第105話 「猫が座る台所と、名のない手洗い場」
――清い水と汚れた水の道を分ける章――
共同炊事場の裏手では、白く濁った洗い水が溝を伝っていた。
その先にあるのは、皆が飲み水を汲む井戸だった。
井戸へ直接流れ込んではいない。だが雨が降れば、地面へ染みた汚水がどこへ向かうか分からない。
茶丸は井戸の手前で座り込み、それ以上進もうとしなかった。
「水にも道があるんだ」
茶太郎は土へ指を当てた。
「料理の前と後で、その道を一緒にしたらだめなんだよ」
ナギが地面すれすれを泳ぐように進み、青白い身体を震わせた。
「……きれいな、みず……こっち。よごれた、みず……したから……ちかづいてる……」
ナギには水の動きが分かる。だが、汚れた水を消すことはできない。
土を掘り、流れを変えるのは人の仕事だった。
墨屋宗白は、井戸、竈、洗い場、便所の位置を帳面へ描いた。
「どの家も空いた場所へ置いてきた。町全体で見れば、水の道が入り乱れとる」
まず、洗い場を井戸から離した。
溝には緩い傾きをつけ、炊事場の外へ流す。脂や食べかすをそのまま流さないよう、藁と小石を重ねた受け籠を置いた。
溜まった食べかすは毎日取り除く。
ただし、その泥をすぐ畑へ入れることは禁止された。洗い膏や腐った脂が混じっているかもしれないからだ。
便所も井戸や炊事場から遠ざけ、雨水が流れ込まないよう周囲に土を盛った。
勾陳が地面へ手をかざし、低く告げる。
「この窪みは水が集まる。便所を置く地ではない」
場所を示すことはできても、穴はひとりで掘らない。
甚八や町の者たちが鍬を振るい、土を運んだ。
次に茶太郎が作ったのは、小さな手洗い場だった。
台の上へ水甕を置き、底近くの栓を緩めると、細い水が流れる。下には別の桶を置き、使った水を受け止めた。
「手を入れた桶で、みんなが何度も洗うたら、後の人ほど汚れた水を使うことになる」
茶太郎は実際に手を洗って見せた。
片手で栓を扱いにくいため、京鈴が紐を結び直した。膝で木片を押せば、栓が少しだけ開く仕掛けである。
「これなら、汚れた手で甕を触らんでええ」
名を持たない者も、旅の者も、宗派を尋ねられたくない者も使えるよう、手洗い場には家名を書かなかった。
代わりに、開いた両手の印を描いた。
「名のない手洗い場やな」
京鈴が言う。
「うん。料理を食べる人なら、誰でも使える場所」
ところが最初の日、受け桶の水がいっぱいになり、床へあふれた。
その水を誰かが元の甕へ戻そうとする。
「もったいないやろ?」
「戻したらあかん!」
お寅婆がその腕を止めた。
「使った水は、見た目が澄んどっても使った水や。掃除に回すにしても、井戸や食べ物には戻さん」
清い水の器には白い紐。
使った水の桶には黒い紐。
字が読めなくても取り違えない工夫だった。
台所の中にも印が増えた。
生の魚や鳥を切る俎板には青い紐。
野菜には緑。
煮上がった料理には白。
包丁や布も、できる範囲で分けた。数が足りない場合は、熱い湯をかけ、よく乾かしてから次へ使う。
甚八が青い紐の俎板で大根を切ろうとすると、京鈴が袖を引いた。
「それ、魚の板や」
「一度くらい、ええやろ」
「一度を許したら、印を付けた意味ない」
六歳の京鈴に睨まれ、甚八は黙って緑の板を取った。
その日の汁は、根菜と豆を煮た素朴なものだった。
茶丸は炊事場の入口を嗅ぎ、竈と水場の間を歩く。そして乾いた床の中央へ、ゆっくり腰を下ろした。
希太も続き、野良猫が軒先で丸くなる。
「茶丸が座ったで」
「今日は煙も臭い水もないんやな」
その話は、明かり障子の噂より早く広がった。
「茶丸が座らん台所では、食べ物を買うな」
「猫が水甕のそばで眠る店は、手ぇ洗うとる」
もちろん、猫がすべての汚れを見分けられるわけではない。
宗白は噂へ頼り切らず、水桶、俎板、布、排水溝を毎朝確認する当番を決めた。
茶太郎も帳面へ書き加える。
神や霊が異変を告げても、清潔を保つのは毎日の人の手である、と。
夕刻、伊平じいさんが、土のついた六つの種袋を抱えた男を連れてきた。
「茶太郎、次は腹を壊さん工夫だけやない。春から先、腹を満たす工夫が要る」
男は日に焼けた顔で、痩せた畑と炊き出しの列を見比べた。
「山城の種守、弥作や」
そして、最も小さな袋を持ち上げる。
「これは蕎麦の種や。食えば今夜の腹は満ちる。残せば、先の腹を支えられる」
飢えた町へ、食べてはならない食べ物が運び込まれた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
名のない手洗い場も、清い水を守る小さな約束も、町にとっては大切な一歩です。台所に座る猫のように、見えにくい変化をそっと見守ってください。
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