挿入話 第102.5話 「影猫衆結成:命じられない者たち」
――守る者の命を守るため、人と獣が七つの掟を結ぶ章――
下京の共同炊事場に、小さな火が上がったのは夜半だった。
「火事や!」
甚八が水桶を抱えて駆けつける。
幸い、燃えたのは軒下の薪だけだった。土壁と、玄関先に並べていた水桶のおかげで、火はすぐに消し止められた。
だが、偶然ではない。
薪の間から、油の染みた布が見つかった。
屋根の上で最初に異変を見つけたのは、曲がった尾を持つ雉虎猫の虎吉だった。
「虎吉、犯人を追え!」
見回り役の男が叫ぶ。
虎吉は屋根から塀へ飛び移り、魚の匂いが残る裏路地へ入った。
茶丸が制止するより早かった。
直後、床下から激しい物音と、猫の悲鳴が聞こえた。
「虎吉!」
甚八が板を外す。
床下には、魚の頭を入れた籠と、仕掛け縄が置かれていた。虎吉の前足には縄が絡み、皮膚が赤く擦れている。
希太が痛みを感じ取り、その場で泣きだした。
「にゃあ……!」
茶太郎は虎吉を抱き上げた。
「ごめん……ぼくたちが、追わせたから……」
見回り役は唇を噛んだ。
「だが、放火した者を見つけねば、次は炊事場が焼ける」
茶丸の白斑が光った。
『だから猫を罠へ入れてよいのか』
低い念話に、全員が息を呑む。
『人を守るためなら、猫は傷ついてもよい。そう考える者へ、影猫の力は貸せぬ』
茶丸は虎吉を連れ、秘密基地へ戻ろうとした。
その進路を、灰白色の老猫が塞いだ。
片耳の先を失い、尾が二つに分かれかけた翁だった。
『待て、茶丸。怒って縁を切れば、人は同じ過ちを繰り返す』
『ならば、どうする』
『決まりを作れ。守られる側だけでなく、守る側も生きて帰れる決まりをな』
秘密基地に、人と獣が集められた。
茶太郎、茶丸、希太、虎吉。
墨屋宗白、ハチ、京鈴、甚八。
甲賀衆の山中弥七と、日置雪。
町境を守る犬神・洛と、見返り兎のミカエも顔を揃えた。
虎吉の傷へ布を巻きながら、茶太郎が言った。
「もう、危ない場所へ行けって命令しない」
翁は目を細める。
『優しい言葉だけでは、次の虎吉を守れぬ』
宗白が帳面を開いた。
「では、掟として残そう。人が忘れても、文字が思い出させる」
最初の掟を、茶丸が告げた。
『猫は任務を断ってよい』
弥七が続ける。
「危険な場所へは無理に入れない。床下なら、人が出口と構造を先に確かめる」
秋野新九郎から教わった考えを、甚八が加えた。
「猫が見つけた物だけで、人を犯人と決めつけへん。足跡、縄、荷札、人の証言を調べる」
日置雪が頷く。
「捕まえるのも、戦うのも、裁くのも人間の役目。猫に血を流させない」
ミカエが腕を組んで顔を背けた。
「か、帰り道も作りなさいよ。別に猫が心配なんじゃないから! 帰れない作戦が下手くそなだけ!」
京鈴が、虎吉の前へ魚を置いた。
「働いたら、ご飯と寝床を渡す」
最後にハチが縄へ七つ目の結び目を作った。
「猫を傷つけて手に入れた話は、使わん」
宗白が七つの掟を読み上げる。
一、猫は任務を断ってよい。
二、危険な場所へ無理に入れない。
三、猫が示したものは手がかりであり、人を裁く証拠ではない。
四、捕縛、戦闘、裁定は人間が責任を負う。
五、必ず帰り道を用意する。
六、働いた猫には食事と安全な寝床を与える。
七、猫を傷つけて得た情報は使わない。
洛が鼻を鳴らした。
「猫だけ特別扱いか」
『望むなら犬にも適用する』
「……ならば異存はない」
翌朝、掟を聞いた大舘常興は、険しい顔をした。
「猫へ幕府の役目を与えることはできぬ」
茶丸も静かに答える。
『人の役職など要らぬ。命じられるために集まるのではない』
常興はそれ以上、何も言わなかった。
だが、その日の夕方。
幕府詰所の軒下に、小さな木箱が置かれた。
雨を防ぐ屋根があり、中には藁が敷かれている。横には水と、焼いた魚が一尾。
役人たちには、常興から命が出ていた。
「この軒下へ入る猫を追うな。ただし、猫が鳴いたというだけで人を捕らえることも許さぬ」
任命状はない。
それでも、人と猫の掟は認められた。
夜、秘密基地の梁へ茶丸が上がった。
虎吉、希太、下京の猫たちが集まる。
しかし整列する者はいない。
毛を繕う猫。
魚を見つめる猫。
すでに眠っている猫までいる。
「結成の挨拶、聞いてるのかな……」
茶太郎が心配すると、翁が欠伸をした。
『猫の集会で、全員が同じ方向を向くと思うな』
茶丸は尻尾を高く上げた。
『それでよい。命じられず、それでも同じ場所を守る。今日より我らは——影猫衆だ』
虎吉が短く鳴く。
「にゃ」
希太が少し遅れて続く。
「……にゃ」
ほかの猫は返事もしなかった。
翁は満足そうに目を閉じる。
『返事まで揃わぬ。実によい組織だ』
こうして影猫衆は、人の軍勢とはまったく違う掟のもとに結成された。
命じられず、縛られず、必ず帰る。
その小さな影たちは、やがて京の屋根から、歴史の裏側を見守ることになる。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございます。
命じるためではなく、みんなが無事に帰るために生まれた影猫衆。揃わない返事まで含めて、この子たちらしい始まりを好きになっていただけたら嬉しいです。




