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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第二章 ~四歳の茶太郎、京の大火を知る~
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第127話 「月行事屋敷の火と、帰る場所を守る町」

 ――一人の命令ではなく、皆の備えが炎を止める――


 秘密基地の扉を抜けると、下京の鐘が激しく鳴っていた。


 月行事屋敷の方角で、夜空が赤く染まっている。


「遅かった……!」


 茶太郎が駆け出しかける。

 だが、日置雪へき・ゆきが肩をつかんだ。


「火へ走る前に、退路を見ます」


 茶丸ちゃまるも鋭く鳴く。


「ニャッ!」


 影猫衆は、すでに動いていた。

 屋根の虎吉とらきちが火の広がる方向を知らせ、犬神のらくが避難路を巡回する。

 希太きたは煙の中に残された者の痛みを感じ取り、路地の奥へ前足を向けていた。


「まだ、中に誰かいる!」


 茶太郎たちが月行事屋敷へ着くと、町衆が二列に並び、井戸から水桶を運んでいた。

 先頭で声を張るのは、お寅婆おとらばばである。


「空の桶は右! 水入りは左! 突っ立っとる者は布を濡らせ!」


 甚八じんぱちは隣家との境へ駆け、土壁の割れ目を泥で塞いでいる。

 宗次とかん太は、燃え移りそうな庇を長い竿で落とした。

 京鈴きょうすずは目を閉じ、炎の音の向こうにある木の軋みを聞いていた。


「西の梁、もうもたへん! そこから離れて!」


 人々が退いた直後、焼けた梁が轟音とともに崩れ落ちる。

 けれど、火は隣の家へ届かなかった。


 復興の際に厚く塗った境の土壁が、炎を受け止めたのだ。


 茶太郎は息を呑んだ。

 以前なら、一軒の火が通り全体を焼いていた。

 人々が積み重ねた工夫が、今夜初めて町を守っている。


「宗白さんは?」


「まだ帳場の中や!」


 はちが叫んだ。


 墨屋宗白すみや・そうはくは、帳面を運び出そうとしているらしい。


 茶太郎は濡れ布を口に当て、入口へ向かう。

 だが茶丸が前へ立った。


「……ニャッ」


 子どもが火の中へ入るな。


 影猫衆の規則は、茶太郎にも適用される。


「でも……!」


「わたしが行きます」


 日置雪が濡れた外套を被った。

 弥七やしちと二人で腰縄を結び、外に残る甚八へ端を預ける。


「三十息で戻らなければ引いてください」


 雪と弥七が煙の中へ消えた。


 その間に、茶太郎は希太の示す路地へ走る。

 倒れた荷棚の下に、幼い男の子が取り残されていた。

 かん太が棚を持ち上げ、茶太郎が子どもを引き出す。

 母親は声もなく抱きしめ、何度も頭を下げた。


「言葉にできない痛みも、料理なら誰かに届く」


 茶太郎は以前の言葉を思い出した。

 けれど今夜、届くのは料理だけではない。


 水桶を渡す手。

 退路を教える声。

 火の中へ入らないと決める勇気。


 それらもまた、人を生かすための所作だった。


 やがて、雪と弥七が戻ってきた。

 二人の間には、煤だらけの宗白がいる。


「帳面は……置いてきた」


 宗白は咳き込みながら言った。


「ようやく分かった。人が残れば、書き直せる」


 八が結び紐を掲げ、京鈴が木札の箱を抱える。


「ここに写しがある」


「うちも名前を覚えとる」


 宗白は二人を見つめ、深く頭を下げた。


 その時、屋根の上を灰色の影が走った。

 右手を布で巻いた火走り弥六ひばしり・やろくである。


「まだ火が足りねえ!」


 弥六が油壺を振り上げる。


 虎吉は飛びかからなかった。

 代わりに瓦を一枚落とし、真下にいる甚八へ位置を知らせる。


「そこや!」


 甚八が竿を伸ばし、弥六の手から油壺を弾いた。

 壺は土の空き地へ落ちたが、割れない。


 弥七が屋根へ上がり、逃げ道を塞ぐ。

 追い詰められた弥六は火打石を取り出した。


「近づくな! ここを全部燃やす!」


 茶太郎は叫んだ。


「もう燃え広がらないよ!」


 水桶。

 土壁。


 屋根を監視する猫。

 避難路を守る犬。

 そして、持ち場を知る町の人々。


 誰か一人の命令ではない。

 町全体が、火に備える仕組みへ変わっていた。


 弥六は周囲を見回し、初めて怯えた顔をした。


「こんな町……聞いていない……」


 弥七がその腕を押さえ、火打石を奪った。


 まもなく、最後の炎も濡れむしろと土で覆われた。

 月行事屋敷の一部は焼けた。

 だが隣家への延焼はなく、死者も出なかった。


 夜明け前。


 捕らえられた弥六の懐から、一枚の指図書が見つかった。


『帳面が焼けたのち、灯屋が町の負債を引き受ける』


 末尾には、灯屋宗玄あかりや・そうげんの印。

 しかし大舘常興おおだち・じょうこうは、すぐには勝ち名乗りを上げなかった。


「印だけなら、偽造もできる」


 そこへ、薄墨のおうすずみのおたえが歩み出た。

 手には、宗玄の筆跡を写し続けた帳面がある。


「私が証言します。この指図書は、宗玄様が書かせたものです」


 焼け跡の向こうから、一匹の片耳の黒猫が現れた。

 すすだった。


 煤は指図書を嗅ぐと、宗玄の店がある方角へ歩き出す。

 茶丸は追わず、茶太郎を見上げた。


「うん。猫だけには行かせない」


 茶太郎は煤の後ろ姿を見つめた。


 次に守るべきものは、帳面でも建物でもない。

 灰の中で道を誤った、灯屋宗玄の心だった。

お読みいただき、ありがとうございます。


火を止めたのは、誰か一人の強い力ではなく、町のみんなで重ねた備えでした。帰る場所を守る手が、次は迷った心へ伸びていきます。

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『茶太郎がゆく』
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