第126話 「近江の海の船改めと、帰ってきた長刀」
――水を荒らさず、湖上の掟で盗品を止める――
蒼が見つけた舟は、宇治川を下って逃げるものではなかった。
対岸の葦場まで荷を運ぶ、積み替え用の小舟だった。
舟から下ろされた二つの木箱は、待っていた荷車へ移される。そこから醍醐の山道を越え、瀬田へ向かうつもりなのだ。
「このまま追っても、山道で見失う」
弥七が遠くの荷車を睨む。
茶太郎は目を閉じ、秘密基地の地脈を思い浮かべた。
以前、長刀の行方を追って堅田衆と縁を結んだ時、近江の海と秘密基地をつなぐ細い道が生まれている。
「一度、基地へ戻ろう」
「扉を使うんか?」
「うん。でも、荷物を追い越すためだけだよ。知らない場所には開けない」
茶太郎にしか開けられない亜空間の扉。
それは距離を消す力ではない。
自分で訪れ、土地に迎えられ、縁を結んだ場所へ帰るための道だった。
茶太郎が秘密基地の扉へ手を触れる。
土の白い糸。
宇治川の青い糸。
近江の海へ続く、水の縁。
三つが重なり、扉の向こうに堅田の舟着き場が現れた。
茶太郎、茶丸、弥七、日置雪が扉をくぐる。
最後に茶太郎が閉じると、道は音もなく消えた。
堅田の舟着き場では、湖族の若頭・湖六が待っていた。
「みおづち様から聞いた。怪しい荷が瀬田を出たらしいな」
湖六は厳しい目で湖面を見る。
「だが、堅田衆は京の命令だけでは船を止めん。ここには、ここで守ってきた掟がある」
弥七は大舘から預かった荷改め状を差し出す。
さらに八の結び紐、偽の荷割札、御者の証言を書いた木札を並べた。
「幕府の権威で押さえるんやない。堅田の船に偽札の荷が紛れた。その改めを頼みたい」
湖六は一つずつ確かめた。
「分かった。これは湖上の信用を守るための船改めだ」
ほどなく、蒼が空から舞い降りた。
長い嘴を北東へ向け、翼を二度打つ。
沖に、帆を低く畳んだ荷船が見えた。
「怪しいな。風があるのに帆を使わず、岸影ばかり進んどる」
湖六の号令で、三艘の小早船が出た。
茶太郎たちは中央の船へ乗り込む。
うじまるも水面から顔を出した。
「父ちゃん、長刀が来たよ〜! 長い物には巻かれろっていうけど、盗品には巻かれちゃダメだよ〜!」
湖の底から、鳰丸の声が響く。
『分かっておる。船は揺らさん。水の癖だけ教えよう』
近江の海の主は、霊力で波を起こさなかった。
代わりに、底を流れる水の速さをナギへ伝える。
ナギは尾を揺らし、湖六を見上げた。
「……みぎ……あさい……ひだり……ながれ……はやい……」
「左の澪筋へ入れ!」
船頭たちが櫂を合わせる。
水の流れを読んだ小早船は、荷船との距離を縮めていった。
「堅田衆の船改めや! 帆を下ろし、荷札を見せよ!」
荷船は止まらない。
船尾にいた男が、二つの箱へ油を振りかけた。
瀬田の鴉兵衛だった。
「近づけば燃やすぞ!」
弥七が立ち上がろうとする。
茶丸が前足で止めた。
「……ニャッ」
追い詰めれば、本当に火を放つ。
茶太郎は鴉兵衛へ叫んだ。
「燃やしたら、宗玄さんが困るよ!」
鴉兵衛の手が止まった。
「何……?」
「灰帳には、宗玄さんの取引も書いてあるんでしょ。全部燃やせって、本当に言われたの?」
鴉兵衛の視線が揺れた。
灰帳衆は帳面で人を縛る。
ならば、その帳面には仲間を縛る記録もある。
「黙れ!」
鴉兵衛は火打石を打つ。
だが、火はつかなかった。
上空から急降下した蒼が、嘴で火口箱だけを弾き飛ばしたのだ。
火口箱は湖へ落ち、すぐに沈んだ。
「今や!」
堅田衆の船が左右から荷船へ並ぶ。
船頭たちは鉤縄を船縁へ掛け、力を合わせて速度を落とした。誰も水へ落とさず、箱も傷つけない。
鴉兵衛は弥七に取り押さえられた。
湖六が二つの箱を改める。
一つ目には、灰帳衆の帳面。
もう一つの細長い箱には、油布で幾重にも包まれた長刀が納められていた。
宗白から預かった絵図と、刃元の銘を照らし合わせる。
「間違いない」
湖六は静かに言った。
「長刀鉾、二代目の長刀や」
茶太郎が油布を少し開くと、刃に朝の光が走った。
それは敵を斬る光ではなかった。
焼けた京で、祭りをもう一度立ち上げようとする者たちへ帰る光だった。
だが灰帳を開いた弥七の顔から、喜びが消えた。
「茶太郎……これを見てみ」
帳面の最後の頁には、次の火付けの日と場所が記されていた。
『月行事屋敷——今夜、子の刻』
宗玄は、茶太郎たちが近江へ出た隙を狙っていた。
「京へ戻らないと!」
茶太郎が扉の縁を思い浮かべる。
けれど扉は、持ち主のためだけの抜け道ではない。
長刀も灰帳も、証人も、無事に帰さなければならない。
湖六が船首を京の方角へ向けた。
「近江の海の荷は、堅田衆が守る。お前らは町を守れ」
茶太郎は頷き、秘密基地へ続く扉を開いた。
その向こうではすでに、火を知らせる下京の鐘が鳴り始めていた。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございます。
近江の海で守られた長刀が、ようやく帰るべき場所へ向かいます。水を荒らさずに道を守った堅田衆の働きも、覚えていてくださいね。




