第138話 「春日野の白鹿カスガと、命を選ぶ料理」
――食べる命と、帰す命を見分ける――
宇治を出た茶太郎たちは、木津川沿いの道を南へ進んだ。
同行するのは、父の宗次、坪内石斎、茶丸、そして食材と道具を運ぶ八たち。
大和へ入ると、土の色も風の匂いも変わった。
「ここから先は春日野だ」
石斎が告げる。
「寺の精進料理と、山里に伝わる鳥料理。その両方を学んでもらう」
「食べない料理と、鳥を食べる料理を一緒に?」
「だから学ぶのだ。料理人は、自分の好みだけで客の膳を決められぬ」
春日野の入口では、地元の猟師が待っていた。
傍らには、三つの籠が置かれている。
最初の籠には、立派な雄の雉。
二つ目には雌の雉。
最後の小さな籠には、翼を傷めた若鳥が入っていた。
石斎の顔が険しくなる。
「一羽だけ頼んだはずだ」
「せっかく罠に掛かったんです。まとめて買ってもらおうと思いまして」
猟師が愛想笑いを浮かべる。
「雌も若鳥も、煮れば食えます」
石斎は茶太郎を見る。
「選べ」
茶太郎が籠へ近づいた、その時だった。
木立の奥で、澄んだ鈴の音が鳴る。
しゃらん。
白い影が、朝霧の中から現れた。
雪のように白い体。
淡い金色を帯びた角。
首には、古びた青銅の鈴。
一頭の白鹿が道の中央へ立ち、茶太郎たちを見つめていた。
石斎が一礼する。
「春日の神鹿か」
茶太郎も頭を下げた。
「こんにちは。ぼくは茶太郎です。鳥料理を学びに来ました」
白鹿は動かない。
「遊びで命を取るんじゃないよ。ちゃんと料理して、全部いただきます」
それでも、道を譲らない。
茶丸が前へ進み、白鹿と向き合った。
「……ニャッ」
白鹿は茶丸を見下ろす。
茶丸も見上げる。
一匹と一頭は、瞬きもせず睨み合った。
「どっちも道を譲る気がないね」
八が呟く。
やがて白鹿は茶丸から視線を外し、二つ目の籠へ近づいた。
雌の雉を見つめ、前脚で地面を二度打つ。
「この子を見ろってこと?」
茶太郎は雌の腹側を確かめた。
胸から腹にかけて、羽毛が薄くなっている。
「卵を温めていた跡だ」
石斎が言った。
猟師へ確認すると、雌は山裾の藪で罠に掛かったという。
近くに巣が残されているかもしれない。
「この子は食べません」
茶太郎は籠の戸を開けようとした。
石斎が止める。
「ここで放せば、巣へ戻れず、獣に襲われる」
「じゃあ、捕まえた場所まで戻します」
「半日かかるぞ。修行の時間が減る」
「でも、巣で待ってる命があるかもしれない」
石斎はしばらく黙り、猟師へ命じた。
「お前が戻せ。巣も確かめろ。卵が残っているなら、雌が戻るまで見届けよ」
「ですが、代金は……」
「命じた一羽の分は払う。勝手に捕った二羽の銭は出さぬ」
猟師は不満そうだったが、宗次と八に見られ、雌の籠を担いだ。
次に白鹿は、傷ついた若鳥へ鼻先を寄せた。
翼の付け根には、罠の縄が食い込んだ傷がある。
茶太郎が手を伸ばすと、若鳥は怯えて暴れた。
「食べる前に、手当てします」
「治らなければ?」
石斎が問う。
「それでも、苦しませたままにはしません。道三先生に診てもらえるよう、奈良の薬師へ預けます」
茶太郎は清水で傷を洗い、清潔な布を巻いた。
霊力で傷を消すことはできない。
希太がいれば痛みを感じ取れただろうが、今日は茶太郎自身が呼吸と震えを見なければならない。
若鳥は治療用の籠へ移された。
残ったのは、成熟した雄の雉だけ。
茶太郎は籠の前へ正座した。
「あなたの命をいただいて、骨も羽も無駄にしません」
深く頭を下げる。
雄の雉は、静かに茶太郎を見返した。
白鹿の首の鈴が鳴る。
しゃらん。
白鹿は道の中央から一歩退いた。
言葉はない。
許したとも、正しいとも言わない。
ただ、通る道を開けた。
近くにいた春日社の神人が、驚いた顔で白鹿へ頭を下げる。
「カスガ様が、道を認められた……」
「カスガ?」
「春日野の境を守る白鹿です。肩書きや言葉ではなく、ここへ入る者の所作を見ると伝わります」
茶太郎は白鹿カスガへ、もう一度礼をした。
カスガは返事をせず、森の奥へ歩き始める。
数歩進んでは振り返る。
「ついて来いってことかな」
茶太郎たちが後を追うと、木々の間に小さな泉が現れた。
澄んだ水が砂を押し上げ、静かに流れ出している。
ナギが泉へ入り、尾を揺らした。
「……やわらかい……ごま……くず……あう……」
泉のそばには、胡麻と吉野葛を入れた籠が置かれていた。
近くの僧坊から、精進料理の材料を冷やしに来た僧が置いたものらしい。
石斎が笑う。
「鳥を料理する前に、肉を使わぬ一品を作れということか」
カスガは泉の向こうへ立ち、茶太郎を見つめている。
茶太郎は白い胡麻を一粒つまんだ。
「これを、料理にするんですね」
現代の知識には、胡麻を極限まで細かくすり、葛と合わせて滑らかに練り上げる料理がある。
だが、少しでも火を急げば固まり方にむらが出る。
水分、練る力、火加減。
どれも霊力だけでは整えられない。
「作ります。《春日白露の胡麻豆腐》」
茶太郎が告げると、カスガは泉の水を一口飲んだ。
それから茶太郎の前へ、白い雫を一滴だけ落とす。
神がかった光も、奇跡も起こらない。
ただ水面へ広がった輪が、胡麻を練るための水量を示すように、幾重にも揺れていた。
茶丸はその輪を覗き込み、前足を伸ばす。
「茶丸、飲み水で遊ばないで!」
「ニャッ!」
白鹿カスガの鈴が、もう一度鳴った。
今度の音は、少しだけ笑っているように聞こえた。
奈良での最初の修行は、鳥を切ることではなく——
命を使わない料理から始まることになった。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございます。
白鹿のカスガと出会い、茶太郎は食べる命と帰す命について考え始めました。奈良で結ばれる新しいご縁も、ゆっくり見守ってくださいね。
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