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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第二章 ~四歳の茶太郎、京の大火を知る~
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第117話 「曼殊院の覚恕と、署名されなかった命令」

 第117話 「曼殊院の覚恕と、署名されなかった命令」


 ――血筋を求められた少年が、自分の判断を探し始める章――


 曼殊院の鐘は、長く山内へ響き続けた。


 師・慈運じうんの亡骸の前に、若い僧が座っている。


 覚恕かくじょ


 後奈良天皇の皇子として生まれ、幼くして仏門へ入った少年だった。

 まだ十六歳ほどでありながら、慈運の後を継いで曼殊院門跡となることを求められている。


 周囲の僧たちは、次々と頭を下げた。


「帝の御子であられる覚恕様こそ、曼殊院を継ぐに相応しい」


「御血筋があれば、山門の諸院も異を唱えますまい」


「朝廷との縁も、さらに強くなりましょう」


 覚恕は静かに聞いていた。

 だが、誰も彼の学問や修行について語らない。

 誰も、師を失った悲しみを尋ねない。

 僧たちが拝んでいるのは、覚恕という人間ではなく、その身体に流れる皇族の血であるように感じられた。


「……私が継ぐ理由は、父が帝だからか」


 覚恕の問いに、僧たちは顔を見合わせた。


「それこそが、何者にも替えがたい御資格にございます」


 望んでいた答えではなかった。


 それでも覚恕は、弱さを見せまいと背筋を伸ばした。


 法要を終えると、強硬派の僧・豪円ごうえんが一通の文書を差し出した。


「新たな門跡として、最初の御決断を」


 覚恕が文面を読む。

 下京および法華宗徒に対し、比叡山の薬草、薪、木材、水を渡すことを禁じる命令だった。


「昨年、我らは多くの同胞を失いました」


 豪円は低い声で続ける。


「京の者たちは今も、山門を仇と呼んでおります。道を開けば、商人に紛れて間者や刺客が入るでしょう」


 覚恕の前へ筆と硯が置かれた。


「迷われれば、若い門跡は決断できぬと侮られます」


 その言葉が、覚恕の胸へ刺さった。


 血筋だけで座へ上がった子ども。

 自分では何も決められない飾り。


 そう思われることを、何より恐れていた。


「武藤常近。この命令を、僧兵の立場からどう見る」


 武藤常近むとう・つねちかは答えた。


「山の守りだけを考えるなら、道は閉じた方がよろしいでしょう」


「ならば、異論はないな」


「ただし――」


 常近の肩にいた黒猫・叡丸えいまるが、覚恕の前へ降りる。


「道を閉じた結果、山の者が飢えるなら、それも守りとは申せませぬ」


 豪円が睨む。


「僧兵の頭が、下京の肩を持つか」


「わしは山の者の腹を案じておる」


 覚恕は、茶太郎たちへ目を向けた。


「下から来た者。何を求めて山へ入った」


「病気の人に使う薬草です」


 茶太郎が答える。


「代わりに、塩と味噌と蕎麦粉を持ってきました」


「昨年、山門が京を焼いたことを知らぬのか」


「知ってる。焼けた家も、そこで泣いてた人も見たよ」


「ならば、なぜ山の者へ食料を持ってくる」


「お腹が空いてる人まで、あの火をつけたとは限らないから」


 堂内が静まり返った。

 豪円が声を荒らげる。


「子どもの理屈です。情けで山は守れませぬ」


「情けだけじゃない」


 竹中久作たけなか・きゅうさくが進み出た。


 板の上へ、黒と白の小石を並べる。

 黒い石は薬草と薪。

 白い石は塩、穀物、布。


「現在、下京へ向かう三本の道のうち、二本が止まっています」


 久作は白い石を一つずつ取り除いた。


「薬草を下ろさなければ、京の病人が困る。ですが、山へ上がる塩と穀物も止まります」


「下から奪えばよい」


「奪うには兵が要ります。兵を動かせば、食料がさらに要る。道を守る兵が増えれば、荷を運ぶ人手が減る」


 久作は最後の白い石を盤上から除いた。


「閉じた道の先で、先に飢えるのは山です」


 覚恕の顔に怒りが浮かんだ。


「そなたは、私に政を教えるつもりか」


 久作は頭を下げる。


「いいえ。荷の勘定を申し上げただけです」


 そのとき、堂の外で器が割れた。

 若い小僧が、薄い粥を運ぶ途中で倒れていた。

 椀に入っているのは、水ばかりで米粒も少ない。


「昨日から、山内の米を減らしております」


 常近が告げた。


「京からの荷が止まったためです」


 覚恕は手元の命令書を見た。

 ここへ署名すれば、自分の強さを示せる。

 だが、その強さによって、名も知らない小僧たちの椀がさらに薄くなる。


 筆を取る。

 墨を含ませる。


 豪円たちが息を呑んだ。

 覚恕は筆先を紙へ近づけ――そこで止めた。


「この命令には、今は署名せぬ」


「覚恕様!」


「道を開くとも言っておらぬ」


 覚恕は震える指で筆を置いた。


「山の者と、下の者。双方から話を聞く。その後、私が決める」


 豪円が詰め寄る。


「最初の御決断が、先延ばしでよろしいのですか」


「知らぬことを知ったふりで決める方が、門跡の名を汚す」


 その言葉は、光秀が妙覚寺跡で語ったものとよく似ていた。


 豪円は不満を隠さず、命令書を残して退出した。

 覚恕は筆を置いたまま、自分の手を見つめる。


「……私は、決められなかっただけではないのか」


 茶太郎はすぐには答えなかった。


 師を失ったばかりの少年に、正しい言葉が何か分からなかったからだ。


 そこへ一匹の三毛猫が現れた。

 覚恕が夜ごと密かに餌を与えている猫、すずだった。

 鈴は命令書の上へ座り込み、大きな欠伸をした。

 覚恕の口元が、わずかに緩む。


「そなたまで、署名するなと言うのか」


「にゃ」


 その夜、門跡の署名は書かれなかった。


 道はまだ閉じたまま。

 それでも、誰かを飢えさせる命令だけは、山を下りなかった。

最後まで読んでくださり、ありがとうございます。


署名しなかった一枚の命令書に、少年の小さくて大きな決断がありました。覚恕が自分の答えを見つけるまで、そっと見守っていただけたら嬉しいです。

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『茶太郎がゆく』
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