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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第三章 ~五歳の茶太郎、伏見へ――南へ広がる水輪~
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第144話 「百椀の壁と、青き水路」

 ――名人の一椀を、みんなの百椀へ――


 相国寺で《近江水霊の黄金経帯麺》が完成した翌朝。


 玄章げんしょうは、茶太郎たちへ思いがけない提案をした。


「下京の復興場へ、百人分の麺を届けてみぬか」


「百人分……?」


 茶太郎の目が大きくなる。

 焼け跡では今日も、大工や左官、荷運びの者たちが働いている。温かい昼餉を出せれば、皆の力になるという。


「やってみたい!」


 茶太郎は即答した。

 しかしはちは、木札を見ながら眉を寄せる。


「昨日と同じ鍋では、十人分ほどしか作れへん。百人なら十回や。途中で水や火が変わったら、味も変わるで」


 玄章が満足そうにうなずいた。


「それが百椀の壁じゃ」


 料理人が一椀を仕上げるだけなら、己の目と舌で調整できる。

 だが百人へ同じ味を届けるには、誰が作っても間違えにくい仕組みが必要だった。


 茶太郎たちは作業を四つに分けた。


 堅田衆が、燻しモロコと昆布を運ぶ。

 相国寺の僧たちが、経帯麺を打つ。

 京鈴きょうすず甚八じんぱちが火と釜を受け持つ。

 八は材料の量と、作った時刻を記録する。


 最初の試し釜では、茶太郎が昨日と同じように出汁を取った。

 ところが大鍋へ魚を一度に入れると、汁が白く濁ってしまった。


「昨日と違う……」


 茶太郎が味を見ると、旨味は強いが、燻し香に苦みが混じっている。

 甚八が薪を見た。


「大鍋やから火を強うしすぎたんや。底だけ煮立っとる」


 経帯麺にも問題が起きた。

 一度に大量の麺を入れたため湯の温度が下がり、麺同士がくっついてしまったのだ。


 ウリハが箸で持ち上げる。


「キュイ……大きな一枚になっちゃった……」


「これでは出せないね」


 茶太郎は失敗した麺を捨てず、自分たちの賄いへ回すことにした。

 八は二枚の木札へ、大きく「やり直し」の印を刻む。


「魚も麺も、鍋を大きくしただけではあかんのやな」


「うん。料理が十倍なら、全部を十倍にすればいいわけじゃない」


 そこで、出汁は小鍋で濃く取り、大鍋の湯へ合わせる方式に変えた。


 モロコは布袋へ小分けにし、苦みが出る前に引き上げる。

 麺は一釜へ入れる数を決め、縄の結び目が一つ進むたびに、新しい麺を茹でる。

 甚八は焚き口へ印を刻み、薪を入れる位置を揃えた。

 京鈴は目を閉じ、釜の音を聞く。


「まだや。湯の声が重い」


 やがて細かな沸騰音へ変わる。


「今!」


 僧たちが麺を入れた。

 今度は湯の中で一本ずつほどけ、淡い黄色の帯が踊った。


 茶太郎が味を確かめる。


「昨日と同じだ……!」


 玄章は首を横に振った。


「違うぞ、茶太郎。昨日より価値がある」


「どうして?」


「昨日は、そなたにしか作れぬ一椀。今日は皆で作れる百椀じゃ」


 完成した出汁と麺は、蓋付きの桶へ分けられた。

 しかし、ここから下京まで運ばなければならない。

 堅田から届いた水霊船へ荷を載せ、宇治川と陸路をつなぐ場所まで運ぶことになった。


 船頭を務める湖六ころくが、竿で水底を探る。


「昨日より水が重いな。上流で雨が降ったかもしれん」


 ナギも水面を見つめた。


「……ながれ……ふたつ……ある……」


 船が川の分かれ目へ差しかかる。

 左の流れは穏やかに見えたが、水底には流木と泥が集まっていた。荷を積んだ船が入れば、底を擦る危険がある。


 その時、水面に青い鱗のような光が走った。

 光は右の流れを細くなぞり、葦の間へ消える。


「まただべ……!」


 うじまるが目を丸くする。


 湖六はすぐには右へ曲がらなかった。

 竿で深さを測り、流れの速さを見て、船頭たちと声を掛け合う。


「右は深い。流れも戻っとる。青い光の道で行ける!」


 人の手で確かめた後、船は右の澪筋へ入った。

 誰も青い光だけを信じて動いたわけではない。

 だが、その光が危険へ気づくきっかけになったことは確かだった。


 下京へ届いた百椀の経帯麺は、働く人々へ配られた。


「温かい……魚の出汁や」


「この麺、変わった歯応えやな」


「もう一椀ないか?」


 大工も左官も、煤に汚れた顔をほころばせる。

 お寅婆おとらばばは空の椀を集めながら、茶太郎へ言った。


「百人に同じ味を出せたんは立派や。けど、食べる者は毎日変わる。歯のない年寄りもおれば、腹を壊した子もおる」


 列の外には、一人の小さな男の子が座っていた。

 痩せた手で腹を押さえ、麺の椀を見つめている。


「食べないの?」


 茶太郎が尋ねると、男の子は小さく首を振った。


「食べたい……でも、食べたらお腹が痛くなる……」


 茶太郎は手元の経帯麺を見る。


 弾力のある麺は、元気な働き手には喜ばれた。

 だが、弱った者には同じ料理を出せない。


「同じものを大勢に届けるだけじゃ、足りないんだ……」


 その時、男の子の背後にある水桶の表面が揺れた。

 青い光が一度だけ輪を描き、茶太郎の椀へ細くつながる。

 そして水の奥から、低く静かな声が響いた。


『流れは、一つにあらず』


 茶太郎が振り返った時には、光は消えていた。

 百椀を揃えることを覚えた茶太郎へ、青き水の主は次の問いを残した。


 ――同じ食卓に集まれない者へ、どんな一椀を届けるのか。


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『茶太郎がゆく』
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