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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第三章 ~五歳の茶太郎、伏見へ――南へ広がる水輪~
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第142話 「近江水鏡の四つ仕立て」

 ――腐った魚は救わず、次の魚を守る――


 奈良から秘密基地の扉を経て、茶太郎たちは近江の海の堅田へ向かった。


 船着き場には、魚籠がいくつも積まれていた。

 しかし蓋を開けた瞬間、重い臭いが広がる。

 小鮒やモロコは腹を残したまま重ねられ、下の魚は潰れて汁を出していた。


 湖六ころくが顔をしかめる。


「朝に揚げた魚や。都へ送る前に、もう傷み始めとる」


「今日は蒸し暑いからねぇ。魚も気持ちが“むしむし”するのぉ」


 うじまるが言うと、近江の海の主・澪槌みおづちが尾で水面を叩いた。


「くだらぬことを言う前に、鼻を覆え。おぬしの駄洒落まで傷むぞ」


「それはナマらん大事件だべ!」


 茶太郎が魚へ手を伸ばす。

 だが、坪内石斎つぼうち・せきさいが手首を止めた。


「待て。腹が膨れ、目は濁り、鰓の色も悪い。これは料理で救ってはならぬ」


「火を通しても……駄目なの?」


「腐ったものを、火で元へ戻すことはできぬ。料理人の務めは、食べさせることだけではない。食べさせない決断も含まれる」


 茶太郎は魚籠を見つめ、静かにうなずいた。


 傷んだ魚は飲み水から離れた場所へ運び、灰と石灰を混ぜた土の中へ深く埋めることになった。道具も分け、手と板を湯で洗う。


「この魚は救えない。でも、次の魚は守れるかもしれない」


 茶太郎の言葉に、湖六が腕を組む。


「塩漬けなら昔からある。けど、塩は高い。都へ運ぶ魚全部に使えば、儲けが消える」


「だから、比べてみよう」


 茶太郎は同じ朝に揚がったモロコを四つに分けた。


 はちが木札を用意し、絵と印で処理の日を書き込んでいく。


 一つ目は、腹を残したまま塩を振る。

 二つ目は、腹を開いて酢へ漬ける。

 三つ目は、腹と鰓を除き、血を洗って薄塩をし、日陰で風に当てる。

 四つ目は、下処理した後に火を通し、桜と樫の煙でゆっくり燻す。


「酢に漬ければ、ずっと大丈夫なんやないの?」


 京鈴きょうすずが尋ねた。


「そう思う人もいる。でも、酢は腐らない薬じゃないよ。だから確かめるんだ」


 冷たい清水で魚を洗い、傷んだ魚に使った道具とは完全に分ける。


 風干しの魚には細かな布をかけ、虫と埃を防いだ。燻し場では京鈴が木の爆ぜる音を聞き、堅田の若者たちが火加減を守った。


 三日目。

 腹を残した塩魚から、嫌な臭いが出た。


「失敗やな」


 湖六が言うと、八は捨てる前に木札を確かめた。

 酢漬けも身が崩れ、酸味の奥に異臭が隠れていた。


 茶太郎は口へ運ばず、二つとも処分する。


「臭いを隠すことと、安全にすることは違うんだね」


 八は成功した札よりも、失敗した二枚を丁寧に包んだ。


「捨てへんの?」


「失敗した理由を忘れたら、また同じことするやろ」


 八は札を胸元へしまい、ぽつりと続けた。


「いつか百人、千人に食べさせる時、一回の間違いが大勢を苦しめるかもしれへん」


 茶太郎は返事をせず、その木札をしばらく見つめていた。


 五日目。

 風干しのモロコは水分が抜け、身が締まっていた。十分に焼いて確かめると、味は濃く、骨まで香ばしい。


 燻したものは出汁に使い、もう一度しっかり煮立てた。


 風干しは《水鏡みずかがみモロコの風結び》

 燻し出汁は《近江水霊おうみすいれいの燻り雫》


 成功した二つだけでなく、失敗した二つも含め、茶太郎は試作を《近江水鏡の四つ仕立て》と名づけた。


「これなら京まで運べる」


 湖六は喜んだが、石斎は首を横に振る。


「今日は、だ。魚の大きさ、風、湿り気、季節が変われば日持ちも変わる」


 八は木札へ晴れと雲、風の印を加えた。

 湖六は積まれた試作品を見渡し、茶太郎へ問う。


「これが十箱、百箱になっても、同じ味と安全を守れるか?」


 茶太郎は、すぐには答えられなかった。

 一椀を丁寧に仕上げることと、大勢へ同じものを届けることは違う。


「……今は、まだ分からない」


「それでええ。分からんことを分かったふりせん者なら、先へ進める」


 湖六は保存法を隠すか、堅田の者へ広く教えるかを尋ねた。


「教えたい。魚を一番知ってるのは、堅田のみんなだから」


 正しく処理した箱には、作った者と日付を示す堅田の印を付けることになった。

 試作品を積んだ小舟が、都へ向けて船着き場を離れる。

 舟が深い澪筋へ入った瞬間、水面に青い光が走った。

 鱗にも似た光は、舟の進む道をなぞるように一度だけ輝き、すぐ消える。


 ナギが小さく震えた。


「……みずの奥……だれか……見てた……」


「わしでも分からん流れだべ……」


 うじまるが珍しく駄洒落を忘れ、澪槌も黙って湖面を見つめた。

 それが青龍せいりゅうの最初の兆しであることを、誰もまだ知らなかった。


 数日後、三条西家から返書が届く。


『この魚の出汁を用いて、唐より伝わりし麺を作れぬか』


 返書には、相国寺しょうこくじへの紹介状が添えられていた。

 その末尾に記されていたのは、茶太郎の知らない料理の名。


 ――経帯麺けいたいめん


 近江の魚を守る試みは、やがて都の古い麺と、新しい縁を結ぼうとしていた。


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『茶太郎がゆく』
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