第14話 「大吉山の鵺の子と、槙島城の狸騒動」
――渋い狸と錆びた茶釜が、孤独な霊への道を開く――
大吉山へ向かう支度をしていた茶太郎のもとへ、槇島城から使いが来た。
長逸が、急ぎ城へ来てほしいという。
「鵺の子のところへ、行くつもりやったのに……」
茶太郎は、大吉山へ続く黒と金の糸を見つめた。
昨夜よりも細くなっている。それでも糸は切れず、山の奥で小さく震えていた。
「急を要する病人がおるらしい」
かん太が使いの文を確かめる。
「まず城へ行って、どんな具合か見てみよう。大吉山へ入るなら、朝の早いうちに出たほうがええ」
「今日のうちには行かないの?」
「病人を診てから山へ入ったら、戻るころには暗うなる。子どもを連れて行ける時間やない」
かん太の判断に、茶丸もうなずいた。
『鵺の気配は、まだ同じ場所にある。焦って暗い山へ入れば、かえって怯えさせるだけだ』
「……分かった。今日は槇島城へ行って、明日の朝に会いに行く」
茶太郎は山へ向かって、胸の中で呼びかけた。
――待ってて。必ず行くから。
黒と金の糸が、その声へ応えるように一度だけ揺れた。
◇
「茶太郎。急に呼び立てて、申し訳ない」
槇島城の門では、脇腹に布を巻いた長逸が待っていた。
まだ傷は塞がっていないが、顔色は前よりもよい。歩き方も慎重で、薬師の言いつけを守っていることが分かった。
「傷は大丈夫?」
「無理をしなければ問題ない。刀も抜いておらぬ」
「ちゃんと休んでる?」
「……昨日よりは」
「それ、休んでない人の言い方やで」
かん太に指摘され、長逸は気まずそうに目を逸らした。
「それで、病人はどこにいるの?」
「離れへ寝かせてある。阿波から来た霊狸なのだが、昨日から今にも死にそうな顔をしておる」
「霊狸?」
「城の薬師によれば、熱はなく、脈も乱れていない。命に関わる様子はないそうだ」
「それなら、どうして僕を?」
「本人が『茶太郎にしか救えぬ』と言い張っている」
長逸は深いため息をついた。
「私には、別の理由があるように思えるのだ」
◇
離れへ入ると、丸々とした狸が布団へ横たわっていた。
腹の上へ前足を載せ、天井を見つめている。枕元には空になった皿が何枚も重ねられていた。
「……来てくれたか」
狸が低く渋い声を出した。
「わしは、もう駄目かもしれん」
「どこが苦しいの?」
茶太郎は布団から少し離れた場所へ座った。
「腹が張って、体が重い。霊気も巡らぬ。立とうとしても、腹が邪魔をする」
「それは、いつものことやないの?」
こたろが狸の丸い腹を見つめる。
「この腹には、狸の威厳が詰まっとる」
『食べ物が詰まっているようにしか見えないにゃ』
希太は呆れたように尾を振った。
茶太郎は狸から伝わる味を確かめた。
病や傷の鋭い苦みはない。代わりに、団子の甘さ、餅の重さ、干し柿の濃い味、それに酒のような熱が腹の辺りで渦巻いていた。
「昨日、何を食べたの?」
「団子を少々」
「幾つ?」
「……十ほど」
「ほかには?」
「干し柿と、城の者にもろうた餅。それから霊酒を二杯……いや、三杯じゃったかのう」
部屋が静まり返った。
長逸は目を閉じ、額へ手を当てる。
「昨日から何度聞いても、団子のことしか話さなかったのだ」
「全部話したら、食べすぎやと叱られると思うたんじゃ」
「食べすぎだよ」
茶太郎がはっきり告げると、狸は顔を布団へ埋めた。
「やはり、そうか……」
「分かってたんやないか」
かん太の指摘に、こたろが声を上げて笑った。
「狸さん、食べすぎ〜!」
『情けないにゃ』
希太も同意する。
茶太郎は、すぐに料理を作ろうとはしなかった。
「城の薬師さんは、何て言ってたの?」
「今日は何も食べず、少しずつ湯を飲んで休めと」
「じゃあ、そのとおりにしよう」
「料理は作らんのか?」
狸が顔を上げる。
「今は、食べないほうがいいよ」
「料理人に呼ばせておいて、食べるなと言われるとは……」
「食べさせるだけが、料理人やないよ」
茶太郎は冷ました湯を入れた椀を、狸の前へ置いた。
「食べないほうが体にいいときは、作らずに待つのも大事なんだと思う」
「せめて団子を一つ……」
「だめ」
「半分……」
「だめ」
「匂いだけ……」
「それで我慢できるの?」
「できぬな」
狸は観念したように、冷まし湯を少しずつ飲んだ。
しばらく横になっていると、腹に滞っていた霊気が、わずかに動き始める。
「少し、軽うなった気がする」
「今日はちゃんと休んで。痛みが強くなったり、吐いたりしたら、すぐ薬師さんを呼んでね」
「分かった。茶太郎はんの言いつけなら従おう」
「薬師さんの言いつけやで」
長逸の言葉に、狸は聞こえないふりをして湯をすすった。
◇
「名前を聞いてもいい?」
「金長じゃ」
狸は壁へ背を預け、姿勢を整えた。
先ほどまで布団へ沈んでいた者と同じとは思えない、渋い表情を作っている。
「阿波の狸が、群れを導く者へ受け継いできた霊名じゃ。わしは今代の金長ということになる」
「金長さんは、どうして宇治へ来たの?」
縁が尋ねると、金長の周囲にあった黄色い糸が、暗く沈んだ。
「阿波の山で、狸同士の争いが起きた」
金長は腹の上へ前足を置く。
「化け比べや縄張り争いなら、昔からある。じゃが近頃、山奥に棲む黒狸たちが、怨気を使い始めた」
「怨気?」
「怒りや恐れを集め、相手の心へ流し込む力じゃ。腹にある小さな不満を膨らませ、仲間同士を争わせる」
茶太郎は、巨椋池や宇治橋で出会った黒い糸を思い出した。
「宇治の濁りと似てる……」
「わしも、そう考えて畿内まで来た」
金長は長逸へ視線を向ける。
「阿波と畿内を結ぶ三好の縁を頼り、同じような異変が起きておらぬか確かめたかったのじゃ」
「それで、槇島城へ?」
「うむ。じゃが長旅で腹が減っての。城の者から歓迎の品を出され、断るのも失礼かと思うて……」
「十個も食べたら、歓迎した人も心配するよ」
「わし、自分、不器用なんで……」
「食べ物を断れんことを、不器用とは言わへん」
かん太に言われ、金長は再び目を逸らした。
茶丸は笑わず、金長をまっすぐ見つめている。
『お前は、争いに敗れて阿波を離れたのか』
「……そうじゃ」
金長の渋い表情が崩れた。
「怨気に呑まれた仲間を止められなんだ。争いが広がり、山の霊水まで濁った」
黄色い糸へ、深い灰色が混じる。
「守ると言いながら、何も守れんかった。わしに足りぬ力を探すため海を渡ったが……本当は逃げてきただけかもしれん」
「逃げたんじゃないよ」
茶太郎が言った。
「助けを探しに来たんでしょ?」
「そう言うてくれるか」
「ヒキガエルの祠神さまが教えてくれたんだ」
茶太郎は、金長の前へ置いた湯の椀を見た。
「迷って引き返すことは、負けやないって。帰る道を見つけるために、誰かを頼ってもいいんだよ」
「じゃが、群れを導く者が、助けを求めてもよいのか?」
「一人でできないことを隠して、みんなを危ない目に遭わせるほうが、よくないと思う」
金長は答えなかった。
けれど、その周囲で縮んでいた黄色い糸が、少しずつ阿波の方角へ伸び始める。
「糸は切れてないよ」
縁が微笑んだ。
「金長さんは、今も阿波の仲間とつながってる。助けを探して戻る道も、ちゃんと残ってる」
「……ありがたいのう」
金長は目元を前足で拭った。
「泣いてるの?」
こたろが尋ねる。
「湯気が目に入っただけじゃ」
「もう湯気、出てないよ〜」
「心の湯気じゃ」
今度は長逸まで小さく笑った。
◇
「茶太郎はん。礼になるか分からんが、預かってほしいものがある」
金長は布団の脇に置かれていた包みを引き寄せた。
中から現れたのは、小さな茶釜だった。
表面は赤茶色に錆び、蓋も固く閉じている。片側には、狸の尾に似た曲線が刻まれていた。
「古い茶釜だね」
「阿波から持ってきた、狸一族の品じゃ。火にかけても湯が沸かず、化けさせようとしても動かぬ。わしには直せなんだ」
「使えないから、くれるの?」
「そうではない」
金長は、錆びた茶釜へ前足を添えた。
「今のわしと同じに見えるからじゃ。昔は役目があったはずなのに、力を失い、何の役にも立てぬと思い込んでおる」
「茶釜も、そう思ってるの?」
「声は聞こえぬ。じゃが阿波を離れてから、時折、寂しそうに鳴るのじゃ」
茶太郎が茶釜へ手を触れる。
冷たい鉄。ざらついた錆。その奥から、消えかけた炭火のような温もりが返ってきた。
舌には、金属の渋い味と、長いあいだ蓋を閉ざしてきた寂しさが広がる。
「この茶釜、生きてる」
縁も目を凝らした。
「金色の糸が残ってる。でも錆の下で、きつく絡まってる」
『力を失った霊具か』
茶丸が茶釜の周囲を歩き、匂いを確かめる。
『茶太郎の霊性へ反応している。だが、無理に目覚めさせるべきではない』
「大事なものなんでしょ?」
茶太郎が金長を見る。
「だからこそ、眠らせたままにしたくない」
金長は茶釜を茶太郎の前へ押し出した。
「直してくれとは言わぬ。ただ、この茶釜が何を望んでいるのか、いつか聞いてやってほしい」
「分かった。直せるとは約束できないけど、声を聞いてみる」
「それで十分じゃ」
茶太郎は両手で、錆びた茶釜を受け取った。
「使えんかったら、鍋敷きにでも――」
ぽん。
茶釜の中から、不満そうな音がした。
「今、鳴った〜!」
こたろが身を乗り出す。
「鍋敷きは嫌みたいやね」
縁が笑う。
「冗談じゃ、冗談」
金長が慌てて茶釜をなだめると、今度は蓋の奥から二度鳴った。
ぽん、ぽこ。
「まだ怒ってるよ〜」
「茶釜のくせに、根に持つのう」
『持ち主に似たのではないか』
茶丸の一言に、金長は渋い顔のまま黙り込んだ。
◇
翌朝。
山の霧が薄くなり、道が見えるのを待ってから、茶太郎たちは大吉山へ向かった。
先頭は、山道に慣れた伊平じいさんとかん太。茶太郎、縁、こたろは二人の間を歩き、茶丸と希太が周囲の気配を確かめている。
金長は城で休ませた。本人は同行すると言い張ったが、腹を押さえたまま山へ入ることを、薬師と茶太郎の二人から止められたのだ。
茶太郎は、布で包んだ錆びた茶釜を胸へ抱いていた。
「暗くなるより、ずっと前に戻るで」
かん太が念を押す。
「道を外れん。走らん。勝手に岩へ登らん。こたろ、聞いとるか?」
「全部聞いてるよ〜!」
「返事だけは立派やな」
山道へ入ると、宇治川の音が少しずつ遠ざかった。
湿った落ち葉の匂い。木の根を覆う苔。朝露を載せた羊歯。頭上では鳥が鳴き、枝の間から淡い日差しが落ちていた。
ところが奥へ進むにつれ、鳥や虫の声が少なくなっていく。
「黒い糸が近い」
縁は茶太郎の袖を握った。
黒と金の糸が、木々の間を縫って山の奥へ続いている。
『見られているにゃ』
希太が身を低くする。
『敵意ではない』
茶丸は風の匂いを確かめた。
『怯えて、息を潜めている』
茶太郎の舌にも、遠くから味が届いていた。
怖い。
来ないでほしい。
見つけてほしい。
相反する思いが重なり、苦く震えている。
「無理に近づいたら、もっと隠れてしまう」
茶太郎が足を止めた、そのとき。
抱えていた茶釜が、小さく震えた。
ぽん。
「どうしたの?」
問いかけると、もう一度鳴る。
ぽん、ぽこ。
茶釜から細い金色の糸が伸び、山道の脇へ続いていた。
そこには、草に覆われた細い獣道がある。
「茶釜が、こっちやって言ってる」
伊平じいさんが地面を確かめた。
「人の道やない。獣が通る道やな。足跡も新しい」
「危なくない?」
「崖へ続いとる様子はない。せやけど、わしとかん太が先に見る。茶太郎らは待っとれ」
二人が道の先を確かめ、安全に進める範囲だと判断してから、一行はゆっくり獣道へ入った。
茶釜は道を間違えそうになるたび、ぽん、と一度鳴る。
正しい方角へ向かうと、ぽんぽこ、と少し明るい音を返した。
「茶釜さん、道を知ってるみたい」
『あるいは、同じ孤独の気配を感じ取っているのかもしれぬ』
茶丸の言葉に、茶太郎は腕の中の茶釜を見つめた。
役に立たないと思われ、長く閉ざされていた茶釜。
怪物になると思い込み、誰にも見つからない場所へ隠れた鵺の子。
二つの寂しさが、互いを呼んでいるのかもしれない。
◇
獣道の先で、岩陰に小さな洞穴が見つかった。
入口には黒と金の毛が数本落ちている。土には異なる獣のものが混じったような、不思議な足跡が残っていた。
茶丸と希太が、茶太郎たちの前へ立つ。
『ここにいる』
洞穴の奥から、低い唸り声が聞こえた。
希太の背の毛が逆立つ。
『近づくなと言ってるにゃ』
「分かった。ここから話すよ」
茶太郎は洞穴へ入らず、十分に離れた場所へ座った。
かん太も子どもたちの前へ立ち、いつでも退けるよう周囲を確かめている。
「鵺の子。僕たちは、君を捕まえに来たんやないよ」
返事はない。
暗い洞穴から、怯えた味だけが流れてくる。
「怪物かどうか、確かめに来たんでもない」
『嘘だ……』
幼い声が、洞穴の奥から響いた。
『みんな、僕を見ると怖がる』
「僕も、少し怖いよ」
縁が茶太郎の袖をつかんだ。
茶太郎は、それでも言葉を変えなかった。
「知らない相手やから、怖い。でも、怖いことと、君が悪いことは同じやないよ」
『僕は、鵺になる』
「まだ、なってないよ」
『いつか人を襲う。親と同じ怪物になる』
黒い糸が、洞穴の入口まで伸びてきた。
敵意ではない。自分自身を縛り、外へ出られなくしている糸だった。
「まだしてないことまで、悪いことにしなくていいよ」
茶太郎は、腕の中の茶釜へ触れた。
「この茶釜も、自分はもう役に立たないって、ずっと蓋を閉じてたみたいなんだ」
『茶釜……?』
「うん。錆びてて、お湯も沸かせない。狸さんには、鍋敷きにされそうになった」
『……かわいそう』
こたろが小さく呟く。
「鵺の子、茶釜さんの心配してる〜」
『してない!』
洞穴から返ってきた声には、先ほどまでとは違う温かさが少しだけ混じっていた。
その瞬間、茶釜が強く震えた。
ぽん。
ぽん、ぽこ。
ぽんぽこぽん。
鈍かった音が洞穴へ反響し、不思議な調子となって山へ広がっていく。
黒い糸の奥で、金色の光が動いた。
『その子も……怖いの?』
「たぶんね。役に立てないって決められるのが、怖いんだと思う」
『僕と、同じ……?』
「同じところもある。でも、全部同じやないよ」
茶太郎は急かさず、洞穴の前で待った。
「出てこなくてもいい。今日は、ここで話すだけでもいいよ」
しばらく、何の音もしなかった。
風が木の葉を揺らし、茶釜の錆びた表面へ朝の光が落ちる。
やがて。
暗闇の中で、二つの金色の瞳が開いた。
太い前足が、一歩だけ光の中へ出る。
猿に似た顔。
虎のような手足。
背には黒と金の毛が混じり、蛇に似た細い尾が不安そうに揺れていた。
まだ幼く、茶丸より少し大きい程度の小さな霊だった。
「来るな……」
鵺の子は震えながら、それでも洞穴の奥へ逃げなかった。
「僕を見たら、みんな怪物だって言う」
「僕は、まだ君の名前も知らないよ」
茶太郎が答える。
「怪物かどうか決める前に、君の話を聞かせて」
鵺の子の金色の瞳が、茶太郎と錆びた茶釜を交互に見た。
「……その茶釜も、一緒に聞くのか?」
「うん。茶丸も希太も、みんな一緒や」
『仕方ないから聞いてやるにゃ』
希太は警戒したまま、少しだけ姿勢を緩めた。
茶丸も静かに腰を下ろす。
『誰の子として生まれたかではなく、お前が何を選ぶのかを聞こう』
鵺の子の耳が、わずかに動いた。
茶太郎の腕の中では、錆びた茶釜が穏やかな音を返す。
ぽん。
その音へ導かれるように、鵺の子は光の中へ、もう一歩だけ踏み出した。
阿波へ帰る道を探す狸。
役目を失ったと思い込む茶釜。
怪物になることを恐れ、山へ隠れた鵺の子。
皆、自分はもう役に立たないのだと思っていた。
けれど、錆びた茶釜が鳴らした一つの音は、孤独の奥まで届き、閉ざされていた道を確かに開いた。
茶太郎は、鵺の子へ手を伸ばさなかった。
自分から近づける時が来るまで、温かな一椀を置くときと同じように、ただその場で待った。
宇治を巡る四つの乱れを追った、茶太郎たちの最初の旅。
その先で見つけたのは、倒すべき怪物ではない。
まだ何者になるかを、自分で選んでいない一匹の幼い霊だった。
【茶太郎の物語小話】
阿波狸合戦の主人公として知られる金長狸の物語は、江戸時代末ごろを舞台とする後世の伝承です。
本作はそれより約三百年前のため、登場する金長は伝承上の金長狸本人ではありません。「金長」を阿波の狸たちが代々受け継ぐ霊名とした、本作独自の存在です。
今回は料理を作らないことも、茶太郎の選択でした。体が休むことを必要としているなら、食べさせずに待つ。心が外へ出る準備をしていないなら、手を伸ばさずに待つ。その二つを重ねています。
次回、洞穴から一歩を踏み出した鵺の子が、自分の中にある異なる獣の声を語ります。そして錆びた茶釜にも、最初の変化が訪れます。




