第131話 「若き三好長慶と、決断を急がせない一椀」
――長逸から長慶へ、料理で結ばれる縁――
三好長慶との対面は、宇治の森家の茶庵で行われた。
幕府と細川方を刺激しないよう、兵を連れた公式訪問にはしない。
長慶は三好長逸と数名の近習だけを伴い、情勢を聞くための私的な茶会として宇治へ入った。
天文六年、長慶はまだ十代半ば。
だが、座敷に現れた少年の目には、年齢に似合わない鋭さがあった。
「そなたが茶太郎か」
「はい」
五歳の茶太郎は、長慶の前へ座った。
長慶は少し困ったように長逸を見る。
「聞いていたより、随分と幼いな」
「私も初めはそう思いました」
長逸が涼しい顔で答える。
「使番のふりをしてた人だ」
茶太郎が付け加えると、長逸は咳払いした。
「それは、もうよい」
「よくないよ。びっくりしたもん」
長慶の口元が、わずかに緩んだ。
しかし机へ三通の偽書が置かれると、その表情はすぐに消えた。
一通は三好方による長刀盗難。
一通は細川方による放火。
一通は幕府による土地横領の承認。
全て灰帳衆が争いを起こすために作ったものだった。
長慶は三好の偽印を確かめ、低い声で言う。
「我らの名を使い、京の宝を売ったか」
「真壁は、細川方や幕府の名も利用しました」
長逸が説明する。
「それでも三好の名に傷がついたことは変わらぬ」
長慶は拳を握った。
「兵を出し、残党を捕らえる。灰帳衆に関わった商人も、全て調べ上げよ」
近習たちが頭を下げる。
けれど茶太郎には、長慶の声から焦げたような味がした。
怒りだけではない。
早く正しい判断を示さなければ、自分も父のように倒される。
そんな恐れが混じっている。
「長慶さん、ごはんにしよう」
「今、決めねばならぬことがある」
「だからだよ」
茶太郎は小さな湯飲みを差し出した。
中身は、麦芽の水飴に少量の蜂蜜を合わせ、湯で溶いたもの。
宇治の青柑子の果汁を一滴だけ落としてある。
「甘いものか」
「疲れた時に飲む蜂蜜湯。でも、病気を治す薬じゃないよ」
「私は疲れてなどおらぬ」
そう言った直後、長慶の腹が鳴った。
静かな茶庵に、思いのほか大きな音が響く。
長逸が顔を背ける。
肩が震えていた。
「笑うな、長逸」
「笑っておりませぬ」
「笑ってるよ」
茶太郎が言うと、長慶は耳まで赤くした。
蜂蜜湯を一口飲む。
優しい甘みのあとから、青柑子の酸味がわずかに広がった。
「甘いのに、後へ残らぬな」
「次の味を邪魔しないようにしたの」
続いて茶太郎は、蕪と鶏肉の葛とじを運んだ。
鶏の出汁で柔らかく煮た蕪へ、溶き卵を流し、葛で薄くとろみをつけたものだ。
香りづけは柚子皮。
塩味は控えめだが、出汁の旨味が舌へ残る。
「豪華な魚も、珍しい唐物もないのか」
長慶が尋ねる。
「今日は勝つための宴じゃないから」
「では、何の料理だ」
「決める前に、ちゃんと息をするための料理」
長慶の箸が止まった。
茶太郎は長慶を責めず、次の蕪を器へよそった。
「怒ったまま命令すると、関係ない人まで捕まえちゃうかもしれないよ」
「残党を逃がせと申すか」
「違うよ。調べる人と、裁く人と、怒ってる人を分けたらいいと思う」
長逸が茶太郎を見る。
「五歳の言葉とは思えんな」
「道三先生と大舘さんが言ってたことを、料理にしただけだよ」
長慶は黙って葛とじを食べ進めた。
温かい餡が冷めにくく、一口ごとに呼吸が整っていく。
やがて彼は、先ほどの命令を書いた木札を裏返した。
「兵を一斉に出すのは止める」
近習が顔を上げる。
「しかし——」
「関係した荷と帳面を先に調べる。幕府、細川方、五町組にも立会人を求めよ。三好だけで捕らえれば、報復と受け取られる」
長逸が深く頷いた。
「三方返書をお使いになりますか」
「使う。細川晴元殿へ、偽書の写しと我らの調べを送れ。疑いがあるなら、兵ではなく返書を寄越してもらう」
怒りが消えたわけではない。
だが怒りに、進む道が与えられた。
長慶は空になった器を見つめる。
「茶太郎。そなたは料理で人の考えを変えるのか」
茶太郎は首を振った。
「料理で心を操ることはできないよ」
「では、今のは何だ」
「お腹が空いてる時より、少し考えやすくなっただけ。決めたのは長慶さんだよ」
長慶はしばらく茶太郎を見つめ、静かに笑った。
「恐ろしい料理人だな。手柄まで客へ返すのか」
その時、茶丸が座敷へ入り、広げられた地図の中央へ座った。
阿波、摂津、山城を、黒い身体でまとめて隠してしまう。
「そこを退いてくれぬか」
「……ニャッ」
茶丸は動かない。
長慶がそっと抱き上げると、茶丸は意外にも抵抗せず、その膝へ収まった。
長逸が目を見開く。
「長慶殿、猫の扱いにも慣れておられますな」
「阿波の屋敷には、書状の上で寝る猫が三匹いる」
威厳を保とうとする長慶の声とは裏腹に、指は茶丸の顎を丁寧に撫でていた。
「このことは外で申すな」
「もう遅いよ」
茶太郎が笑う。
茶庵に、再び小さな笑いが生まれた。
帰り際、長慶は茶太郎へ一枚の木札を渡した。
『三好長慶 料理の相談を請う』
「いずれ、兵でも公家でも商人でも、同じ席へ着かねばならぬ時が来る。その時は、私にもこのような料理を作ってほしい」
「うん。でも、ちゃんと食べる時間を作ってね」
「約束しよう」
長逸から長慶へ。
使番の小さな嘘から始まった縁は、宇治の一椀によって、三好家の中枢へ届いた。
そしてこの出会いが、後に茶太郎を幕府の料理番へ導く、最初の道標となるのだった。
このお話を読んでいただき、ありがとうございます。
若き三好長慶に差し出した一椀は、すぐに答えを出させるためのものではありませんでした。急がないことから始まるご縁を、見守ってください。




