第132話 「帰ってきた長刀と、百の縁」
――焼け跡に残ったものが、次の時代を結ぶ――
二代目の長刀が、近江の海から下京へ帰ってきた。
刃は油布に包まれ、堅田衆の船改め状とともに、長刀鉾町の会所へ運び込まれた。
天文法華の乱以来、祇園会は途絶えたまま。
鉾を建てる町家も、車輪を直す材木も、祭りを支える銭も足りない。
それでも長刀の帰還を知った町衆は、焼け跡の会所へ集まってきた。
「おかえり」
京鈴が、刃の前へ焼けた鈴を置いた。
誰に教わった言葉でもない。
その一言を聞いた老人たちが、顔を伏せた。
墨屋宗白は、堅田衆から渡された状と、八の結び紐、鉾町に残っていた古い記録を照らし合わせる。
「銘も長さも間違いない。これは、鉾町の長刀や」
大舘常興も頷いた。
「幕府の改めを済ませた。今後は町組と幕府、双方の記録へ残す」
一枚の証文へ全てを預けない。
帳面。
木札。
結び紐。
異なる記録を残し、後から確かめられるようにする。
灰帳衆との戦いで下京が学んだ、新しい守り方だった。
町衆の一人が長刀を見上げる。
「これで、すぐ鉾を建てられるやろか」
甚八が、焼けた車輪の金具を撫でた。
「まだ無理や。木も縄も人手も足りへん」
喜びに満ちていた人々の顔が曇る。
茶太郎は長刀の前へ進んだ。
「すぐじゃなくてもいいと思う」
「祭りができんのにか?」
「うん。長刀が帰ってきたから、今度はみんなが帰ってくる場所を作れるよ」
鉾は、長刀だけでは動かない。
木を削る者。
縄を綯う者。
車輪を直す者。
囃子を奏でる者。
通りを整え、食事を作り、見物人を導く者。
一つでも欠ければ、鉾は進まない。
「まだ見えない祭りも、一つずつ、自分たちで作ればいいよ」
宗白は長刀を見つめ、静かに頷いた。
「なら今日は、長刀を掲げる日やない。帰ってきたことを、皆で覚える日にしよう」
町衆は長刀の前へ、一本の長い縄を伸ばした。
鉾を引くための縄ではない。
焼け跡から集めた短い縄を、各町の者が少しずつ持ち寄り、結び合わせたものだった。
宇治から来た者。
下京に残った者。
堺から戻った者。
比叡山から薬草を運んだ者。
甲賀の山道を守った者。
堅田の水路を開いた者。
幕府、細川、三好の使者も、それぞれ一本を加えた。
結び目は揃っていない。
太さも色も違う。
それでも百を超える手が、一本の縄を支えた。
茶丸が縄の上を歩き、中央で座り込む。
「そこは猫の席やないで」
甚八が言う。
「……ニャッ」
茶丸は動かない。
虎吉や希太も縄のそばへ集まり、影猫衆の猫たちまで次々と座った。
「これでは引けんな」
大舘が渋い顔をする。
「今日は引かへんから、ええんちゃう?」
京鈴の言葉に笑いが起きた。
茶太郎は会所の外で、大鍋を用意していた。
献立は、結びすいとん。
宇治の茶を練り込んだ生地を小さく丸め、下京の蕪、比叡山の干し椎茸、近江から届いた豆を一つの鍋で煮る。
味は味噌、塩、たまりの三種類から選べるようにした。
「好きな味で食べてください。でも、すいとんは同じ鍋です」
三好長逸が、たまりの椀を受け取る。
「長慶殿が聞けば、また食べたがるな」
秋野新九郎は塩と柚子。
大舘は焼き味噌を多めに溶いた。
三人は互いの椀を見て、何も言わない。
ただ、同じ鍋の前に並んで立っている。
それで十分だった。
少し離れた場所には、灯屋宗玄がいた。
両手には、まだ火傷の布が巻かれている。
罪の裁きは終わっていない。
だから自由ではなく、大舘の監視下で、奪われた証文の持ち主を確かめる作業を命じられていた。
宗玄は一枚の木札を読み上げる。
「西洞院、塗師屋弥兵衛。一家は堺に避難、生存の知らせあり」
薄墨のお妙が控えへ書き、宗白が結び紐を確認する。
名を消した男が、今度は名を戻していく。
謝罪だけでは終わらない。
一人の名につき、一つの証拠を探す。
それが宗玄の最初の償いだった。
煤は宗玄の足元に座り、自分の椀が出てくるのを待っている。
「猫の分は味噌を入れないでね」
茶太郎が言う。
「心得ております」
宗玄は煤の前へ、冷ました鶏肉と出汁の椀を置いた。
煤は匂いを嗅ぐ。
それから宗玄の焼けた手へ頬を寄せ、静かに食べ始めた。
誰も宗玄を許したとは言わなかった。
けれど、償う道まで閉ざす者もいなかった。
夕暮れ。
長刀は新しい箱へ納められた。
宗白が蓋を閉じ、京鈴が焼けた鈴を回収する。
「また、お祭りの日に会おな」
ちりん。
小さな音が、焼け跡の通りへ響いた。
その帰り道、山科言継が茶太郎へ声をかけた。
「今日のすいとん、味は悪くなかった」
「ほんと?」
「だが、大きさが揃っておらぬ。煮えすぎたものと、芯の残ったものがあった」
茶太郎は目を丸くした。
人の心を鎮めることはできても、同じ大きさに切り分ける技術はまだ足りない。
「料理は心だけでは完成せぬ」
言継は一通の紹介状を差し出した。
宛名は、三条西公条。
「京には、包丁、膳、茶、花、香を極めた者たちがいる。そなたが本当に料理人を目指すなら、学びに来るがよい」
茶太郎は紹介状を両手で受け取った。
茶丸が隣で尾を揺らす。
「……ニャッ」
守るだけの旅は、ここで一区切り。
次は、作るために学ぶ旅が始まる。
茶太郎、五歳。
宇治の縁の料理人は、まだ包丁の持ち方すら知らない。
それでもその手には、百を超える縁が結ばれていた。
第二章 完。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございます。
帰ってきた長刀と、ここまで結ばれてきたたくさんの縁。第二章にお付き合いいただき、本当にありがとうございます。次の歩みもご一緒いただけたら嬉しいです。
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