第148話 「朱雀の火見と、狙われた薬札」
――守る火と、奪う火――
朱い鳥の影が消えた後も、炊事場の炎は静かに揺れていた。
茶太郎たちは藁束を遠ざけ、焚き口の周囲へ水を撒いた。
「さっきの鳥……火の神様なの?」
レオが尋ねる。
茶丸は炎を見つめたまま、短く鳴いた。
「……ニャッ」
道三は煎じ薬を火から下ろした。
「火を消さなかったところを見るに、火除けの神ではあるまい」
「火の行き先を教えてくれた」
茶太郎は赤い羽が示した方向を思い出す。
「青龍と同じだ。危険を消すんじゃなくて、気づかせてくれるんだよ」
その夜、茶太郎たちは火の番を増やした。
炊事場、薬を煎じる竈、病人を暖める火鉢。
火をすべて消せば安全になるわけではない。白湯を作り、傷を洗う道具を煮沸し、病人の体を冷やさないためには、火が必要だった。
甚八は寝床から起き上がろうとした。
「火の番なら、座っててもできる」
「駄目じゃ」
道三が即座に止める。
「熱が下がったように感じても、傷が治ったわけではない」
「でも、人手が足りへん」
すると京鈴が、甚八の槌を抱えた。
「今夜は、うちが火の音を聞く」
「おまえ一人では無理や」
「一人やない」
京鈴の後ろには、八、市松、下京の子どもたちが並んでいた。
子どもだけで消火はしない。
異変を見つけたら板木を鳴らし、大人を呼ぶ。水桶へ勝手に近づかず、決められた場所で見張る。
墨屋宗白は町組の者を通りごとに配置した。
「子どもに火を消させるな。知らせを受けた大人が動け」
影猫衆も屋根と路地へ散った。
虎吉は炊事場の梁へ上がり、八雲は井戸端、白灯は薬棚の下へ潜る。
翁は耳先の欠けた顔を夜空へ向けた。
「ニャア……」
茶丸にだけ、その声の意味が届く。
『今夜の風は西から東へ流れる。火が出れば、焼け跡ではなく新しい仮小屋へ向かう』
茶丸は茶太郎の足元へ戻り、念話で伝えた。
『……西を……警戒しろ……』
夜半。
京鈴が、ふいに顔を上げた。
「音が違う」
「何の音?」
市松が身を固くする。
「薪が爆ぜる音やない。濡れたものが、焼けて縮む音……」
炊事場の火は正常だった。
薬を煎じる竈にも異常はない。
だが、薬札と患者の記録を保管した小屋の裏で、細い煙が上がっていた。
「火や!」
八が板木を打ち鳴らす。
カン、カン、カン――。
下京の夜へ、鋭い音が響いた。
小屋の壁際では、油を染み込ませた布が燃えていた。すぐ隣には乾いた木札と薬草が積まれている。
茶太郎が水桶へ走ろうとすると、炎の中に朱い羽が現れた。
羽は火の粉に乗り、東側の屋根へ向かう。
「火は東へ広がる!」
茶太郎の声を受け、町組の者たちは東側の荷物と藁束を退けた。
別の者が屋根へ水を掛ける。
宗白が指示を飛ばした。
「燃えている壁だけを見るな! 風下を濡らせ! 隣の板塀を外せ!」
朱い羽が火を消すことはない。
だが、次に燃える場所を示し続けていた。
京鈴は目を閉じ、炎の音を聞く。
「壁の中へ入ってる! 上の横木が危ない!」
甚八の仲間たちが長い鉤棒で壁板を引き剥がした。
火は柱へ移る寸前で露出し、水と濡れた筵をかぶせられる。
やがて煙だけが残った。
小屋は半焼したが、患者の記録と薬札の多くは八が抱えて運び出していた。
「失敗の札も、薬の札も……残っとる」
八の腕の中で、木札が小さく鳴った。
茶太郎は煤けた小屋の裏へ回る。
そこには、割れた油壺と、半分焼けた布が残っていた。
弥七が布を拾い、指先で匂いを確かめる。
「これは竈から飛んだ火やない。松脂を混ぜた油が染み込ませてある」
日置雪も地面へ膝をついた。
銀髪が月明かりを受け、白く光る。
「足跡が一人分。小屋へ近づき、火をつけた後、西の路地へ逃げています」
「誰かが……薬の小屋を燃やそうとしたの?」
茶太郎の問いに、弥七は答えなかった。
代わりに、焼け残った布の端を示す。
そこには、墨で小さな印が描かれていた。
輪の中へ、三本の黒い爪。
茶丸の毛が逆立つ。
『……以前……焼け跡で見た印だ……』
火事で空いた土地を奪い、材木や食料を高値で売る者たち。
下京が立ち直れば、儲けを失う者がいる。
そして今度は、病を抑えるための記録まで狙われた。
その時、消えかけた火の中から朱い鳥が姿を現した。
炎のような冠羽と、夜を切り裂く大きな翼。
『我が名は朱雀』
凛とした女の声が響く。
『我は火を生み出さぬ。人の悪意を焼くこともできぬ。ただ、火がどこへ走り、何を奪うかを示す』
茶太郎は煤に汚れた顔を上げた。
「それで十分です。あとは、ぼくたちが止めます」
朱雀は厳しい瞳で茶太郎を見つめた後、わずかに翼を下げた。
『ならば覚えておけ。火に善悪はない。守る火と奪う火を分けるのは、それを扱う者の意志だ』
朱雀の姿が、赤い火の粉となって消える。
弥七は路地の暗がりへ目を向けた。
「犯人は、まだ近くにおる。甲賀の追い方を使えば、足跡を拾える」
雪が袖の中から短い縄を取り出す。
「影猫衆と先へ行きます。茶太郎たちは患者と火を守ってください」
屋根の上で、虎吉の鍵尻尾が一度だけ揺れた。
茶太郎は追いかけたい気持ちを抑え、薬札を抱えた八の隣へ立つ。
「ぼくは、ここを守る」
追う者。
火を消す者。
病人を支える者。
役割は違っても、目的は一つだった。
下京の夜の奥で、三本爪の印を持つ者たちが、再び動き始めていた。




