第109話 「菊幢丸の初参内と、猫が選んだ道」
――守るべき面目と命の間で、父が初めて選び直す章――
天文六年正月二十八日。
南禅寺の御所は、夜明け前から慌ただしかった。
菊幢丸が、初めて禁裏へ参る日である。
門前には輿が置かれ、幕府の奉公衆が道具や装束を改めている。細川方の役人も、東山から洛中へ至る道の警護に加わっていた。
茶太郎たちが到着すると、榊田弥兵衛が待っていた。
「遅いぞ。今日は猫も勝手に歩かせるな」
茶丸が弥兵衛を見上げる。
『猫に命じる前に、自分の鉢割れを隠せ』
門番小屋の奥から、例の鉢割れ猫が顔を出していた。
「……あれは警備の補佐だ」
茶太郎は笑いを堪えながら、供の者たちへ温かい焼き味噌湯を配った。
長い行列になる。
空腹や冷えで倒れる者が出れば、菊幢丸の輿も止まってしまう。
大舘常興は味噌湯を一口飲み、すぐに道筋を記した絵図へ目を戻した。
「南禅寺を出て、粟田口から北西へ進む。大路を通り、禁裏へ入る。余計な変更は許さぬ」
そこへ、灰色の衣を着た若い役人が現れた。
細川方の検断役、秋野新九郎である。
「大舘殿。東山の道に、昨夜新しい柵が置かれました。幕府からの指示と聞いておりますが」
「そのような指示は出しておらぬ」
二人の視線が鋭く交わった。
新九郎は一枚の通行札を差し出した。
幕府の印が押されている。
だが常興は、すぐに首を振った。
「印の位置が違う。似せてはいるが、これは偽物だ」
偽の通行札は、大路を避けて細い道へ行列を誘導する内容だった。
「何者かが、輿の道を変えようとしている……」
その頃、慶寿院に抱かれた菊幢丸が姿を見せた。
昨春よりずっと大きくなっている。
茶太郎を見つけると、小さな手を伸ばした。
「覚えてるのかな」
茶太郎が指を差し出すと、菊幢丸は嬉しそうに握った。
少し離れた場所で、父・義晴がその様子を見ていた。
だが今日も、家臣の前では我が子を抱こうとしない。
「出立せよ」
義晴の命で行列が動き始めた。
先頭を奉公衆、その後ろを細川方の警護役が進む。菊幢丸の輿を中心に、女房、僧、供の者たちが続いた。
下京から手伝いに来た京鈴も、茶太郎の隣を歩いていた。
やがて一行が、土塀に挟まれた細い道へ差しかかる。
京鈴が突然、足を止めた。
「……鳴いてる」
「何が?」
「壁の木。ぎい、ぎいって……折れる前の声」
見たところ、土塀に異常はない。
警護役は先を急がせようとする。
だが京鈴は、片方だけの赤い草履を踏ん張った。
「行ったらあかん!」
茶太郎が塀へ近づくと、ゆかりの糸が塀の上で黒く絡んだ。
新九郎が下部を調べる。
支えとなる木材へ、新しい切り傷があった。
「誰かが楔を抜いている」
常興が義晴へ道の変更を進言する。
しかし義晴は首を横へ振った。
「今ここで道を変えれば、幕府が細川方の警護を信用していないように見える」
新九郎の顔が強張る。
「我らを疑われますか」
「そうは言っておらぬ。だからこそ、予定どおり進む」
面目を守るため、危険な道を通る。
茶太郎には、義晴の胸から渋く焦げた味がした。
そのとき、輿の屋根へ灰白色の影が飛び乗った。
翁だった。
「猫を下ろせ!」
奉公衆が手を伸ばす。
翁はひらりとかわし、輿から降りると、脇の小道へ進んだ。
そこで振り返り、菊幢丸を見つめる。
御簾の中から翁を見つけた菊幢丸が、声を上げて笑った。
翁が一歩進む。
菊幢丸がまた笑う。
まるで猫に道を教えているようだった。
周囲の視線が義晴へ集まる。
しばらくの沈黙の後、義晴が告げた。
「……若君が猫を気に入ったようだ。今日は猫を先導役とする」
家臣たちは頭を下げた。
将軍が恐れて道を変えたのではない。
若君を喜ばせるため、縁起のよい猫に従った。
義晴が皆の面目を残しながら、初めて息子の命を優先した瞬間だった。
一行が小道へ移った直後。
背後で、土塀が大きな音を立てて崩れた。
土煙の中から見つかったのは、切られた楔と、火を移すための油布だった。
秋野新九郎は油布を拾い上げた。
「輿を潰すためではない。騒ぎを起こし、幕府と細川を疑わせるためか……」
油からは、六角堂の悪銭袋と同じ匂いがした。
翁は歩みを止めず、禁裏へ続く道を進んでいく。
茶太郎は菊幢丸の輿に寄り添いながら、崩れた塀を振り返った。
灰の中で動く何者かが、今度は将軍の子へ手を伸ばし始めていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
初めての参内で守りたかったのは、立派な行列よりも、小さな命でした。猫たちが選んだ道の先を、また一緒に歩いていただけたら嬉しいです。




