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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第二章 ~四歳の茶太郎、京の大火を知る~
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第107話 「南禅寺の春粥と、生まれたばかりの菊幢丸」

 ――父になれない将軍と、小さな手が結んだ最初の縁――


 天文五年、春。


 京が大火に包まれる、まだ少し前のことだった。

 四歳の茶太郎は、伊平いへいじいさんに連れられ、南禅寺の門前に立っていた。

 寺の奥には、将軍・足利義晴あしかが・よしはるの御所が設けられている。

 その一角で、男子が生まれたばかりだった。


「止まれ」


 門を守る武士が、槍を横にする。

 榊田弥兵衛さかきだ・やへえ。左の眉に傷がある、堅い表情の男だった。


「その荷は何だ」


「米と乾物じゃ。産所のお女中らが、ろくに食べとらんと聞いてな」


 伊平が答えると、弥兵衛は一つずつ荷を改めた。

 米、干し大根、焼き味噌、芹。

 武器になる物はない。

 それでも弥兵衛は、茶丸を見て眉を寄せた。


「猫は入れられん」


 茶丸は黙って弥兵衛を見上げる。

 その足元へ、どこからか鉢割れ猫が現れ、弥兵衛の脛へ顔をすり寄せた。


「……この猫は、門番をしているだけだ」


 弥兵衛は咳払いした。

 茶丸が短く鳴く。


『猫好きだ』


「茶丸、言っちゃだめ」


「何か言ったか?」


「何も言ってないよ」


 産所の台所では、女房たちが疲れ切っていた。

 出産の世話、湯の用意、衣の洗濯、夜通し泣く赤子の見守り。飯を食べる間もない。

 特に乳母の一人は、青い顔で壁にもたれていた。


「食欲がございません。若君が泣いておられるのに、私だけ食べるなど……」


 茶太郎は首を振った。


「食べないと、赤ちゃんのお世話ができないよ」


 乳母は椀を受け取ろうとしない。


 茶太郎は大きな鍋に米と多めの水を入れ、ゆっくり煮始めた。


 干し大根を細かく刻み、柔らかくなったところへ芹を加える。焼き味噌は香りが残る程度に、ほんの少しだけ溶いた。

 春粥の湯気が、冷えた台所へ広がっていく。


「赤ちゃんに食べさせるのか?」


 背後から厳しい声がした。

 幕府の重臣、大舘常興おおだち・じょうこうだった。


「ううん。赤ちゃんにはまだ食べさせないよ。お世話する人が食べるの」


「料理で若君を治すなどと言い出すなら、追い返すところだった」


「病気じゃない赤ちゃんを、治す必要はないよ」


 常興は少しだけ目を細めた。

 茶太郎は乳母の前へ椀を置く。


「全部食べなくていいよ。一口だけでも」


 乳母は湯気を吸い込み、ようやく匙を取った。


 一口。

 もう一口。

 粥を半分ほど食べると、そのまま隣室で横になった。


 茶太郎たちが他の女房へ粥を配り終えた頃、休んでいた乳母が起き上がった。

 顔には、わずかに色が戻っている。

 ほどなくして乳を与えられた赤子は、ようやく泣きやんだ。


 御簾の内から、慶寿院けいじゅいんが茶太郎を呼んだ。


「この子へ、顔を見せてあげてください」


 白い産着に包まれた、小さな赤子。

 後の足利義輝となる菊幢丸きくどうまるだった。


「ちっちゃい……」


 茶太郎が恐る恐る指を近づける。

 菊幢丸の手が動き、その人差し指を握った。

 あまりにも弱く、それでも離すまいとする力だった。


 ゆかりは、赤子と茶太郎の間に生まれた細い金の糸を見つめる。


「糸が……未来へ伸びてる」


 少し離れた場所には、父・義晴が立っていた。

 だが、近づこうとしない。


 家臣たちの前で赤子を抱けば、父としての弱みを見せることになる。幼い我が子へ情を示せば、次の将軍をめぐる争いに利用される。


 義晴は、ただ頷いた。


「料理の礼は、後ほど届けさせる」


 それだけ告げて、部屋を出ていった。


 夜。


 人の気配が消えた産所へ、義晴は一人で戻ってきた。

 菊幢丸の寝床の前には、灰白色の老猫が座っている。

 片耳の先を失い、尾が二つに分かれかけた影猫衆の相談役。


 おきなだった。


「そこを退け」


 翁は動かない。


「将軍に道を空けぬか」


 翁は前足で、赤子の隣の座布団を二度叩いた。


『座れ』


「私は、抱き方など知らぬ」


『知らぬなら、習え。将軍になる前に、そなたも父になったのであろう』


 義晴は周囲を見回した。

 見ている家臣はいない。

 いるのは、眠る我が子と一匹の老猫だけだった。


 ぎこちない手で、義晴は菊幢丸を抱き上げる。

 赤子が身じろぎし、小さな手で父の衣を掴んだ。

 義晴の肩から、ゆっくりと力が抜けた。


「……軽いな」


『今はな。背負わせれば、すぐ重くなる』


「何を背負わせるというのだ」


『そなたが恐れているもの、すべてだ』


 義晴は答えなかった。

 ただ、その夜だけは、我が子を寝床へ戻そうとしなかった。


 そして時は、天文六年の冬へ戻る。

 茶太郎は山科言継から渡された、南禅寺への招き状を胸に抱いた。


「菊幢丸さま、大きくなったかな」


 茶丸が尻尾を揺らす。


『会えば分かる』


 翌朝、茶太郎たちは再び南禅寺へ向かうことになった。

 今度は、生まれたばかりの赤子ではない。


 初めて禁裏へ参る菊幢丸と、その未来を守るために。探すことになった。

このお話を読んでいただき、ありがとうございます。


生まれたばかりの菊幢丸と、うまく父になれない将軍。南禅寺の春粥が結んだ小さな縁を、これからの物語でも大切に育てていきます。

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『茶太郎がゆく』
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