第112話 「病食見分帳と、腹黒い薬材商」
――医と食と記録と政が、一つの町を生かす章――
薬材商を装った男は、東井戸の前に立った。
名は松永久秀。
だが、この場で彼の素性を知る者は少ない。
「井戸を止めれば水が足りぬ。ならば、ほかから運べばよい」
久秀は周囲を見回し、次々と指示を出した。
「西の寺に深井戸がある。荷車を六台、水桶を三十。薪は河原の材木置き場から回す。病人が使う柄杓と椀には赤い紐を結び、ほかと混ぜるな」
町人が反発する。
「水も薪も、ただやない!」
「材木置き場の主が出し渋るなら、蔵を開けさせる」
「どうやって?」
久秀は懐から、三好家の紋が入った小さな札を覗かせた。
「嫌われる覚悟があれば、方法はいくらでもある」
茶太郎が久秀の袖を掴んだ。
「怖がらせて出させるの?」
「今は一刻を争う」
「でも、無理に取った食べ物や薪は、縁を切る味がするよ」
「縁で病人の喉が潤うのか?」
久秀の言葉に、茶太郎は答えられなかった。
そこへ、お寅婆が杖で久秀の足を叩いた。
「子どもを言い負かして、ええ気になるな」
「痛いですな、婆殿」
「蔵は開けさせる。ただし、奪うんやない」
お寅婆は材木商や味噌屋の主人を集めた。
「これは施しやない。貸しや。水桶一つ、薪一束まで帳面につける。生き延びた者が、働けるようになったら返す」
「返せん者は?」
「町の仕事で返したらええ。道掃除でも、井戸さらいでも、子守でもな」
施しなら受け取れない者も、借りた物なら受け取れる。
宗白が貸し出した量を文字で記し、ハチが縄の結び目で同じ量を残した。
久秀は感心したように笑う。
「なるほど。銭だけが返済ではないか」
「人を動かすのが得意なくせに、人の意地は分からんのやな」
「勉強になりました」
「なら授業料を払い」
久秀は本当に銭を一枚渡した。
その間に、十兵衛と甚八は東井戸を調べていた。
井戸の上手には、仮小屋の便所が新しく作られている。
焼けた井戸枠は一部が沈み、雨水が流れ込む溝もできていた。さらに、病人の多くが同じ桶と柄杓を使っている。
十兵衛は木札を並べた。
「この井戸を使った者が多い。ただし、井戸の水を飲んだ者すべてが倒れているわけではない」
一渓が頷く。
「身体の強さ、飲んだ量、食物の状態も違う。原因を一つに決めつけるな」
「なら、井戸は止めないのですか」
「疑いが強く、代わりの水があるなら一時止める。それで新たな病人が減るかを見る」
茶丸が井戸枠へ前足を置いた。
『霊の呪いではない。水と、人の暮らしの置き方が乱れている』
十兵衛はそれも、断定ではなく所見として記した。
西の井戸から水が運ばれ、飲み水は一度沸かされた。
病人の椀と柄杓を分け、使った布は洗って日に干す。便所から井戸へ水が流れないよう、甚八たちが仮の溝を掘った。
茶太郎は、一渓の診立てに合わせて三つの食治粥を作り続けた。
すぐに全員が治ったわけではない。
熱が続く者もいた。
薬が効かず、さらに弱る者もいた。
それでも三日後、新たに倒れる者は明らかに減っていた。
十兵衛は、減った人数だけでなく、変わらなかった症状と悪化した患者も木札へ残した。
一渓はその記録を一冊へまとめ、表紙に題を書く。
――病食見分帳。
「効いた薬だけを書くな。効かなかった薬も、食べられなかった料理も残せ」
一渓は筆を置き、本名を記した。
曲直瀬正盛。
号は道三。
「失敗は恥ではない。隠せば、次の患者を同じ失敗で苦しませる」
久秀は空になった大鍋を見つめた。
「医と食が同じ源から出るというなら、政も同じであろうな」
十兵衛が顔を上げる。
「政も?」
「薬を与えても、明日食う米がなければ、また倒れる。粥を振る舞っても、井戸が汚れたままなら、また病む」
久秀は水桶、井戸、貸し出し帳を順に指した。
「病人を治すのが医なら、病を生まぬ町を作るのが政だ。医と食と政――源は、人を生かすことにある」
道三が静かに頷いた。
「医者が人の脈を診るように、為政者は町の脈を診るか」
「水が滞れば濁り、荷が滞れば飢え、訴えが滞れば恨みになる。人も町も、詰まったところから病むものです」
茶太郎は久秀を見上げた。
「じゃあ、久秀さんもお医者さんなの?」
「いや。私は腹黒い役人だ」
「お腹が黒いなら、道三先生に診てもらわないと」
道三は真顔で答えた。
「それに効く薬は、まだ知らぬ」
十兵衛も木札を削りながら言う。
「手遅れなのでしょう」
「お前たち、病人へのいたわりを私にも向けられぬのか」
初めて四人の間に笑いが起きた。
そこへ、大舘常興と、一人の武者が現れた。
使番として茶太郎たちを助けてきた、長逸である。
久秀は武者の前へ膝をついた。
「三好長逸様。妙覚寺跡の病について、ご報告いたします」
茶太郎は目を見開いた。
「長逸さんが……三好長逸本人?」
長逸は困ったように笑った。
「黙していてすまなかった。使番を装い、宇治川と京の様子を自分の目で確かめていたのだ」
常興は病食見分帳を読み、十兵衛へ尋ねた。
「仕える主はないと言ったな」
「はい」
「では、幕府の施薬と兵糧の記録を、しばらく手伝え。正式な召し抱えではない。働きを見て決める」
長逸も帳面の写しを手に取った。
「これは三好長慶様へ届けよう。兵を増やす者ではなく、兵と民が倒れる前に異変を見つける者としてな」
十兵衛は二人を交互に見た。
「幕府と三好、双方へ仕えよと?」
茶太郎が答える。
「どっちかを倒すためじゃなくて、どっちの人も倒れないようにする仕事だよ」
十兵衛は長く黙ったあと、頭を下げた。
「……お引き受けします。ただし、都合の悪い記録も消しません」
常興と長逸は、同時に頷いた。
妙覚寺跡で作られた一冊の帳面が、幕府と三好を結ぶ最初の細い橋となった。
茶太郎たちの物語を見守ってくださり、ありがとうございます。
よいことだけではなく、失敗も残す帳面が、思いがけず人と人をつなぎました。少し腹黒い商人の正体も、これからゆっくり見えてきます。




