第134話 「六角堂の専応と、花に残る専慶の手」
――何も置かない場所にも、意味がある――
翌朝、茶太郎は六角堂を訪れた。
山科言継から渡された札には、確かにこう書かれている。
『池坊専慶の花を見よ』
茶太郎は札と六角堂を交互に見た。
「専慶さんは、どこにいるのかな」
池のほとりで水を汲んでいた僧が、不思議そうに振り返る。
「専慶殿に会いに来たのですか?」
「はい。三条西公条さんが、花を教えてもらいなさいって」
僧は困ったように笑った。
「専慶殿が名を知られたのは、もう随分と昔のこと。今を生きる方ではありません」
「……えっ?」
茶太郎は札を裏返す。
裏には小さな文字があった。
『その心を継ぐ者、専応に尋ねよ』
「公条さん……わざと表だけ読ませたな」
茶丸が鼻を鳴らす。
「……ニャッ」
札の裏まで確かめなかった茶太郎が悪い。
「茶丸も教えてくれなかったじゃない」
「ニャ」
文字は読めない、と言いたげだった。
僧は声を立てて笑った。
「私は池坊専応。専慶殿が立てた花の心を、後の世へ伝えようとしている者です」
専応は茶太郎を、六角堂の北側にある僧坊へ案内した。
部屋には、竹筒や素焼きの壺、折れた枝、乾かした花が並ぶ。
華やかな花の御殿ではない。
泥のついた根や、切り落とされた葉まで置かれた、仕事場だった。
机の上には、何枚もの紙が広げられている。
枝の傾き。
花の高さ。
器と水の量。
立てた者の名と、花を見た者の感想。
「花伝書ですか?」
茶太郎が尋ねる。
「まだ、書と呼べるほど整ってはいません」
専応は一枚を持ち上げた。
墨で書いた線が消され、その横へ別の枝ぶりが描き直されている。
「良い花を立てられても、なぜ良かったのかを言葉にできなければ、技はその者とともに失われる。だから試し、記し、間違いを直しているのです」
完成した秘伝ではない。
迷いながら後世へ残そうとしている、花の覚え書きだった。
「料理と同じだ……」
「料理も記しているのですか?」
「八が分量を紐にして、お妙さんが献立帳に書いてくれます。ぼく一人だと忘れちゃうから」
「それは、すでに立派な伝承の始まりです」
専応は黒い折敷を茶太郎の前へ置いた。
その上には、三つのものがある。
白く茹でた蕪。
醤で煮た椎茸。
大根の若葉。
「これを、美しく盛ってみなさい」
茶太郎は考えた。
蕪を中央。
椎茸を左右。
空いた場所へ若葉を広げる。
「できました!」
折敷の上は、食材でいっぱいになった。
専応は何も言わず、椎茸を一つ取り除いた。
さらに若葉を短く切り、蕪の後ろへ立てかける。
最後に、蕪の白い切り口を茶太郎の方へ向けた。
それだけで、三つの食材が別物のように見えた。
「減らしたのに、きれい……」
「一つ一つが見えるようになったからです」
専応は蕪を指す。
「蕪にも顔があります。育った向き、切られた面、器の中で最も美しく見える角度がある」
「食べ物にも、向きがあるんですか?」
「人へ差し出すなら、どこを見せたいか考えねばなりません」
茶太郎は折敷を回してみた。
横から見ると、蕪の陰に椎茸が隠れる。
反対から見ると、若葉だけが大きく見える。
正面を決めるだけで、同じ料理の印象が変わった。
「では、空いているところは?」
茶太郎が尋ねる。
「何もない場所ではありません」
専応は答えた。
「客の目が休み、次の一品を想像する場所です。花も料理も、全てを見せようとすれば、かえって何も見えなくなる」
茶太郎は、昨日切った大根を思い出した。
同じ厚さ。
同じ煮え方。
同じ温度。
それだけでなく、何を見せ、何を置かないか。
料理には、まだ知らないことがいくつもある。
その時、僧坊の奥で風もないのに一本の枝が揺れた。
古い竹筒へ立てられた、松の枝だった。
枝の傍らに、薄い人影が現れる。
痩せた老僧が真魚箸のような細い枝を持ち、黙って花を見つめている。
「茶丸……あの人」
「……ニャッ」
茶丸にも見えている。
専応には見えないらしい。
老僧は茶太郎の折敷へ目を向けた。
茶太郎は余った椎茸を戻そうとした手を止める。
代わりに、器の縁についた一滴の汁を布で拭った。
老僧は何も言わない。
ただ、わずかに頷いた。
その姿は、松の枝へ溶けるように消えていく。
「今の人が……専慶さん?」
茶太郎が呟く。
専応は松の枝を見つめ、静かに目を細めた。
「私には見えませんでした。けれど、この枝は専慶殿が好んだ形を写したものです」
専応は、書きかけの覚え書きを茶太郎へ見せる。
そこには一文だけ記されていた。
『花は、立てた者の心のみならず、見る者の心にて完成する』
茶太郎は折敷へ向き直った。
専慶の霊は料理を作らず、答えも教えなかった。
ただ、茶太郎が余計な一滴を拭う所作を見届け、認めた。
その頷きだけで、胸の奥に温かな光がともっている。
専応は新しい紙を差し出した。
「今日見つけたことを、自分の言葉で書いてみなさい」
茶太郎は筆を握る。
まだ上手に字を書けないため、専応に手を添えてもらいながら、一文字ずつ記した。
『のこさない あけておく むきをみる』
不格好な三つの言葉。
それが、茶太郎にとって最初の料理花伝書となった。
帰り際、専応は一枝の柳を渡した。
「次は、これを膳の上で料理へ変えてみなさい」
「柳を食べるの?」
「食べてはいけません」
専応は真顔で答えた。
「料理の横へ、どう置くかを考えるのです」
茶太郎は柳を抱え、首を傾げる。
茶丸は、その垂れた葉へ飛びついた。
「茶丸、それは修行に使うの!」
「ニャッ!」
六角堂の境内に、茶太郎の声と葉の揺れる音が響いた。
形を見る修行は、始まったばかりだった。
今回もお付き合いいただき、ありがとうございます。
花を置く場所だけではなく、何も置かない場所にも意味がある。六角堂で教わった静かな気づきが、茶太郎の料理を変えていきます。




