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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第三章 ~五歳の茶太郎、伏見へ――南へ広がる水輪~
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第136話 「式庖丁の鯉と、水霊鯉の澄み雫」

 ――触れずに切る技と、捨てられる命を生かす技――


 翌日、茶太郎たちは幕府の仮御所へ招かれた。


 台所の奥に設けられた式場には、白木の俎板まないたが置かれている。

 その上には、見事な鯉が一尾。

 左右には、長い包丁と真魚箸まなばしが並んでいた。


「絶対に前へ出るな」


 進士晴舎しんじ・はるいえが念を押す。


「声も立てるな。猫も入れるな」


 茶太郎が足元を見る。

 茶丸ちゃまるは、すでに幕の陰へ頭を入れていた。


「茶丸、戻って」


「……ニャッ」


 断る。


「今日は影猫衆のお仕事じゃないよ」


 茶丸は渋々戻り、宗次そうじの隣へ座った。


 式場へ、大草流おおくさりゅうの庖丁人が現れる。

 烏帽子と直垂を整え、鯉へ深く一礼した。


 右手には包丁。

 左手には真魚箸。

 指一本触れることなく鯉の向きを変え、骨の位置を確かめ、迷いなく刃を入れていく。


 衣の袖も、手のひらも魚へ触れない。

 真魚箸が動けば、包丁が続く。

 その所作は料理というより、静かな舞のようだった。


 茶太郎は瞬きも忘れて見つめた。

 大根を同じ厚さに切るだけで、三十日かかった。


 それなのに庖丁人は、遠い箸先から鯉の重さと骨の向きを読んでいる。


 茶丸が念話を送る。


『……力で切っていない。刃が通る道を知っている……』


 やがて鯉は、定められた形へ美しく切り分けられた。


「見事」


「さすがは大草流」


 見守っていた幕臣たちから、感嘆の息が漏れる。

 茶太郎には、料理だけでなく、将軍家の秩序まで示されたように感じられた。


 誰が魚を献じるのか。

 誰が包丁を握るのか。

 誰の前で、どの形へ切るのか。

 全てが家の格式と権威につながっている。


「晴舎さんが、料理であって料理じゃないって言った意味、少し分かった」


「式庖丁は腹を満たすだけのものではない」


 晴舎が答える。


「捧げる者、受ける者、切る者。その関係を皆の前で示す儀礼だ」


 式が終わると、上等な身は御前の料理へ運ばれた。

 一方、頭や中骨、腹身の端は脇の桶へ分けられる。


「それ、どうするんですか?」


 茶太郎が下働きの男へ尋ねた。


「身は十分に取れた。今日は御前の膳が優先だ。骨まで煮ている暇はない」


 裏庭では、式場を整えた者や薪を運んだ者が、冷えた粟飯を食べていた。

 立派な鯉を運び、器を洗い、火を守った者たち。

 だが、その誰も鯉の味を知らない。


「この骨、ぼくに使わせてください」


「御前の膳を遅らせるわけにはいかぬ」


 晴舎が厳しい目を向ける。


「別の竈と鍋を使います。半刻で仕上げます」


「霊力で煮るつもりか?」


「使いません。水の様子を教えてもらうだけです」


 晴舎は少し考え、頷いた。


「半刻だ。それを過ぎれば火を落とす」


 茶太郎ははち京鈴きょうすず甚八じんぱちを呼んだ。


「八、食べる人の数をお願い」


「二十八人。急な人を入れて三十人分や」


「甚八は、深い鍋と目の細かい麻布を二枚」


「二枚も使うんか?」


「二度、濾したいの」


「京鈴は鍋の音を聞いて」


「ぐらぐらさせへんのやね」


「うん。小さな泡が出るところで止めたい」


 まず、鯉の頭と中骨を関節から外した。

 骨を乱暴に割れば、髄が流れ、汁が濁る。先ほど大草流の庖丁人が見せた骨の位置を思い出し、藤四郎から学んだ包丁使いで切り分けていく。


 次に、骨と頭へ熱い湯を回しかけた。

 表面が白く変わったところで冷たい水へ取り、残った鱗、血合い、ぬめりを竹べらと布で丁寧に落とす。


「せっかくの味まで洗い流してへん?」


 八が尋ねる。


「臭みになるものだけ先に落とすの。澄んだ味は、骨の中からゆっくり出す」


 現代の知識にあった霜降りと血抜き。

 だが温度を測る道具はない。


 そこでナギが鍋の上へ浮かび、水色の尾を揺らした。


「……まだ……つめたい……」


 京鈴は竈の前で耳を澄ませる。


「鍋の底で、小さい音が始まった」


 茶太郎は薪を一本抜いた。

 沸き立たせず、湯の表面がかすかに震える火加減を保つ。


 ナギが水の濁りを読み、京鈴が鍋音の変化を知らせる。

 だが薪を動かし、浮かぶ灰汁と余分な脂をすくうのは茶太郎たちの手だった。


 生姜と九条葱の青い部分を加え、さらに静かに煮る。

 頃合いを見て、一枚目の麻布で骨と香味を濾す。

 続いて二枚目の布で細かな脂と欠片を取り除いた。


 鍋へ戻した汁は、わずかに金色を帯びながらも、底が見えるほど澄んでいた。

 塩を少し。

 たまりは色を濁らせないよう、香りが立つ程度。

 最後に柚子皮を細く削って浮かべる。


 茶太郎が名を告げた。


「《水霊鯉の澄みすいれいごいのすみしずく》です」


 三十の椀が、働いた者たちへ配られた。

 薪運びの少年が一口すすり、目を見開く。


「水みたいに澄んどるのに……鯉の味がする」


「骨と頭に残っていた味だよ」


「わしらが食べてもええんか?」


「みんなで運んだ鯉だから」


 式庖丁のような華やかさはない。

 器も揃っていない。

 それでも三十人が温かい椀を手にし、冷えていた指を温めた。


 大草流の庖丁人が、廊下からその様子を見ていた。


「骨の外し方は、まだ荒い」


 茶太郎の背筋が伸びる。


「はい」


「頭の奥に血が残っておる。次は、えらの付け根まで確かめよ」


「はい!」


「だが、濁りを力で消さず、濁る原因を先に取り除いた。その考えは悪くない」


 庖丁人はそれだけ告げ、去っていった。


 言葉は厳しい。

 だが茶太郎は、その背へ深く頭を下げた。


「水のように澄ませながら、鯉の味は残したか」


 今度は別の男が声をかけた。

 手には細かな切り傷があり、武家の客でありながら、料理人の目で鍋を見ている。


「私は坪内石斎つぼうち・せきさい。三好家の台所を預かる庖丁人だ」


「三好長慶さんの?」


「長慶殿から聞いている。決断を急がせぬ料理を作った幼子だとな」


 石斎は残った澄み雫を味わった。


「面白い。だが、今日の鯉は他人が選び、他人が切ったもの。そなたは残された骨を生かしたにすぎぬ」


 茶太郎は反論せず、頷いた。


「料理は、包丁を握る前から始まっている」


 石斎は鯉が描かれた木札を差し出した。


「明朝、宇治川へ来い。自分で一尾を選び、運び、締め、余さず料理してみせよ」


「霊力は使ってもいいですか?」


「魚の声を聞くためならよい。腕の未熟さを隠すためには使うな」


 茶太郎は木札を両手で受け取った。

 現代の知識だけでは料理にならない。

 水霊の助けだけでも完成しない。

 素材を見極め、人の手で技へ変える必要がある。


「教えてください!」


「合格すればな」


 石斎は笑った。

 幕府で形と儀礼を見た茶太郎は、次に宇治川で命と向き合う。


 五歳の料理人に課された最初の本格的な試験は——

 一尾の鯉を、自ら選ぶところから始まるのだった。

茶太郎たちの物語を見守ってくださり、ありがとうございます。


式庖丁の美しさと、命を余さず生かしたい気持ち。二つの思いが重なるところで、茶太郎の料理修行は次の段階へ進みます。

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『茶太郎がゆく』
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