第104話 「灰から生まれた洗い膏と、裂けた白布」
――汚れを落とす力と、強すぎる力を見分ける章――
放火未遂から三日。
下京では夜回りが続く一方、共同炊事場に別の問題が起きていた。
大鍋の縁には黒い煤と脂がこびりつき、床は煮汁で滑る。井戸から運んだ水も、洗い物だけで次々となくなっていた。
お寅婆が鍋底を藁でこすり、顔をしかめる。
「水だけでは落ちへん。せやけど、飯に使う米糠を、鍋洗いで使い切るわけにもいかん」
甚八の作業場でも、油にまみれた布が山になっていた。
「鍛冶場の布と、台所の布を一緒に洗うたら、どっちも真っ黒や」
茶太郎は竈の脇に積まれた灰を見つめた。
灰は畑へ戻したり、器のこびりつきを磨いたりするのに使える。そこから染み出す灰汁にも、脂汚れを落とす力があった。
「灰の水と、食べられない古い脂を合わせたら、鍋を洗うものが作れるかもしれない」
灰童子のカイが、灰山から顔を出した。
「ぼくの灰、役に立つ?」
「うん。でも、何を燃やした灰か分からないものは使えないよ」
焼け跡の灰には、漆、金属、染料、骨、汚物が混じっていることがある。茶太郎はそれを洗い物へ使わせなかった。
北山や宇治から届いた、木だけを燃やした灰を選ぶ。雨に濡れていないものを布で濾し、記録札を結びつけた。
甚八が使い古しの脂を少し持ってくる。
「食うには臭うが、捨てるには惜しい」
茶太郎たちは灰汁と脂を小鍋で温め、木べらで混ぜた。
やがて、ねっとりした褐色の膏ができた。
お寅婆が指先へ付けようとする。
「待って!」
茶太郎は白い古布の端へ膏を塗り、まず汚れ落ちを確かめた。
脂の染みはみるみる薄くなる。
「おお、落ちたやないか!」
甚八が喜んだ、その直後だった。
布をすすいで引っ張ると、繊維が音もなく裂けた。
さらに、木べらを握っていた甚八の手にも、赤い斑点が浮かんでいる。
「痛っ……なんやこれ!」
日置雪がすぐに手を流水で洗わせた。
「力が強すぎます。これは素手で触れてはいけません」
茶太郎の胸に、苦い味が広がった。
「汚れを落とす力が、人の手や布まで傷めてる……」
カイが灰色の髪を伏せる。
「ぼくの灰……悪い灰?」
「違うよ。悪いんじゃない。使い方が分かっていなかったんだ」
茶太郎は失敗した膏を蓋付きの壺へ戻し、赤い紐を結んだ。
その日から試作の決まりが作られた。
灰を採った場所。
燃やした木の種類。
作った日。
使える場所。
素手で触れない印。
それらを絵札にして、壺ごとに付ける。
濃さの分からない灰汁は使わず、まず鳥の羽や古布の小片で試す。水で薄めても、手や顔、傷口には決して使わない。
改めて作られた弱めの洗い膏は、鍋、竈石、床、鍛冶道具、油布だけに用いられた。
洗う者は木の匙ですくい、藁束や刷毛でこする。最後には水を替えて、何度もすすぐ。
人の手や身体には別のものを使った。
砕いた皂莢の実や無患子の皮を布袋へ入れ、水の中でもむ。米の研ぎ汁や米糠も、傷のない手を洗うときだけ少量用いる。
茶太郎が泡立った布袋を見せると、京鈴が恐る恐る手を出した。
「こっちは、痛うない?」
「先にぼくが試すよ」
茶太郎が洗い、十分にすすいでから、京鈴も指先だけを洗う。
「……ぬるぬるせえへん。手も赤うならへん」
希太が近づいて匂いを嗅ぎ、その場へ座った。
一方、赤い紐の壺へ近づいた野良猫は、鼻をしかめてすぐに離れた。
お寅婆がそれを見て言う。
「猫も嫌うほど強いんや。字の読めん者には、猫の顔をしかめた印も描いとき」
壺には赤い紐と、大きく目をつり上げた猫の印が付けられた。
やがて共同炊事場では、煤の落ちた鍋が並び、床の脂も減った。
だが茶太郎は、きれいになった鍋より、裂けた白布を壁へ残した。
「これは捨てないの?」
京鈴が尋ねる。
「うん。強い力は、役に立つ。でも、使い方を間違えると誰かを傷つける。そのことを忘れないために」
カイは裂けた布を見上げ、静かに頷いた。
その夕方、茶丸が共同炊事場の入口で立ち止まった。
洗い終えたはずの床を嗅ぎ、奥へ入ろうとしない。
「……ニャッ」
茶太郎も鼻を近づける。
煤や脂の匂いではない。
排水の濁った臭いが、井戸の方角から流れてきていた。
「洗う場所をきれいにしても、汚れた水の行き先が同じなら……井戸まで汚れる」
下京を守る次の仕事は、目に見える汚れではなかった。
今回もお付き合いいただき、ありがとうございます。
汚れを落とすものも、強すぎれば大切な布を傷つけてしまいます。役立つことと、やさしく使うことの違いを、茶太郎と一緒に考えていただけましたら。
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