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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第二章 ~四歳の茶太郎、京の大火を知る~
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第118話 「比叡の三つの椀と、門跡になった少年」

 ――誰も自分を見ていないと感じた心を、同じ鍋がほどく章――


 命令書へ署名しなかった夜。

 覚恕かくじょは、慈運じうんの居室に一人で座っていた。


 師が使っていた机。

 読みかけの経巻。

 書き損じた和歌の紙。

 部屋には、慈運だけがいない。


 僧たちは覚恕へ頭を下げる。

 だが、そのたびに覚恕の孤独は深くなった。


「御血筋に期待しております」


「皇子であられる門跡様ならば」


 誰も、覚恕自身が何を学び、何を恐れているかを尋ねない。


 廊下の向こうから、鍋をかき混ぜる音が聞こえた。

 覚恕が台所へ向かうと、茶太郎たちが蕎麦粉を練っていた。


「何をしている」


「晩ご飯を作ってる」


「持参した食料は、まだ交換を許しておらぬ」


「うん。だから交換じゃなくて、一緒に食べてもらおうと思って」


 茶太郎は蕎麦粉へ少量の麦粉と水を加えた。

 竹中久作たけなか・きゅうさくが生地を丸め、中央を指でへこませる。

 小僧たちは大根を刻み、武藤常近むとう・つねちかは不慣れな手つきで山菜を洗っていた。


「常近まで、何をしておる」


「叡丸に命じられました」


 黒猫の叡丸えいまるが、味噌壺の前へ座っている。


『猫のせいにするな』


 茶丸の念話に、常近は顔をしかめた。


「獣王殿。人には、面目というものがあるのです」


『猫にはない』


 鍋には、山の水と干し茸の戻し汁が入った。

 細かく刻んだ大根、山菜、干し茸を煮て、焼き味噌を溶く。


 丸めた蕎麦生地を落とすと、すいとんがふっくらと浮かび上がった。

 味噌と茸の香りが、冷えた台所から廊下へ広がる。


 茶太郎は、同じ鍋から三つの椀へよそった。


 一つ目を、亡き慈運の席へ置く。

 二つ目を、覚恕の前へ。

 三つ目は、昼に倒れた荷運び人へ差し出した。


 覚恕の眉が動いた。


「私と荷運びの者へ、同じ椀を出すのか」


「同じ鍋だから」


「私は曼殊院門跡となる者だ」


「うん」


「器も具も、同じなのか」


 茶太郎は荷運び人へ尋ねた。


「名前、なんていうの?」


「……与市よいちです」


「覚恕さんと与市さん、どっちも今日はほとんど食べてないよね」


 覚恕は言葉を失った。


「お腹が空いてるところは、同じだと思う」


「身分を軽んじているのか」


「違うよ。慈運さまが食べるなら、誰と一緒に食べたいかなって考えた」


 覚恕は、師の椀を見つめた。


 慈運は生前、身分で食卓を分けることを好まなかった。

 小僧が失敗して焦がした粥も、荷運び人が持ってきた歪な大根も、同じように食べた。

 それなのに覚恕は、門跡らしく振る舞うことばかり考え、師の教えを忘れかけていた。


 与市が先に蕎麦すいとんを口へ運んだ。


「……うまい。腹へ落ちる」


 覚恕も、ゆっくり椀を持ち上げた。


 味噌の温かさ。


 茸の旨味。

 少し不揃いな蕎麦すいとん。

 特別に豪華な料理ではない。

 だが、慈運と食べた食事の記憶がよみがえった。


「師も……このような味を好まれた」


 そのとき、三毛猫のすずが現れた。


 覚恕は無意識に膝を少し空ける。

 しかし鈴は、最初に与市の足へ身体をすり寄せた。

 次に茶太郎の隣へ座る。

 最後にようやく覚恕のもとへ来た。


「……私を最後に選ぶのか」


 茶丸が答える。


『猫は身分順に並ばぬ』


 茶太郎は鈴の背を撫でた。


「でも、ちゃんと来てくれたよ」


 覚恕は膝へ乗った鈴を見下ろした。


「皆、私へ頭を下げる。だが、誰も私を見ていない」


 初めて漏らした本音だった。


「父が帝だから、私を門跡にする。皇族だから、私の言葉に従う。ならば、私は何のために学んできたのだ」


 武藤常近が、覚恕の前へ膝をついた。


「わしも、門跡様の御血筋を守れば、山を守ったことになると思っておりました」


「違うのか」


「昨年、寺を守るため京へ下りました。敵と味方を分ければ、迷わず戦えると思った」


 常近の拳が震える。


「ですが、火は分けませんでした。寺も家も、武器を持つ者も、逃げる子どもも焼いた。わしは……京で誤りました」


 覚恕は、僧兵の首領が弱さを見せる姿を初めて見た。


「そなたが誤ったと認めれば、死んだ僧兵たちの戦いまで無駄になるのではないか」


「無駄にせぬため、同じ誤りを繰り返さぬのです」


 茶太郎が覚恕へ言った。


「迷い続けることも、覚恕さんらしさの一部だと思う」


「門跡が迷ってもよいのか」


「答えが見つからなくても、探しながら歩けばいいよ」


 茶太郎は、署名されなかった命令書へ目を向けた。


「でも、迷ったまま誰かの道を閉じたら、その人は帰れなくなる」


 覚恕は椀の底に残った汁を飲み干した。

 そして久作へ命じた。


「薬草を下ろし、塩と穀物を上げる道を描け」


「道を開かれるのですか」


「まだ決めておらぬ」


 覚恕は、今度は自分の意思で微笑んだ。


「決めるために、すべての道を見るのだ」


 慈運のために置かれた椀から、湯気が静かに昇っていた。

 それは、亡き師が新しい門跡の最初の決断を見守っているようだった。

茶太郎たちの物語を見守ってくださり、ありがとうございます。


立場の違う人が同じ鍋を囲むだけで、すべてが解決するわけではありません。それでも三つの椀から始まる対話を、信じてみたくなります。

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『茶太郎がゆく』
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