↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第三章 ~五歳の茶太郎、伏見へ――南へ広がる水輪~
PR
154/316

第146話 「黄檗の正丸と、水霊命継ぎの白湯」

 ――病を止める前に、失われる命の水を戻す――


 市松いちまつが《青流水霊のやわらぎ麺》を口にした翌朝。


 下京の炊事場へ、腹痛を訴える者が次々と運ばれてきた。


「夜から何度も腹を下しとる!」


「うちの父ちゃん、水も飲めへん!」


「同じ井戸を使った者ばかりや!」


 青龍せいりゅうが示した井戸の水は、周囲の仮小屋でも使われていた。

 曲直瀬道三まなせ・どうさんは、患者を一か所へ集めなかった。


「元気な者と病人を分けよ。井戸の縄と桶も使ってはならぬ。腹を下した者の器は、他の者へ回すな」


 墨屋宗白すみや・そうはくが町組を動かし、汚染された井戸へ縄を張る。

 お寅婆おとらばばは、鍋や椀へ目印の紐を結んだ。


「赤い紐は病人用。白い紐は元気な者用や。取り違えたら承知せえへんで」


 甚八じんぱちは古い板を削り、病人用の仮厠を飲み水から離れた場所へ設ける。

 京鈴きょうすずと市松は、煮沸前の水桶へ近づく子どもたちを止めた。


「こっちは飲んだらあかん。火を通した水を待つんや」


 茶太郎は大鍋へ清水を注ぎ、薪の火でしっかりと沸かした。


「腹の薬を作るの?」


 レオが尋ねる。


「その前に、体から出ていった水を戻すんだ」


 沸かした水を清潔な器へ移し、人肌まで冷ます。

 特別な材料は何も入っていない。

 薬でも、豪華な料理でもない。

 それでも今の患者にとっては、命をつなぐ大切な一椀だった。


 《水霊命継すいれいいのちつぎ白湯さゆ》。


 道三が温度を確かめる。


「一度に多く飲ませるな。吐かぬよう、少しずつじゃ。飲めるかどうかも大切な見極めになる」


 京鈴が市松の椀を持ち、匙で一口ずつ与えた。


「急がんでええ。まだ次もあるから」


 市松は乾いた唇を濡らし、ゆっくりと飲み込む。


「昨日の水と……違う。嫌な匂いがしない……」


「しっかり沸かして、きれいな器へ移した水だよ」


 茶太郎は市松がもっと欲しがっても、急いで飲ませなかった。


 一口飲ませては休ませ、吐き気や腹痛が強くならないか確かめる。

 白湯を飲めた者には、腹の状態を見ながら薄い粥や《青流水霊のやわらぎ麺》を少量ずつ与えることになった。


 道三は患者たちを厳しく見回した。


「便に血が混じる者、高い熱がある者、意識が薄い者、水さえ飲めぬ者は、すぐに知らせよ。皆を同じ腹痛として扱ってはならぬ」


 青龍の言葉が、茶太郎の胸によみがえる。


 ――流れは、一つにあらず。

 症状が似ていても、体内で起きていることまで同じとは限らない。


 その日の昼、石運びをしていた壮年の男が運ばれてきた。


 名は源六げんろく

 腹痛と下痢が続いていたが、便に血は混じらず、高い熱もない。《水霊命継の白湯》なら、少しずつ飲むことができた。


「腹の中が、ずっと暴れとる……」


 道三は脈を診て腹へ触れ、前日から口にした物を詳しく確かめた。

 それから薬籠より、黄色い樹皮を取り出す。


黄檗おうばくじゃ。キハダの樹皮を乾かしたものだ」


 茶太郎が一片を嗅ぐと、土と乾いた木を混ぜたような香りがした。


「これを濃くすれば、早く治る?」


「薬は、濃ければよいものではない」


 道三の声が低くなる。


「強すぎれば、薬そのものが腹を乱す。病の違いを見ぬまま、誰にでも飲ませれば毒にもなる」


 茶太郎は、黄檗の成分を限界まで濃くすればよいと考えていた自分を恥じた。


「じゃあ、誰に使ったか、どれだけ使ったかを残します」


 道三の指示に従い、黄檗を決められた大きさに刻む。


 同じ量の水を使い、煮出す時間も揃える。

 はちは火へかけた時刻、水の量、黄檗の重さを木札へ書き込んだ。


「薬の札は、料理の札と分けるで。誰に、いつ使ったかも残さな」


 煎じ汁は、匂いを嗅いだだけでも顔が縮むほど苦かった。

 うじまるが水桶から顔を出す。


「うわぁ……ナマらん苦さだべ。口が“きはだ”ってしまいそうだべ」


「それを言うなら、引きつるじゃ」


 澪槌みおづちが呆れたように尾を振った。


 道三は煎じ汁を少量の水飴で練り、ごく小さな丸薬へまとめた。

 濃い黄色を帯びた丸薬からは、水飴でも隠せない苦い香りが漂っている。


「名前をつけてもいいですか?」


 茶太郎は丸薬を見つめた。


「正しく見極めて、正しく量って、正しく使うための薬だから――《正丸しょうがん》です」


 道三は目を細め、静かにうなずいた。


「よい名じゃ。薬は強さを誇るものではない。正しく用いてこそ、人を助ける」


 道三は源六へ向き直った。


「これは、今の源六にだけ用いる。市松や幼い子には与えぬ」


 源六は正丸を口に入れ、盛大に顔をしかめた。


「に、苦い……! 水飴でも隠れへんぞ……!」


「苦いから効くわけではない。飲ませた後の変化まで見て、初めて薬になる」


 茶太郎も、正丸を渡して終わりにはしなかった。


 《水霊命継の白湯》を少しずつ飲ませ、体を冷やさぬよう布を掛ける。器を分け、患者へ触れた者は灰汁と湯で手を洗った。


 八は一刻ごとに源六の様子を書き残した。


 腹痛の強さ。

 便の回数。

 飲めた白湯の量。

 熱と意識の変化。

 夕方になると、源六の腹の動きは少し落ち着いた。


 だが、道三は治ったとは言わなかった。


「今夜ぶり返すこともある。明日まで見守る」


 茶太郎は並んだ木札を見つめた。


 料理の札。

 薬の札。

 水場の札。

 患者の札。


「一人を助けるのに、こんなにたくさん見るものがあるんだね」


「だから医者一人では、多くの命を守れぬ」


 道三は八や京鈴、町組の者たちへ目を向けた。


「清い水を運ぶ者、火を守る者、記録する者、食べさせる者。皆が治療の一部なのだ」


 茶太郎は胸に手を当てた。


「薬を作るだけじゃない。病が広がらない流れを、みんなで作るんだ」


 その夜。


 青龍の光が、下京の水路へ細く浮かび上がった。

 清い水を運ぶ道は青白く輝き、汚れた水の集まる場所は暗く沈んでいる。

 しかし一か所だけ、赤黒く揺れる流れがあった。


 復興現場の片隅。

 そこでは昼間、材木が崩れ、一人の男が腕を傷つけていた。

 傷を負った甚八が、誰にも告げず槌を振り続けている。


「甚八……その傷、熱を持ってる」


 茶太郎の声に、甚八の手が止まった。


 額には汗が浮かび、顔色も悪い。


「これくらい……寝たら治る」


 だが道三は、赤く腫れた傷を見て険しい顔になった。


「これは腹痛とは別の流れじゃ。すぐに手当てをする」


 下京を襲った水の病は、ようやく収まり始めた。

 しかし今度は、火のような熱が甚八の体内で広がろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
面白いと思っていただけたら、ぜひブックマークや評価(★)をお願いします!
『茶太郎がゆく』
style=
目次からブックマークをお願いします
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。