第145話 「青流のやわらぎ麺と、水鏡に映る青龍」
――百人の料理から、一人のための料理へ――
炊き出しの列から離れた場所で、小さな男の子が腹を押さえていた。
名は市松。
京の大火で家族とはぐれ、下京の仮小屋で暮らしているという。
「いつから痛いの?」
茶太郎が尋ねると、市松は力なく答えた。
「昨日から……水を飲んでも、お腹が鳴る……」
額には汗が浮かび、唇も乾いている。
茶太郎は経帯麺の椀を下ろした。
「この麺は、今の市松には強すぎるかもしれない」
「食べたら元気になるんと違うん?」
京鈴が不安そうに聞く。
「弱っている時は、元気な人と同じ料理が負担になることもあるんだ」
茶太郎は《鑑定》を使おうとした。
しかし、浮かんだのは曖昧な光だけだった。
――水気の不足。
――腹部の乱れ。
それ以上は分からない。
「料理の力だけで、病の名前まで決めちゃ駄目だ」
茶太郎は影猫衆へ頼み、近くに滞在していた曲直瀬道三を呼んだ。
道三は市松の脈と腹を診て、飲んだ水や食べた物を詳しく尋ねる。
「濁った井戸水を飲んだ可能性がある。今は無理に固い物を食べさせず、煮沸した水を少しずつ与えよう」
道三は茶太郎を見る。
「食べ物は薬の代わりではない。されど、弱った体が戻る道を支えることはできる」
「はい。一口ずつ食べられる料理を作ります」
茶太郎は百椀用の濃い出汁を、そのまま使わなかった。
新たに清水を十分に沸かし、昆布と風干しモロコを少量だけ加える。香りが移ったところで、すぐに引き上げた。
塩も溜まりも、ほんのわずか。
経帯麺は短く折り、弾力が消えるまで柔らかく煮る。
「せっかくの麺のコシがなくなるで?」
八が尋ねた。
「今日は、コシより食べやすさが大事なんだ」
さらに吉野葛を水で溶き、汁へ少しずつ加えた。
透明なとろみがつくと、汁は冷めにくくなり、短い麺にも優しく絡んだ。
料理の名は――
《青流水霊のやわらぎ麺》。
「まだ熱い。少し待とう」
京鈴が椀の音を聞く。
「もう少し。湯気の声が強い」
茶太郎は何度も混ぜ、匙に一口だけすくった。
道三が温度を確かめてから、市松の唇へ運ぶ。
「急がず、ゆっくりじゃ」
市松は恐る恐る口へ含んだ。
「……あったかい」
しばらく待っても、痛みは強くならなかった。
もう一口。
さらに一口。
茶太郎は食べられるからといって、椀をすべて与えなかった。
「今日はここまで。水も少しずつ飲もう」
「もっと食べたい……」
「明日、お腹が落ち着いたら続きを作るよ」
市松は残念そうにしたが、素直にうなずいた。
八は新しい木札へ、市松が食べた量と時刻を書き込む。
「大勢に配る札と、一人を見る札は分けた方がええな」
「どうして?」
「百人分の鍋が成功しても、市松が食べられへんかったら、この子にとっては失敗やから」
八の言葉に、茶太郎は深くうなずいた。
その時、仮小屋の外から騒ぎ声が聞こえた。
「この井戸の水、昨日から濁っとる!」
「上の水路が詰まったんやないか?」
市松が飲んだという井戸だった。
茶太郎たちが向かうと、水面に青い光の輪が浮かんでいた。
光は井戸の縁から地面へ走り、路地の下を通って、壊れた排水溝の前で止まっている。
甚八が板を外すと、中には灰、藁、泥が詰まっていた。
「これで汚れた水が戻ってきたんや」
住民たちは井戸の使用を止め、別の安全な水場から水を運んだ。詰まりは人の手で取り除き、井戸は洗った後もしばらく飲用を避けることになった。
青い光は、汚れを消してはくれない。
ただ、流れが止まった場所を示していた。
茶太郎が水面をのぞき込むと、そこには長い角と青い鱗を持つ影が映っていた。
『一つの流れを、すべての者へ押しつけてはならぬ』
「あなたは……誰?」
『我は青龍。東を巡り、水と道、人の行き先を見守る者』
青龍の影は静かに茶太郎を見つめた。
『我に病は治せぬ。水も運べぬ。料理も作れぬ』
「じゃあ、何ができるの?」
『乱れた流れを示す。それを正すかどうかは、人が決める』
その言葉を残し、青龍の姿は水紋の中へ消えた。
翌朝。
市松は、仮小屋の前で起き上がっていた。
「茶太郎……昨日の、もう一回食べたい」
茶太郎が笑うと、京鈴は市松の隣へ黙って椀を置いた。
八は新しい木札を取り出す。
一人のために調整された《青流水霊のやわらぎ麺》は、やがて下京の病人や老人、幼い子どもへ届ける料理となった。
そして青龍が示した地下の水路は、焼けた都を立て直すための、新たな道筋へつながり始めていた。
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