第143話 「相国寺の経帯麺と、近江水霊の黄金出汁」
――古き唐の麺が、宇治の知恵でよみがえる――
堅田から届いた紹介状を手に、茶太郎たちは相国寺の門をくぐった。
禅寺の朝は静かだった。
石畳には打ち水がされ、庫裏からは薪の煙と、小麦を蒸したような匂いが漂っている。
「ここで……経帯麺を作ってるんだね」
茶太郎が呟くと、八は保存モロコの箱を抱え直した。
「お魚の札も持ってきたで。成功も失敗も、全部や」
案内された庫裏では、一人の老僧が麺棒を握っていた。
名を玄章という。
かつて唐の料理書をもとに経帯麺を打った僧から、製法を受け継いだ人物だった。
「これが、当寺に伝わる麺じゃ」
差し出された麺は、うどんより薄く、お経の巻物を結ぶ帯のように平たい。
茶太郎は一本を指で曲げた。
「少し黄色い……それに、うどんとは匂いが違う」
「木灰から取った灰汁を使う。だが、加減が難しい」
玄章が打った麺を湯へ入れる。
しばらくして引き上げると、一本は柔らかく切れ、別の一本には舌に残る苦みがあった。
「灰汁が弱ければ、麺に力が出ぬ。強すぎれば、苦くて食えぬ。日によって灰の質も変わる」
玄章は堅田から運ばれた箱へ目を向けた。
「三条西家より聞いた。そなたらは、魚の保存法を比べたそうじゃな」
「はい。だから麺も、比べてみたいです」
茶太郎の提案で、三つの生地を作ることになった。
樫の木灰を水へ浸し、十分に沈ませる。
上澄みを目の細かな布で幾度も濾し、さらに水で薄めた。
そのまま舐めて強さを確かめるようなことはせず、同じ量の粉へ、量を変えて少しずつ混ぜていく。
八が木札を並べた。
一つ目は、灰汁を使わない生地。
二つ目は、ごく薄い灰汁を使った生地。
三つ目は、それより少し濃くした生地。
「粉の量、水の量、こねた回数……寝かせた時も書いとかな」
八は小石を分銅代わりにして粉を分け、縄の結び目で水の量を記録した。
レオとウリハも生地を踏む。
「……かたい……でも……のびる……!」
「キュイッ! ぼくの方がいっぱい踏める!」
「生地を破らないようにね」
茶太郎は笑いながら、踏んだ生地を折り畳んだ。
やがて三つの生地を同じ厚さへ延ばし、帯のように切り分ける。
茹で上げると、違いは明らかだった。
灰汁なしは白く、柔らかい。
薄い灰汁の麺は淡い黄色を帯び、噛むと心地よく跳ね返った。
濃いものは強い弾力を持つが、わずかな苦みと匂いが残る。
玄章は二つ目の麺をすすり、目を見開いた。
「これじゃ……。わしらは灰汁の強さばかり見て、水と粉の量を揃えておらなんだ」
「同じに作らないと、何が良かったのか分からなくなるから」
茶太郎は堅田の燻しモロコを取り出した。
文福茶釜の神水へ昆布を浸し、火へかける前に引き上げる。そこへ燻したモロコを加え、煮立たせすぎないよう静かに旨味を引き出した。
最後に少量の溜まりと塩で味を整える。
黄金色の澄んだ汁から、湖魚の香りが立ち上った。
「麺を入れるよ」
淡い黄色の経帯麺が、黄金出汁の中でゆらりと踊った。
細く刻んだ九条葱と、炙った風干しモロコを添える。
料理の名は――
《近江水霊の黄金経帯麺》。
玄章は両手を合わせ、一口すすった。
弾む麺へ澄んだ魚の旨味が絡み、燻し香のあとから葱の甘さが広がる。
「これは……唐の麺でも、寺の麺でもない」
玄章はもう一口すすり、静かに笑った。
「近江の海と宇治の水が結ばれた、新しい麺じゃ」
茶丸も椀へ鼻を近づけた。
「……ニャッ」
「茶丸も気に入ったみたい」
だが、八は喜ぶより先に木札を見ていた。
「茶太郎。この味、明日も同じにできる?」
「今日の札どおりなら、きっと」
「ほな、十椀でも?」
茶太郎は少し考えた。
「十椀なら、一つの鍋で作れる。でも百椀になったら、出汁を取る鍋も、麺を茹でる人も増える」
玄章がうなずく。
「同じものを多く作るには、腕だけでは足りぬ。量を測る者、火を見る者、運ぶ者――皆の働きを揃えねばならん」
その言葉を聞いた八は、木札の端へ新しい印を刻んだ。
粉、水、灰汁、塩。
茹でる時間と、一つの釜へ入れる麺の数。
茶太郎の料理が初めて、「一椀の完成」から「同じ味を届ける仕組み」へ踏み出した瞬間だった。
試食を終えた玄章は、奥の棚から古びた紙束を持ってきた。
「礼に、そなたへ見せたいものがある」
そこには、唐から伝わった麺や羹の作り方が、細かな文字で書き留められていた。
しかし、紙の隅には別の筆跡で、気になる言葉が残されていた。
『灰より生まれし麺、青き水脈を渡る時、東の守り目覚む』
ナギの尾びれが、かすかに震えた。
「……あおい……うろこ……また……いる……」
茶太郎は窓の外へ目を向けた。
相国寺の庭を流れる細い水路に、一瞬だけ青い光が走る。
それは都の地下へ潜り、南へ――宇治の方角へ消えていった。
古い麺をよみがえらせた一椀は、料理だけでなく、まだ名も知らぬ東方の守護者との縁まで動かし始めていた。
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