第139話 「春日白露の胡麻豆腐と、白鹿の一礼」
――滑らかさは、力ではなく待つことで生まれる――
春日野の泉のそばに、仮の調理場が整えられた。
材料は白胡麻、吉野葛、泉の水。
味を整えるための塩も、ほんのわずかだけである。
「これだけで料理になるのか」
八が白胡麻を一粒つまむ。
「なるはずなんだけど……」
「作ったことは?」
「前の世界の作り方は知ってる。でも、この道具では初めて」
茶太郎の返事に、坪内石斎が腕を組んだ。
「知っていることと、作れることは別だ。始めろ」
白鹿カスガは泉の向こうに立ち、黙って茶太郎を見つめている。
茶太郎は白胡麻を焙烙へ入れた。
香りを出そうと火へ近づける。
ぱちっ。
胡麻が一粒跳ね、続いて焦げた匂いが立った。
「火が強い」
石斎が言う。
「まだ少ししか焦げてません」
「その少しが、全体へ苦みを移す」
茶太郎は焦げた胡麻を取り除き、最初からやり直した。
今度は焙烙を火から離し、絶えず揺する。
温まった胡麻から、柔らかな香りが立ち始める。
「今!」
京鈴が匂いの変化を知らせた。
茶太郎は胡麻を擂鉢へ移す。
すりこ木を握り、円を描く。
百回。
二百回。
粒が砕け、白い粉になる。
さらに擦ると、胡麻の油がにじみ、ねっとりした塊へ変わっていった。
「腕が痛い……」
「代わろうか?」
宗次が尋ねる。
茶太郎は首を振りかけたが、思い直した。
「お願いします。ぼく一人で作る試験じゃないもんね」
宗次、八、甚八が交代で擂る。
茶太郎は粒の残り方を指で確かめ、まだ粗ければ擂鉢へ戻した。
十分に滑らかになったところで、泉の水を少しずつ加える。
麻布で一度濾すと、白い胡麻乳が器へ落ちた。
布には粗い胡麻が残る。
「これは捨てるん?」
八が尋ねる。
「捨てないよ。あとで味噌と混ぜて焼こう」
次は葛である。
最初の試みでは、茶太郎は温めた胡麻乳へ葛を直接入れた。
たちまち白い塊がいくつも生まれる。
「あっ……だまになった!」
「混ぜれば消えるか?」
石斎が問う。
茶太郎は懸命に練った。
しかし塊は小さくなるだけで、完全には消えない。
出来上がったものを口へ入れると、舌触りがざらついていた。
石斎は一口で箸を置く。
「失敗だ」
「味は悪くないよ」
「そなたが作ろうとしたのは、味だけの料理か?」
茶太郎は、六角堂で学んだことを思い出した。
見る者へ向ける形。
何も置かない余白。
そして今回は、口の中で感じる滑らかさ。
「もう一度やります」
二度目は、火へかける前に葛を冷たい泉の水で完全に溶いた。
そこへ胡麻乳を少しずつ加え、混ざった液をもう一度、目の細かい麻布で濾す。
二度濾しした白い液を鍋へ移した。
「火は弱く」
茶太郎は薪を減らす。
京鈴が鍋の音を聞き、ナギが液の流れを見つめた。
「……そこ……おもい……なべの底……」
「底から返すように混ぜる!」
木杓子を止めれば、葛が底へ沈み焦げる。
強く練りすぎれば、鍋肌だけが固まる。
ゆっくり。
絶えず。
全体を同じ速さで動かす。
液は少しずつ艶を増し、杓子で持ち上げると一本の帯になって落ちた。
「まだ練るのか?」
甚八が汗を拭う。
「火から下ろしても、熱は残る。少し柔らかいところで止めるよ」
余熱で固まることまで考え、茶太郎は鍋を火から外した。
水で濡らした器へ流し、泉の水を張った桶へ器ごと沈める。
直接水に触れさせず、冷たい泉でゆっくり熱を取った。
待つ間、布に残った胡麻へ味噌と刻んだ芹を混ぜる。
平たく延ばして焼けば、香ばしい胡麻味噌焼きになった。
「残りも料理になった!」
八が嬉しそうに言う。
やがて器を返すと、白い胡麻豆腐が静かに滑り出た。
表面は春日の朝露のように艶やかで、刃を入れても崩れない。
黒い漆器の中央へ一切れ。
周囲には何も置かない。
上に、山葵をほんの少し。
薄い葛餡を一筋だけ流した。
《春日白露の胡麻豆腐》。
石斎が箸を入れる。
胡麻豆腐は柔らかく沈み、口の中で形を失った。
「一度目とは別物だ」
「胡麻の油と水が、喧嘩しないよう細かくして混ぜました」
「力で押さえつけたのではないのだな」
「はい。濾して、弱い火で、ずっと一緒に動かしました」
石斎は二口目を食べ、静かに頷いた。
「精進料理としては合格だ」
茶太郎は、もう一つの器をカスガの前へ運ぼうとした。
だが途中で足を止める。
「カスガは、これを食べていいのかな」
味噌や塩を使った料理を、勝手に鹿へ与えてよいとは限らない。
茶太郎は胡麻豆腐を置かず、代わりに泉の水を清潔な木椀へ汲んだ。
さらに採りすぎないよう選んだ若葉を、少し離れた石の上へ置く。
「食べるかどうかは、カスガが決めてね」
白鹿はすぐには近づかなかった。
茶太郎たちが先に僧や荷運びの者へ胡麻豆腐を配り、最後に自分の分を取るまで、静かに見守っていた。
やがてカスガは歩み寄る。
胡麻豆腐の器には触れず、水を一口飲んだ。
若葉も食べない。
ただ茶太郎の前へ立ち、ゆっくりと前脚を折った。
気高い白鹿が、五歳の幼子へ頭を下げる。
森の鳥の声が止み、泉の水音だけが響いた。
茶太郎も慌てて膝をつき、深く礼を返す。
言葉も、加護の光もない。
それでもカスガの一礼は、命を選び、残りまで生かそうとした茶太郎の所作を認めていた。
茶丸が二人の間へ進み、自分も頭を下げようとする。
しかし額が地面へつく寸前、横にいた胡麻味噌焼きの匂いに気づいた。
「ニャッ!」
「茶丸、それは人の味つきだから駄目!」
静寂が破れ、皆が笑った。
カスガは立ち上がり、森へ続く別の道へ歩き出す。
その先には、石斎が用意した雄の雉と、山里の調理場がある。
「精進の次は、鳥だ」
石斎が告げた。
「今度は、使わないことでなく——命を一片も無駄にしない技を見せてもらう」
茶太郎は白鹿の後を追った。
奈良での第二の修行が、静かに始まろうとしていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
胡麻豆腐のなめらかさは、力いっぱい混ぜることだけでは生まれません。待つ時間までごちそうになるような一椀を、思い浮かべていただけたら嬉しいです。




