第128話 「灰帳の主と、煤が選んだ一枚」
――安全のために名を奪った男――
灯屋宗玄の帳場は、東洞院の南にあった。
表には灯明油の壺が並び、裏手には分厚い土壁の蔵が建つ。
片耳の黒猫・煤は、閉ざされた門の前で立ち止まった。
「宗玄さんは、中にいるの?」
茶太郎が尋ねると、煤は一度だけ鳴いた。
大舘常興が手勢へ命じる。
「裏口も押さえよ。ただし油蔵で刃を振るうな。火が出れば、町を巻き込む」
正面の戸は、内側から開いた。
宗玄は灰色の羽織をまとい、一人で立っていた。
「長刀も灰帳も、取り戻されましたか」
「最初から知っていたんだね」
茶太郎が言う。
「ええ。鴉兵衛には期待しておりませんでした」
宗玄は動じない。
月行事屋敷への放火を記した指図書。
火走り弥六の証言。
薄墨のお妙が保存していた筆跡の控え。
荷車から見つかった偽札。
証拠は、一つではなかった。
大舘が告げる。
「灯屋宗玄。放火、偽札、証文の改竄、盗品売買の疑いで話を聞く」
「疑い、ですか」
宗玄は薄く笑う。
「これだけ揃えても、なお断定しない。茶太郎殿の教えでしょうかな」
「違うよ。町のみんなで決めたことだよ」
宗玄の笑みが消えた。
その背後の蔵から、墨と油の混じった匂いが漂う。
宗白が一歩前へ出た。
「あの中に、本当の証文があるな」
「本当とは、誰が決めるのです?」
宗玄は鍵を取り出し、自ら蔵を開けた。
壁一面の棚に、無数の帳面と家札が並んでいた。
焼けた家から拾われたもの。
堺へ逃れた者が残したもの。
死者の名が記されたもの。
そして、それらを新しい持ち主へ書き換えた偽の証文。
「これが灰帳衆のすべてです」
宗玄は中央の机へ手を置いた。
「町が焼ければ、持ち主は消える。残った者は土地を奪い合い、役人は賄賂で証文を選ぶ。ならば、初めから一人が管理すればよい」
「その一人が、宗玄さん?」
「私なら、二度と帳面を焼かせない」
宗玄は濁った左目を伏せた。
「私が幼い頃、家が焼けました。父は生きていた。母も私も生きていた。だが証文が焼けたため、役人は言ったのです」
——お前たちの家だった証しはない。
「土地は他人のものになり、父は失意のうちに死にました。あの日、私は知った。名前も家も、強い帳面を持つ者のものだと」
茶太郎の胸に、焦げたような苦みが広がる。
「だから、ほかの人の名前を消したの?」
「奪ったのではない。まとめたのです。私の帳面へ」
宗玄は棚を見渡した。
「人は間違える。町組も幕府も寺も争う。だから私が、正しい形へ書き直す」
「宗玄さんも、人だよ」
「私は間違えない」
その言葉が蔵に響いた。
煤が、ゆっくりと宗玄の腕から降りた。
床には二枚の家札が落ちている。
一枚は、宗玄の帳面で『一家死亡』とされた京鈴の札。
もう一枚は、宗玄が新しい商人へ与えた偽の札。
煤は二枚の匂いを嗅いだ。
そして偽札を通り過ぎ、京鈴の古い家札の上へ座った。
宗玄の顔が強張る。
「煤。こちらへ来なさい」
煤は動かない。
京鈴が何も言わず、焼けた鈴を掌に載せた。
ちりん。
小さく鳴った音に、煤は顔を上げる。
それでも家札から降りなかった。
まるで、そこに記された者が生きていると、全身で認めるように。
「猫のしたことだ」
宗玄の声が震えた。
「証拠にはならない」
「うん。証拠じゃないよ」
茶太郎は答えた。
「証拠は、お妙さんの帳面と、八の紐と、京鈴の記憶。煤は……自分で座る場所を選んだだけ」
宗玄は煤を見つめた。
命令しても来ない。
餌でも釣られない。
主人を嫌ったわけでもない。
ただ、消された名の上から退こうとしない。
薄墨のお妙が帳面を開いた。
「宗玄様。帰ってきた人の名を、私は十四人消しました」
「町を整えるためだ」
「十六人目です」
「何?」
「宗玄様の昔の家名も、ここに残っています」
お妙は古い帳面から、一枚の札を取り出した。
焼け焦げた札には、宗玄の父の名がかろうじて読める。
『灯屋宗兵衛 妻子あり』
宗玄の膝が揺れた。
父も母も、幼い自分も。
証しは消えていなかった。
誰かが拾い、読めぬまま別の帳面に挟んでいたのだ。
「……あったのか」
宗玄は札へ手を伸ばす。
だが、触れる寸前で指を止めた。
「今さら、何になる」
「忘れられない人や時間は、無理に消さなくていい」
茶太郎は静かに言った。
「でも、自分が忘れられたくなかったからって、ほかの人を消しちゃだめだよ」
宗玄は答えなかった。
大舘が縄を持って進み出る。
その時、蔵の奥で火花が散った。
細い導火縄が、油壺の列へ向かって燃えている。
宗玄が仕掛けたものではない。
窓の外に、幕府の装束を着た男の影があった。
灰帳衆の内通者——真壁主計允である。
「帳面を残すな!」
真壁が叫ぶ。
宗玄は初めて顔色を変えた。
「やめろ! あれには……町の名がすべて入っている!」
自分の支配を守るためではない。
消してきた者たちの名を守るため、宗玄は燃える導火縄へ飛びついた。
今回もお付き合いいただき、ありがとうございます。
名前を奪ってきた男も、最後にはその名前を守ろうとしました。間違えた人の中に残っていたものを、簡単に切り捨てずに見ていただけたら嬉しいです。




