第15話 「文福茶釜の目覚めと、名を忘れられた瓢箪」
――物の記憶を読み取る、新たな力――
大吉山の洞穴から鵺の子が姿を見せたとき、茶太郎の抱えていた茶釜は激しく鳴った。
けれど、茶太郎たちは鵺の子へ近づかなかった。
黒と金の毛を逆立て、ひどく怯えていたからだ。
「今日は帰ろう」
かん太の判断で、一行は日が暮れる前に山を下りた。
「無理に近づいたら、もっと怖がらせちゃう」
茶太郎も同意した。
ただし、鵺の子が茶釜の音へ反応したことだけは間違いない。
まず、この茶釜の正体を知らなくてはならなかった。
◇
翌朝、茶太郎は錆びた茶釜を秘密基地の中央へ置いた。
表面の泥を布で拭き、伊平じいさんに教わりながら、浮いた錆だけを少しずつ落としていく。
「乱暴に削ったらあかんぞ」
「うん。この子、痛がってる味がするから」
茶太郎が布を動かすたび、茶釜の内側から小さな音が返ってくる。
ぽん。
ぽこ。
「やっぱり生きてるよ〜!」
こたろが目を輝かせる。
縁には、錆の下へ隠れた金色の糸が見えていた。
「糸が、茶太郎の方へ伸びてる」
『茶太郎の霊性を求めているようだ』
茶丸が告げる。
『だが、力を一度に流すな。まずは何を望んでいるのか聞け』
茶太郎は茶釜へ両手を添えた。
力を与えようとはせず、冷たい鉄の奥にある味を確かめる。
水の清らかさ。
火の温かさ。
阿波の山を駆ける狸たちの記憶。
そして、大勢の者へ同じ湯を分けたいという願い。
「君は、お湯を沸かしたいんだね」
その言葉に、茶釜が強く震えた。
ぽんぽこぽん――。
茶太郎は亜空間収納から、うじまるにもらった清い水を取り出した。かん太が茶釜へ水を注ぎ、安全な場所へ用意した火鉢に載せる。
火が入ると、茶釜から白い湯気が立ち始めた。
茶太郎は少し離れた場所から、胸の温かな力を茶釜へ送る。
宇治川の水。
茶畑の地脈。
金長から受け取った狸の縁。
三つの力が茶釜の中でゆっくりと巡った。
「糸が金色に変わっていく」
縁が声を上げる。
錆の隙間から、柔らかな光が漏れ出した。
「ぽんぽこぽん! 熱い、熱いわい!」
突然、茶釜が叫んだ。
「しゃべった〜!」
こたろが飛び上がる。
茶釜から狸の耳と顔が浮かび、底から短い四本の足が現れた。
「長いこと眠らせおって。錆びついて、口も開かんところじゃったわい」
「ごめんね。痛かった?」
「少しな。じゃが、おぬしの水は悪くない」
茶釜は短い足で立ち上がり、体をぶるりと震わせた。残っていた錆が光の粒となって落ち、黒褐色の艶やかな肌が現れる。
「君の名前は?」
「長く呼ばれなんだから、ほとんど忘れてしもうた」
茶釜はしばらく考え、蓋を鳴らした。
「湯と福を皆へ分ける釜――《分福》とでも呼んでくれ」
「分福。いい名前だね」
「茶太郎はん。わしの湯は、飲む者の霊気を穏やかにする。ただし、病や毒を治す薬ではないぞ」
「うん。心を落ち着かせる水なんだね」
「そういうことじゃ」
茶太郎が湯を小さな椀へ受けると、水面に淡い光が浮かんだ。
その光を見た瞬間、茶太郎の意識へ、茶釜の記憶が流れ込んでくる。
大勢へ湯を分ける光景。
狸の手。
遠い土地の寺。
けれど、場所や人の名までは読み取れない。
「見える……分福が覚えてることが」
『霊性味覚が、物の記憶へ届いたのだ』
茶丸が茶太郎を見つめる。
『新しい力と呼ぶなら、《霊具見立て》だろう』
「鑑定とは違うの?」
『名や力を何もかも言い当てるものではない。物に残る味と記憶から、その性質を読み取る力だ』
茶太郎は頷いた。
「分からないことは、分からないままなんだね」
『だからこそ、見えたものを確かめる必要がある』
◇
「茶太郎。その力で見てほしい物がある」
伊平じいさんが、古びた瓢箪を持ってきた。
表面は黒ずみ、紐も切れかけている。かつて文字が書かれていたようだが、今はほとんど読めない。
「わしの家に昔からある物じゃ。誰が使ったのかも、何という名だったのかも分からん」
「触ってもいい?」
「ああ」
茶太郎は瓢箪へ両手を添えた。
冷たい土の味。
乾いた喉。
遠くで響く戦の音。
瓢箪の水を、傷ついた仲間へ分ける誰かの姿が見えた。
さらに、薄い光が人々を包み、飛んできた黒い気配を一度だけ弾く。
「昔、戦場で使われたみたい」
「どちらの軍か分かるか?」
「分からない。旗も文字も、ぼやけてる」
茶太郎は、見えたことだけを言葉にした。
「中に入れた水を長くきれいに保てる。それから、持っている人を短い間だけ守る力があるみたい」
「失われた名は?」
「そこまでは見えないよ」
縁が瓢箪から伸びる糸を追った。
「でも、大吉山の黒い糸が、この瓢箪を避けてる」
『鵺の子を傷つけず、怨気だけを防ぐ助けになるかもしれぬ』
茶丸が言った。
伊平じいさんは瓢箪を茶太郎へ差し出した。
「なら、持っていきな。使い終わったら、また一緒に本当の名を探してくれ」
「うん。必ず返すね」
「わしも山の古い道までは案内しよう。洞穴へ入るんは、かん太たちに任せるがな」
「無理したらあかんで、じいさん」
かん太が念を押す。
「分かっとる。まだ若い者の世話にはならん」
「道案内を頼んどる時点で、十分世話になってるで」
伊平じいさんは聞こえないふりをした。
分福が、ぽん、と蓋を鳴らす。
「茶太郎はん。鵺の子にも、わしの湯を分けるんじゃろ?」
「無理に飲ませないよ。まず、もう一度話してみる」
「それでええ。福は押しつけるものではないからの」
茶太郎は分福茶釜と、名を失った瓢箪を見つめた。
二つの霊具が、金色の糸で大吉山へつながっている。
鵺の子を救えるかは、まだ分からない。
それでも今度は、あの子の恐れへ近づく準備が整いつつあった。




