第115話 「高山の山蜂と、最初は採らない約束」
――手に入れたものを奪わず、来年へ残す章――
梅の枝に集まった蜂の群れを見て、妙覚寺跡の人々は騒然となった。
「火を持ってこい!」
「子どもが刺されるぞ!」
誰かが松明を取りに走ろうとする。
茶太郎は両手を広げた。
「待って! 襲いに来たんじゃないよ!」
「そんなこと、どうして分かる!」
「蜂たちは、新しい家を探してるんだ」
枝へ固まった蜂は、激しく飛び回ってはいない。
互いの身体へしがみつき、一つの大きな房になっている。
茶太郎の遠い知識では、群れのどこかに卵を産む母蜂がいる。その母蜂を守りながら、新しい住み処を探しているはずだった。
弥太郎が木陰の丸洞を指す。
「あの家へ入れられへんか?」
「無理に追ったら逃げるかも」
「なら、蜂に選ばせる」
二人は甚八と十兵衛の助けを借り、丸洞を梅の枝の下へ移した。
地面には白い布を敷き、その端を入口へつなぐ。蜂が落ちても、丸洞まで歩ける道にした。
顔や首には、目の粗い麻布を巻く。
弥太郎が茶太郎の姿を見て笑う。
「畑の案山子みたいやな」
「弥太郎くんも同じだよ」
甚八が梅の枝を支え、十兵衛が下から籠を構える。
「落とすぞ。騒ぐな」
「十兵衛さんが一番怖い顔してる」
「蜂に顔は関係ない」
枝を一度だけ、強く揺らす。
蜂の塊が籠へ落ちた。
低い羽音が、辺り一面へ広がる。
「うわっ!」
茶太郎と弥太郎は同時に後退した。
「動くな!」
十兵衛に叱られ、二人はその場で固まる。
籠を布の上へ伏せると、蜂たちは少しずつ丸洞の方へ歩き始めた。
一匹。
十匹。
やがて、入口へ向かう蜂の流れができる。
空中を飛んでいた蜂も、その流れへ加わっていった。
弥太郎が息を潜める。
「入ってる……」
その瞬間、一匹の蜂が麻布の隙間から入り、弥太郎の頬を刺した。
「痛っ!」
「弥太郎くん!」
茶太郎が駆け寄ったところで、自分も額を刺された。
「痛い!」
二人は顔を押さえ、地面を転げ回る。
十兵衛が呆れた声を出す。
「動くなと言っただろう」
「未来の知識があっても、刺されるやないか!」
「知識と痛いのは別だよ!」
曲直瀬道三が針を取り、刺された場所を冷やした。
「息苦しさや全身の異変が出たら、すぐに知らせよ。二人とも、今日は巣箱へ近づくな」
「でも、蜂が――」
「蜂より先に、お前たちが倒れる」
夕暮れまでに、群れのほとんどが丸洞へ入った。
入口では、蜂たちが行き来している。
追い込んだのではない。
最後は蜂自身が、その家を選んだのだ。
茶太郎と弥太郎は、腫れた顔を並べて丸洞を眺めた。
「やったね」
「顔は負けたみたいやけどな」
翌日から、二人は巣箱を開けなかった。
離れた場所から、
蜂がどの方角へ飛ぶか。
どんな花へ向かうか。
雨の日に入口へ水が入らないか。
蟻や大きな蜂が近づいていないか。
それだけを記録した。
十兵衛が木札へ書き、ハチが縄の結び目で日数を残す。
数週間後。
丸洞の上蓋を、甚八が一度だけ静かに開けた。
内部には、白い巣が作られ始めている。
蜂蜜も、わずかに蓄えられていた。
弥太郎が目を輝かせる。
「採れる?」
茶太郎は巣の大きさを見た。
群れは新しい家へ来たばかりだ。巣を作り、子を育て、冬を越すためには、まだ多くの蜜が要る。
「今回は採らない」
「一滴も?」
「うん。最初の年は、蜂のものにしよう」
弥太郎は不満そうに巣を見つめた。
「半分残せばええんやないか?」
「半分って決めるのも、人の都合だよ。花が少なかったら、半分でも足りないかもしれない」
「蜂に必要な量を先に考えるんか」
「来年も、ここにいてもらいたいから」
弥太郎は、ゆっくり頷いた。
「取れるだけ取るのは、治めることやないんやな」
二人は蓋を閉じた。
最初の収穫は、何も採らないことになった。
その代わり、弥太郎が持ってきた蜂蜜を少量だけ使い、麦芽の水飴へ混ぜた。
完成したのは《高山蜂蜜飴》。
病後の者には湯へ薄く溶き、食事を受けつける助けとして使う。残りは高山へ持ち帰り、次の巣箱作りに備える。
久秀が丸洞を眺めながら言った。
「山へ蜜を探しに行くのではなく、蜂が戻りたくなる場所を作る。町も同じかもしれんな」
弥太郎が警戒する。
「人を巣箱へ閉じ込めるつもりか?」
「住みたくなる町を作るという意味だ」
十兵衛が横から口を挟む。
「あなたが言うと、閉じ込める方に聞こえます」
「明智殿は私への疑いを育てすぎではないか?」
「疑いは採らずに残しておきます」
高山へ帰る朝。
弥太郎は蜂蜜の小壺を茶太郎へ差し出した。
「これは、ぼくら二人の最初の蜂蜜や」
茶太郎は半分だけ受け取り、残りを返した。
「来年は、もっと採れるといいね」
「でも、蜂の分が先や」
「うん。蜂の分が先」
それが、宇治と摂津高山を結ぶ最初の約束となった。
お読みいただき、ありがとうございます。
手に入れたらすぐ取るのではなく、まず蜂の暮らしを守ること。小さな約束が、山と町を結ぶ長いご縁に育っていきます。
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