第137話 「宇治川の一尾と、水霊鯉の三流れ膳」
――選ぶ、締める、運ぶ、そして余さず生かす――
翌朝、坪内石斎は宇治川の舟着き場で待っていた。
川漁師の舟には、大小十尾ほどの鯉が生簀に入れられている。
「一尾選べ」
石斎が告げた。
「大きい鯉が一番おいしいんですか?」
「それを私に尋ねるなら、試験は終わりだ」
茶太郎は生簀の前へしゃがんだ。
一番大きな鯉は立派だが、尾の動きが鈍い。
一番小さな鯉は元気だが、食べられる身が少ない。
鱗の艶、えらの色、泳ぎ方。
鑑定を使えば、弱っている魚は分かる。
しかし、どの一尾を食べるべきかまでは教えてくれない。
うじまるが川面から顔を出す。
「大きいからって、うまいとは限らないよ〜。鯉だけに、こいいうところを見ないとねぇ〜!」
「濃いところ?」
「細かいところ〜!」
石斎が眉をひそめる。
「水神は、いつもこうなのか」
「今日は静かな方です」
茶丸が答えるように鳴いた。
「……ニャッ」
ナギは生簀の周囲を泳ぎ、尾びれの長い水色の身体を揺らす。
「……この子……ながれに……まっすぐ……」
茶太郎は、中ほどの大きさの鯉を選んだ。
鱗に傷が少なく、流れへ逆らう力もある。
「なぜ、それだ」
「大きすぎる鯉は身が硬いかもしれない。小さい鯉は、まだ育てられる。この子なら元気で、食べるところも十分あります」
漁師が頷いた。
「よう見とる。今朝、網に入ったばかりの雄や」
「合格だ。次は運べ」
茶太郎は桶へ鯉を移そうとした。
「待て」
石斎が止める。
「宇治から京まで生かして運べば、桶も水も人手も要る。揺らされ続けた魚は疲れ、身も落ちる」
「じゃあ、ここで締めるんですか?」
「料理人は、命が食材へ変わる瞬間から目を逸らすな」
茶太郎の顔が強張った。
今まで魚を料理したことはある。
だが生きている一尾を、自分の手で締めたことはない。
「怖いか」
「……はい」
「ならば雑にするな。迷いながら何度も傷つける方が、魚を苦しめる」
石斎は急所の位置を示した。
宗次が茶太郎の後ろへ座り、小さな手へ自分の手を重ねる。
「一人で無理をせんでええ。けど、目は閉じるな」
茶太郎は鯉へ手を合わせた。
「いただきます」
一度で急所を突き、すぐにえらの内側へ刃を入れる。
鯉を清水の桶へ戻すと、血が流れ出した。
川へ直接流さず、桶の水は後で決められた場所へ処理する。
魚が暴れなくなるまで、茶太郎は目を逸らさなかった。
「これが、活け締め……」
「名は知らぬが、魚を早く締めて血を抜く技は漁師にもある」
石斎が答える。
「そなたの工夫は、この後だ」
内臓を早く外し、腹を清水で洗う。
濡らした麻布で包み、冷たい湧き水を入れた桶へ収める。
冷やしすぎる氷はない。
だから日陰を選び、途中で布を替え、できるだけ早く秘密基地へ運んだ。
亜空間収納には入れない。
入れれば腐敗を遅らせられるが、今日は運び方まで含めた試験だからだ。
基地へ戻ると、茶太郎は鯉を三つの流れへ分けた。
背の身。
脂のある腹身。
頭と中骨、皮の端。
料理の名は——
《水霊鯉の三流れ膳》。
第一の流れは、《水鏡鯉の柚子蒸し》。
背の身へ薄く塩を当て、しばらく置く。
表面に出た水分を布で押さえ、昆布と九条葱の上へ載せた。
強い蒸気を当て続けず、身の表面が白くなったところで火を弱める。
「もう上げるんか?」
八が尋ねる。
「火から外しても、中へ熱が進むの。固くなる前に止めたい」
第二の流れは、《水霊鯉の白味噌照り》。
腹身を軽く炙り、余分な脂を落とす。
白味噌、水飴、少量の酒を練ったたれは、最初から塗らない。
中まで火を通してから薄く塗り、最後だけ強い火へ近づける。
味噌を焦がさず、香りだけを立てるためだ。
第三の流れは、《水霊鯉の澄み雫》。
頭と中骨を霜降りし、血合いと鱗を取り除く。
京鈴が鍋の音を聞き、ナギが水の濁りを読む。
沸騰させず、灰汁を取り、二枚の麻布で濾す。
皮の端は湯引きして細く切り、芹とともに椀へ入れた。
一尾から、三つの料理。
捨てたのは、苦い胆と食べられない部分だけだった。
石斎はまず柚子蒸しを口へ運ぶ。
「柔らかい。だが、塩の当たりにむらがある」
次に白味噌照り。
「たれを後から焼いたのはよい。先に塗れば、水飴と味噌が焦げていただろう」
最後に澄み雫をすする。
椀を置き、茶太郎を見た。
「三つ作ったせいで、どれも完成には遠い」
茶太郎の肩が落ちる。
「だが一尾の性質を見て、部位ごとに火を変えた。魚を選ぶところから考えたこともよい」
「じゃあ……」
「試験は合格だ」
茶太郎の顔が輝いた。
うじまるが水桶から飛び出す。
「やったね〜! 鯉だけに、努力が報われて“こいのぼり”〜!」
「まだ鯉は登ってへんで」
甚八が返す。
石斎は笑いをこらえながら、今度は鳥の絵が描かれた札を差し出した。
「魚の次は鳥だ」
「鶴ですか?」
「鶴は試し切りに使えるほど安くない。まず鴨と雉で、骨格と火入れを学べ」
「どこへ行くんですか?」
「大和だ。寺の精進料理と、山里の鳥料理を同時に見せる」
宇治から京へ。
京から、今度は奈良へ。
茶太郎の料理修行は、一尾の鯉を余さず生かしたことで、次の土地へ流れ始めた。
このお話を読んでいただき、ありがとうございます。
一尾の鯉を選び、運び、無駄なく生かす。その一つひとつに支える人の手があることを、宇治川の流れと一緒に感じていただけたら嬉しいです。




