第11話 「巨椋池の茶粥献上と、橋姫の顕現」
――待ち続けた橋の神と、人と霊が取り戻す川の流れ――
翌朝、茶太郎たちは再び巨椋池を訪れた。
昨日、池の水霊へ届けた無病息災の粥。その残りを四柱へ正式に献じ、池に残る霊たちへ分けるためだった。
槇島城へ戻った長逸も、腕の手当てを受けて合流している。
傷を負った左腕は布で固定されていたが、顔色は昨日よりよかった。背後には、槇島城から派遣された武士と、川の扱いに詳しい地侍が控えている。
「長逸さん、傷は大丈夫?」
「薬師に診てもらった。無理に動かさなければ問題ないそうだ」
「今日は猫の匂い袋、持ってない?」
「城へ置いてきた」
長逸が真顔で答えると、希太は残念そうに鼻を鳴らした。
『少しくらい持ってきてもよかったにゃ』
『目的を忘れるな』
茶丸にたしなめられ、希太は何事もなかったように縁の足元へ座った。
◇
半ば水へ沈んだ古い祠の前で、茶太郎は温かな茶粥を両手に抱えた。
宇治土公が地面を固め、器を置く台を作る。
うじまるは周囲へ清い水を巡らせ、鯉姫は池の奥にいる水霊たちへ呼びかけた。
茶丸の金色の気配が祠を囲み、黒い濁りを遠ざけている。
茶太郎は粥の器を台へ置いた。
「池に残っている霊たちへ、みんなで作った粥を持ってきました」
粥から白い湯気が立ち上る。
湯気は細い糸へ変わり、水面を渡って池の奥へ伸びていった。
「白い糸が広がってる」
縁の瞳には、無数の青い光が糸の先へ集まる様子が見えていた。
「昨日は来られなかった水霊たちも、今日は近くまで来てるよ」
鯉姫は水面へ手を触れ、嬉しそうに笑った。
「この子たち、茶太郎の粥を覚えてるのね」
茶太郎は小さな器へ粥を分け、一つずつ水辺へ並べた。
青い光が器の周囲へ集まり、湯気を吸い込むように明滅する。
池に残っていた黒い濁りが、また少し薄くなった。
「茶太郎よ」
宇治土公が静かに告げる。
「この粥が病を退けたわけではない。だが、病と飢えの記憶に捕らわれた霊へ、生きる者との縁を戻した」
宇治土公は、金色に光る茶葉を見つめた。
「そなたの茶葉には今、人を支える祈りが宿り始めておる」
「無病息災の力?」
「病を治す力ではない」
土公は念を押した。
「食べる者の心を鎮め、休み、助けを求め、生きる力を取り戻す。その願いを支える力じゃ」
茶太郎は素直に頷いた。
「僕一人で治せるとは思わない。病気や怪我は、薬師さんや大人の人に診てもらわないといけないから」
「それを忘れぬなら、その葉を正しく使えるであろう」
そのとき、池へ広がっていた白い糸の一本が、急に強く引かれた。
縁が息をのむ。
「宇治橋の方へ伸びてる」
白い糸の先には、昨日拾った黒い欠片と同じ色の糸が絡んでいた。
長逸の表情が険しくなる。
「橋の影が、池の霊気まで奪っていたのか」
『池の濁りが薄れたことで、隠れていた流れが見えるようになったのだ』
茶丸は宇治橋の方角へ目を向けた。
『今なら、あの影の正体を確かめられる』
◇
宇治橋へ近づくにつれて、町の気配が薄くなった。
川舟は岸辺に三艘ほど繋がれていたが、舟頭たちは舟を出そうとしない。
川沿いの道には人々が立ち尽くし、ぼんやりと水面を見ている。呼びかけても反応が鈍く、その足元から伸びるはずの影がひどく薄い。
「影を取られかけている」
長逸が声を落とした。
「私も、あの声を聞いたあと、同じようになった」
橋へ近づくほど、空気は重く湿っていく。
風が止まり、息を吸うたびに胸が冷えた。
茶太郎の舌には、飢えだけではない、幾つもの味が広がっていた。
寂しさ。
嫉妬。
帰らない者を待ち続ける苦しみ。
そして、自分だけが置き去りにされたという恨み。
「誰かを待ってる」
「黒い糸が、橋の下に集まってるよ」
縁が宇治橋の下を指した。
濁った水面から、髪のように細い糸が無数に伸びている。糸は橋を渡る人の影へ絡みつき、少しずつ水中へ引き寄せていた。
『来るぞ』
茶丸の声と同時に、水面から黒い人影が立ち上がった。
長い髪。
細い女性の腕。
輪郭は墨を流したように揺らぎ、顔が定まらない。
『……待ッテイル』
人影の口から、幾つもの声が重なって聞こえた。
『帰ル者ヲ……私ヲ選ブ者ヲ……』
長逸には、亡き母の声。
縁には、幼いころ橋の下で聞いた泣き声。
かん太には、遠く離れた家族の声。
聞く者によって違う声で、黒い影は水辺へ誘いかける。
「聞いたらあかん!」
かん太が子どもたちを自分の背後へ下げた。
茶太郎は、亜空間収納から茶粥の入った器を取り出した。
「この人にも、届くかな」
「ただ置くだけでは奪われる」
宇治土公が橋脚へ手を触れる。
「この霊は、長い間、人の未練と恐れを吸い続けておる」
鯉姫も、いつもの明るい表情を消していた。
「もとは橋を守る水の気配よ。でも、待つ人の悲しみや、捨てられた人の恨みが重なりすぎた」
「なら、この人が橋姫……?」
「守り神であり、恐れられる鬼でもある」
うじまるが水面へ太い尾を打ちつけた。
「どちらか一つが偽りなのではない。どちらも、この者が背負ってきた心じゃ」
茶太郎は、橋のたもとへ粥を置いた。
「橋姫さん」
黒い影が大きく揺れる。
「待っていた人は、もう帰ってこないかもしれない」
縁が茶太郎の袖をつかんだ。
慰めの言葉にしては、あまりにも率直だった。
「でも、橋姫さんが守ってきた橋を渡った人たちは、たくさん帰れたと思う」
『黙レ……』
黒い糸が一斉に茶太郎へ伸びた。
「茶太郎!」
かん太が抱き上げようとするより早く、茶丸が二人の前へ飛び出した。
『退け!』
獣王の咆哮が、黒い糸を押し返す。
希太も縁を狙う一本へ飛びかかり、鋭い歯で噛み切った。
『ゆかりには触らせないにゃ!』
それでも、別の黒い糸が茶粥の器へ伸びていく。
長逸が右手で刀を抜いた。
「縁殿。あの糸は斬れるか?」
「普通の刀では無理。でも、わたしの糸を結べば……」
縁は腰に下げていた白い組紐を解き、長逸の刀の柄へ結んだ。
淡い白色の糸が、刀身を包む。
「糸の流れを教えてくれ」
「右から来る!」
長逸は縁の声に合わせ、黒い糸を斬り払った。
白い光が走り、糸が水面へ落ちる。
負傷した左腕は使えない。それでも長逸は無理に追わず、茶太郎と粥を守ることに徹した。
「今だ、茶太郎殿!」
茶太郎は両手を合わせ、橋姫へ呼びかけた。
「これは、悲しかったことを忘れさせる粥じゃないよ」
茶粥の湯気が、黒い影へ届く。
「待っていたことも、恨んだことも、全部なかったことにはできない。でも、もう一人で橋の下にいなくていい」
『一人デハ……ナイ……?』
「うん。橋姫さんの名前を知ってる人がいる。守ってくれた橋を渡る人もいる」
縁も一歩前へ出た。
「わたしは、橋姫さんの黒い糸を見た。でも、その奥に白い糸も残ってる」
黒い影の胸元で、細い白色が明滅している。
「まだ、橋を守りたいって思ってるんだよね」
湯気が橋姫の全身を包んだ。
黒い影は茶粥を拒むように揺れたが、やがて小さく口を開く。
『……温カイ』
人影を覆っていた墨色が、水へ溶けるように流れ落ちていく。
長い髪が水面の光を帯び、黒い衣が白と薄紫の衣へ変わった。
袖には、宇治橋の木目を思わせる模様が浮かんでいる。
けれど、すべての黒が消えたわけではない。
髪の一部と瞳の奥には、夜の水のような暗さが残っていた。
「私は……宇治の橋姫」
今度の声は、一人の女性のものだった。
「人を待ち、橋を守り、いつしか人の未練と嫉妬を抱え込みました」
「もう苦しくない?」
「苦しみは残っています」
橋姫は正直に答えた。
「けれど、それを他者から影を奪う理由にはしません」
橋姫が手を広げると、川沿いの人々へ絡みついていた黒い糸がほどけた。
薄くなっていた影が足元へ戻り、人々は夢から覚めたように周囲を見回す。
「これからは、人を水へ誘うのではなく、悪しき縁を橋の手前で断ちましょう」
縁が嬉しそうに微笑んだ。
「黒い糸が、守る形に結び直されてる」
橋姫は茶太郎へ頭を下げた。
「あなたの粥が私を別の者へ変えたのではありません。忘れていた自分の役目を、思い出させてくれたのです」
◇
橋姫が戻ると、宇治川を覆っていた濁りは薄くなった。
しかし、水の流れはまだ鈍い。
うじまるが川底へ潜り、しばらくして再び顔を出した。
「橋の少し下流で、流木と泥が川底を塞いでおる」
「すぐに取り除けるのか?」
長逸が尋ねる。
「わしが力任せに掘れば、堤へ水が集中する。先に人の側で備えねばならん」
以前のように、霊の力だけで解決できる問題ではなかった。
長逸は連れてきた地侍へ指示を出した。
「流れが戻った場合、どこへ負担がかかるか確かめてくれ」
地侍たちは川沿いを歩き、土の柔らかい場所や崩れかけた箇所を調べた。
「下流の曲がりで水が当たります。先に杭と板で補強が必要です」
「分かった。城から人手と資材を呼ぶ」
長逸は腰の笛を吹いた。
ほどなく槇島城の者たちと、川沿いの住民が集まってくる。
武士たちは杭を打ち、地侍が土の締まりを確かめる。町の者は板や縄、土を詰めた俵を運んだ。
子どもたちは危険な川辺へ近づかず、離れた場所で縄や布を大人へ渡した。
「ここから先は大人の仕事や」
かん太が茶太郎たちへ言い聞かせる。
「茶太郎らは、決めた場所から動いたらあかんで」
「うん。僕たちはお茶を用意する」
茶太郎は作業を続ける人々のため、伊平じいさんと一緒に温かな茶を用意した。
すべての備えが整うと、長逸が川へ向かって合図を送る。
「うじまる殿。こちらはよい!」
「承知した!」
うじまるの体が青い光に包まれた。
半透明だった大鯰の姿が、川幅を覆うほどに大きくなる。長いひげが水面を走り、黒金色の背が川の中央へ浮かんだ。
「うじまるが大きくなった〜!」
こたろが歓声を上げる。
『あれが水神としての本来の姿か』
茶丸も目を細めた。
宇治土公が川岸へ手を置き、固く詰まった泥を少しずつ緩める。
「一度に動かすな。流れを見ながら、少しずつじゃ」
「分かっておる!」
うじまるは川底へ潜り、大きな頭で流木を押した。
最初の一本が動く。
鯉姫は水霊たちへ呼びかけ、舞い上がった泥を岸から離れた流れへ導いた。
「水霊たち、道を開けて。泥を一か所へ集めないで!」
橋姫は橋脚を包む流れを整え、木材へ強い渦が当たらないよう守る。
人々は堤の変化を見ながら、弱い場所へ土俵を重ねた。
「右岸の水が増えるぞ!」
「杭をもう一本打て!」
「流れが来る。足元に気をつけろ!」
長逸は自分で重い物を運ばず、全体を見渡して指示を出した。
霊が川底を動かし、人が岸と橋を支える。
どちらか一方だけでは、流れを戻すことはできない。
やがて、うじまるが最後の流木を押し出した。
塞がれていた水が、低い音を立てて動き始める。
「流れが戻るぞ!」
川の中央に、新しい水の道が開いた。
最初は激しかった流れも、人々が補強した堤と、水霊たちの導きによって少しずつ安定していく。
「宇治川が、息をしてる」
縁には、青い糸が巨椋池から宇治川へ、再び真っすぐ伸びるのが見えていた。
うじまるは元の大きさへ戻り、満足そうにひげを揺らす。
「これで、ひとまず流れは戻った」
「ひとまず?」
「川は生き物じゃ。今日直せば、永遠に安泰というものではない」
うじまるは岸に集まった人々を見渡した。
「人も霊も、これから見守り続けねばならん」
橋姫も、戻った流れを静かに見つめる。
「私も、この橋から見守りましょう」
長逸は茶太郎の前へ膝をついた。
「茶太郎殿。そなたの粥だけが宇治を救ったのではない」
「うん」
「だが、あの一椀がなければ、人と霊が同じ目的で力を合わせることもなかった」
茶太郎は、作業を終えて茶を飲む人々を見た。
武士、地侍、町の者。
土地神、水神、池の姫、獣王、橋姫。
立場も姿も違う者たちが、同じ川の流れを囲んでいる。
『よくやった、茶太郎』
茶丸が隣へ座る。
「僕だけじゃないよ」
茶太郎は笑った。
「みんなで、川の帰る道を作ったんだ」
宇治橋の下を、澄み始めた水が流れていく。
その水面には、白い橋姫の姿と、消えずに残った一筋の黒い髪が映っていた。
守りと恨み。
光と影。
その両方を抱えたまま、橋姫は再び宇治橋の守り神として歩み始めた。




