢。
蛇のように細い尾。
どれも完全な姿にはならず、黒い霧の中で現れては消えていく。
「ぼく、自分が何の子か分からない」
震える声が続いた。
「見る人が怖いと思った形に、勝手に変わるんだ」
茶太郎の舌へ、冷たい味が広がった。
姿を見られる恐怖。
誰かを傷つけるかもしれない不安。
それでも、一人でいることには耐えられない寂しさ。
「姿が変わっても、君の声は同じだよ」
「声……?」
「昨日も今日も、怖いって言ってる。僕には、同じ子の声に聞こえるよ」
黒い霧が、わずかに揺れた。
◇
そのとき、洞穴の奥から別の声が響いた。
『怪物ノ子』
『人ヲ喰ラウ』
『見ツケタラ殺セ』
鵺を恐れた人々が、長い年月をかけて重ねてきた声だった。
黒い霧はその言葉を吸い込み、大きく膨れ上がる。
「違う!」
鵺の子が叫んだ。
「ぼくは、誰も食べてない!」
叫ぶほどに霧は激しく渦を巻き、洞穴の外へ押し寄せた。
「来ないで! また、みんなを傷つける!」
「下がれ!」
かん太が茶太郎たちの前へ立つ。
茶丸も四肢で地面を踏みしめた。
『子を傷つけるな。怨気だけを止める』
金色の霊気が土へ流れ、低い壁となって霧を受け止めた。
しかし、黒い糸の一本が壁を回り込み、縁の足元へ伸びてくる。
『ゆかりに触るな!』
希太が飛びかかり、黒い糸へ噛みついた。
「希太!」
糸に触れた希太の体が震える。それでも噛んだ糸を離さない。
その姿を見て、鵺の子が息をのんだ。
「猫さん……痛いの?」
『少し痛いにゃ』
希太は黒い糸を吐き出し、荒い息をついた。
『でも、お前が痛がらせたいわけじゃないのも分かるにゃ』
希太の言葉を、茶太郎が鵺の子へ伝えた。
「希太は、君を怒ってない」
「でも、ぼくの霧が……」
「この霧は、君だけのものじゃないよ」
縁が絡み合う糸を見つめる。
「鵺を怖がった人たちの気持ちが、君にくっついてる。君の怖さと、人の怖さが混ざってるの」
鵺の子は、自分を包む黒い霧を見た。
「じゃあ……ぼくが全部悪いんじゃないの?」
「君が誰かを傷つけたら、そのこととは向き合わないといけない」
茶太郎は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「でも、まだしていないことまで、君の罪にはならないよ」
◇
人々の声が再び響き、黒い霧が膨れ上がった。
茶太郎は名を失った瓢箪を取り出す。中には、分福の湯とは別に、宇治川から分けてもらった清い水を入れてきた。
蓋を開けると、水が白金色に輝く。
瓢箪から薄い光の幕が広がり、茶太郎たちと鵺の子を包み込んだ。
霧を消せるほど強い力ではない。
それでも、押し寄せた黒い糸を一度だけ外へ押し戻した。
「今のうちじゃ、茶太郎はん」
分福が蓋を鳴らす。
「福は押しつけるもんやない。あの子が受け取れる場所へ、湯を置いてやれ」
茶太郎は分福から湯を椀へ移した。
布に包んで運んできたため、湯にはまだわずかな温かさが残っている。そこへ茶葉を一枚だけ浮かべ、洞穴の入口へ置いた。
「ここに置いておくね。飲まなくてもいいよ」
「飲んだら……ぼくは変わるの?」
「君を別のものには変えないよ。ただ、少し落ち着けるかもしれない」
茶太郎たちは、椀からゆっくり離れた。
しばらくすると、黒い霧の中から小さな前足が伸びてきた。白金色の毛に覆われた、震える足だった。
鵺の子は椀を引き寄せ、湯をひと口飲む。
「……温かい」
霧の勢いが、少しずつ弱まった。
完全には消えない。
けれど、その奥に一つの姿が見え始めた。
白金色の毛。
猿に似た幼い顔。
狸のように丸みを帯びた胴。
虎を思わせる四肢。
蛇のように細い尾。
異なる獣の特徴を持ちながらも、それは確かに一匹の幼い霊獣だった。
縁が、息をのむ。
「糸が分かれていく……」
鵺の子自身が抱いていた恐れと、人々から押しつけられた恐れ。
二つはまだ近くにある。それでも、同じものではないと分かる程度には、糸がほどけ始めていた。
◇
「ぼく、名前がない」
鵺の子が呟いた。
「名前がないと、誰でもないの?」
「そんなことないよ」
茶太郎は首を横に振る。
「名前がなくても、君はここにいる」
「でも……呼ばれる名前がほしい」
「どんな名前がいい?」
鵺の子は答えられなかった。
茶太郎は前の世で知った、短い言葉を思い出す。
獅子を表す名前。
強さだけではなく、大切な仲間を守る姿を思わせる響きだった。
「レオ、という名前はどう?」
「レオ……」
「前の世で、獅子を表す言葉として知った名前なんだ。嫌なら、別の名前を一緒に探そう」
鵺の子は何度も、その音を口の中で確かめた。
「レオ。ぼくが、自分で選んでもいいの?」
「もちろん」
金色の瞳が、初めて真っすぐ茶太郎を見た。
「ぼく、レオがいい」
その言葉とともに、黒い霧が大きく揺れた。
霧は砕け散るのではなく、白金色の体へゆっくり吸い込まれていく。
怨気はまだ残っている。
けれど、レオはその中で自分を見失わずに立っていた。
「ぼく……消えない?」
「怖くなることは、またあると思う」
茶太郎は安易に否定しなかった。
「そのときは、一人で我慢しないで。僕たちに教えて」
「また霧が出ても?」
「うん。みんなで、止め方を探すよ」
レオはしばらく迷い、洞穴の外へ一歩踏み出した。
朝の光が白金色の毛へ触れる。
「ぼくも……一緒に行っていい?」
「うん。まずは秘密基地へ行こう」
◇
秘密基地へ戻ると、こたろが志乃のそばから立ち上がった。
「新しい友達〜!」
「こたろ、急に近づいたら怖がるで」
かん太に止められ、こたろはその場へ座り直した。
「ぼく、こたろ。近づいてもいい?」
レオは茶太郎の後ろから顔を出し、小さく頷いた。
こたろは走らず、一歩ずつ近づいていく。レオの前まで来ると、同じ高さになるよう地面へ座った。
「よろしくね、レオ」
「……よろしく」
縁には、レオから皆へ伸びる細い糸が見えていた。
「まだ弱くて震えてる。でも、ちゃんとつながってるよ」
レオが秘密基地へ足を踏み入れる。
竹林を巡っていた白い糸が柔らかく揺れ、黒と金の糸を静かに迎え入れた。
そのとき、土地神が杖をつきながら姿を現した。
「どうやら、四つ目の濁りも帰る道を見つけたようじゃの」
「四つ目?」
「土、川、池、そして獣」
土地神は、竹林の外へ続く糸を見渡した。
「地脈を塞いでいた濁り。宇治川へ溜まった怒り。巨椋池へ沈んだ悲しみ。そして、獣へ押しつけられた恐れ。すべてが一度に消えたわけではない」
黒と金の糸は、まだレオの周囲で揺れている。
「じゃが、もう独りで濁りを抱えてはおらぬ。それぞれに、戻る流れと結ばれる場所ができた」
レオは秘密基地の中を見回した。
「ここなら、少し息がしやすい」
「ずっと住むかは、ゆっくり決めたらいいよ」
茶太郎が言った。
「でも、ここへ帰ってきたいと思ったら、帰ってきていい」
「……うん」
レオは初めて、小さく笑った。
その日、秘密基地が突然、強い聖域へ変わったわけではない。
ただ、怖さを抱えたままでも帰ってこられる場所が、一つ増えた。
茶太郎たちも知った。
名前を与えることと、その者を理解することは違う。
名前は相手を決めつけるためではなく、その者が自分の足で歩き始めるとき、呼びかけるためにあるのだと。
こうしてレオは、人々が恐れた怪物の名ではなく、自分で選んだ名を持って大吉山を下りた。
次に待っているのは、大勢の人が集まる縣祭。
人を恐れて山へ隠れていたレオにとって、初めて自分の居場所を試す日が近づいていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回、名もなかった鵺の子は「レオ」という名前を自分で選び、秘密基地へ加わりました。
恐れや怨気がすべて消えたわけではありません。それでも、一人で抱え込まずに帰れる場所ができたことが、レオにとって最初の一歩になります。
また、第7話から続いてきた「土・川・池・獣」の濁りも、これでひとまず一区切りです。
次回は「縣祭の支度」。茶太郎たちは祭りへ向けた茶料理の試作を始めます。大勢の人を怖がるレオが、そこでどんな役目を選ぶのかも見守っていただければ嬉しいです。




