第106話 「種蕎麦を食べない約束と、返し種のすいとん」
――今日の空腹と、まだ見えない実りを同じ椀で守る章――
冬の朝、下京の共同炊事場へ、一人の男が駆け込んできた。
背負っていた俵を床へ下ろすと、誰にも触らせまいと、その前に座り込む。
男の名は、種守弥作。
焼け跡に残された種籾や種蕎麦を預かる役目を担っていた。
「これだけは炊いたらあかん。春に蒔く種や」
だが、炊事場には腹を空かせた人々が並んでいる。
「春まで生きられへんかったら、種を残して何になる!」
「子どもだけでも食わせてくれ!」
俵へ伸びた手を、弥作が身体で押し返した。
「これを食うたら、次の秋には、もっと多くの者が飢えるんや!」
どちらも間違っていなかった。
今日を生きなければ春は来ない。
けれど、種を食べれば、その先の実りは消えてしまう。
茶太郎は俵へ手を触れた。
亜空間へ入れれば、種を腐らせず保管できる。
だが、それでは空腹を満たせない。
ゆかりが、人々と俵の間を見つめる。
「糸が二つに裂けてる……。今日を生きたい糸と、明日を残したい糸」
茶丸が静かに鳴いた。
「……ニャッ」
『どちらかを切るな。別の道を探せ』
そこへ、南山城から来た農夫が姿を見せた。
庄吉という、小柄だが腕の太い男だった。
「伊平さんから聞いて来た。蕎麦を蒔く場所を探しとるそうやな」
庄吉が荷を開く。
中には種に使える蕎麦と、割れて芽の出にくくなった実、古い蕎麦粉が分けて入っていた。
「種は食えん。けど、こっちは食うてもええ。種と食い物を同じ袋へ入れるから、揉めるんや」
弥作は目を丸くした。
茶太郎は、すぐに蕎麦粉を水で練り始めた。
「まず、麺にしてみる」
ところが、生地はまとまらない。
延ばせば裂け、持ち上げれば途中で切れた。
こたろが、短く切れた麺を見つめる。
「お蕎麦、ばらばら〜!」
「……失敗した」
茶太郎が肩を落とすと、焼け跡の孤児・ハチが生地の欠片を拾った。
字は書けないが、縄や荷をまとめる手先は器用だ。
ハチは欠片を丸め、指で中央をへこませる。
「切れるなら、最初から切らんかったらええ」
茶太郎は顔を上げた。
「そっか。麺じゃなくてもいいんだ」
蕎麦粉へ少量の麦粉を合わせ、皆で小さく丸めていく。
京鈴も、黙ったまま一つだけ生地を丸めた。
文福茶釜の湯へ大根、蕪の葉、干し茸を入れ、焼き味噌を溶く。
そこへ丸めた蕎麦生地を落とすと、崩れず、ふっくらと浮かび上がった。
完成したのは《返し種の蕎麦すいとん》。
弥作が汁をすすり、深く息を吐いた。
「種を残したまま……今日の腹も温められた」
だが、庄吉は釘を刺した。
「今日だけやない。借りた種は、実ったら同じ量を次へ返すんや。余分に採れた分は、育てた者が食えばええ」
墨屋宗白が帳面を開いた。
ハチは文字の代わりに、縄の結び目で量を示す。
一結びは一升。
誰が借り、どこへ蒔き、収穫後にどれだけ返したか。宗白の文字とハチの結びを照らし合わせる仕組みだ。
茶太郎は庄吉へ尋ねた。
「種を返したら、それで終わり?」
「いや。南山城には、お前さんの作り方を返してくれ。種だけ渡しても、食い方を知らんかったら広がらん」
こうして、下京は蕎麦の種を借り、南山城は蕎麦すいとんの作り方を受け取ることになった。
種と料理を行き来させる、新しい縁だった。
その日の夕暮れ。
炊事場へ、上品な狩衣姿の男が訪れた。
山科言継である。
「種を食べずに、空腹も見捨てなかったそうだな」
言継は蕎麦すいとんを一口食べ、満足そうに頷いた。
「茶太郎。そなたに、南禅寺から声がかかっている」
「南禅寺から?」
「菊幢丸様が、近く初めて禁裏へ参られる。その道中と供の者たちの食事について、知恵を借りたいそうだ」
菊幢丸。
その名を聞いた瞬間、茶太郎の胸に、柔らかな春の匂いがよみがえった。
焼ける前の京。
南禅寺の奥に設けられた産屋。
疲れた女房たちへ運んだ、湯気の立つ春粥。
そして、茶太郎の指を握った、生まれたばかりの小さな手。
言継が微笑んだ。
「覚えているか。昨春、そなたはすでに、あの御子と会っておる」
茶太郎は、自分の人差し指を見つめた。
あの日の温もりは、今もそこに残っている気がした。
「……うん。覚えてる」
忘れかけていた南禅寺の春が、茶太郎の心に静かによみがえった。
茶太郎たちの物語を見守ってくださり、ありがとうございます。
今日のお腹を満たすことと、明日の種を残すこと。そのどちらも諦めたくない気持ちを、一椀のすいとんに込めました。
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