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茶太郎がゆく ~猫と霊を癒やす料理で、戦国の天下を巡る~  作者: 莵月
第一章 ~三歳の茶太郎、宇治を巡る~
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第10話 「槇島の使番・長逸と、茶畑の光」

 ――傷ついた使番と、猫がほどく武士の心――


 巨椋池おぐらいけから宇治へ戻るころには、陽が西へ傾き始めていた。


 茶太郎たちが秘密基地へ向かうと、竹林の前で土地神が待っていた。いつもの穏やかな笑みはなく、土色の杖を強く握っている。


「巨椋池の声には届いたようじゃな」


「うん。でも、黒い糸が都の方へ逃げていった」


 茶太郎が答えると、土地神は茶畑の奥へ目を向けた。


「こちらにも、その濁りが流れ込んだ。地脈が怯えておる」


「糸が、まだ震えてる……」


 縁の瞳には、地中を走る白い糸へ、細い黒糸が絡んでいるのが見えていた。


 湿った土の匂い。その中へ、血を思わせる鉄の味が混じっている。茶丸と希太も耳を立て、竹林の外を警戒していた。


『誰か来る』


 茶丸が告げた直後、茶畑の端で草が揺れた。


「……誰か、おらぬか」


 現れたのは、まだ若い武士だった。

 旅装は泥にまみれ、袖は鋭く裂かれている。脇腹を押さえた手には血がにじみ、足元も覚束ない。


 茶太郎が駆け出そうとすると、かん太が先に腕を伸ばした。


「待て、茶太郎。相手が誰か、まだ分からん」


 かん太は子どもたちを背後へ下げ、若武者との間へ立った。


「名を聞かせてもらおか。どこの者や?」


「……長逸ながやすと申す。槇島を預かる御方に仕える使番だ」


「使番?」


「命令や知らせを、戦場や城へ運ぶ役目の者や」


 かん太の説明に、茶太郎は武士を見上げた。


 長逸は苦しそうに息を整えながらも、竹林の入口、かん太の立ち位置、二匹の猫まで順に確かめている。傷ついてなお、周囲への警戒を解いていなかった。


『呼吸は乱れているが、目は死んでおらぬ。ただの使い走りではないな』


 茶丸が金色の目を細める。


 長逸は茶丸の声が聞こえた様子もなく、懐から一通の書状を取り出した。


「怪しい者ではない。その証しになるかは分からぬが、槇島へ届ける書状だ」


「見せんでええ。まず座れ」


 かん太は長逸の意識が確かなことを確かめ、肩を貸した。


「話は手当てをしてからや」


 ◇


 長逸は秘密基地ではなく、宗次の店へ運ばれた。


 傷のある者を子どもだけで扱うわけにはいかない。志乃は清潔な布と湯を用意し、宗次は近くにいた薬師を呼びに走った。


 かん太が裂けた衣を傷口から離し、志乃が血と泥を静かに拭う。


「刃は深く入ってへんようやけど、出血しとる。無理に動いたらあかんよ」


「かたじけない」


 長逸は額に汗を浮かべながら、素直にうなずいた。


 茶太郎は少し離れた場所から、その傷の味を感じ取っていた。


 赤く、熱い痛み。血を失った冷たさ。長く気を張り続けた疲れ。


 そして傷口の周囲には、濡れた土のような黒い苦みが付着していた。


「長逸さん。どうして、こんな傷を負ったの?」


「巨椋池の上に、淡い光が立つのを見た」


 長逸は荒い息の合間に答えた。


「近くの村人から、宇治の茶商の子が池の霊へ粥を供えたと聞いた。それを確かめるため、宇治へ向かっていたのだ」


「僕たちのことを?」


「ああ。ところが宇治川の近くまで来たとき、川底から地鳴りのような音が聞こえた」


 縁の表情が曇る。


「黒い糸が、長逸さんの傷から川の方へ続いてる」


「宇治橋の下には、黒い影がいた。人の形に見えたが、顔はなかった」


 長逸は脇腹へ視線を落とした。


「影を追おうとした直後、地面が揺れた。次に気づいたときには、姿の見えぬ刃で斬られていた」


「刃が見えなかったの?」


「気配さえなかった。ただ、濡れた土の匂いだけが残っていた」


『巨椋池から逃れた濁りが、影の形を得たか』


 茶丸の声が低くなる。


『あるいは、濁りを操る者が別にいる』


 茶太郎は長逸の傷へ近づきすぎないよう、床へ手をついた。

 舌に広がる黒い味は、巨椋池から北へ逃げた糸と同じものだった。


「僕、お粥を作る」


「粥……?」


 長逸が目を向ける。


「傷はお粥では治らないよ。でも、薬師さんが来るまでに、少し体を温められるかもしれない」


「茶太郎、まず薬師に診てもろてからや」


 志乃が優しく、しかしはっきりと言った。


「食べてええ傷かどうかも、確かめなあかん」


「うん」


 茶太郎は急がず、薬師の到着を待った。


 やがて呼ばれてきた薬師は傷を洗い、薬草を当て、清潔な布で脇腹を巻いた。


「幸い、刃は浅い。熱も今のところ高うない。今夜は絶対に動かさず、水と食べ物を少しずつ与えるんや」


 薬師の許しを得て、茶太郎はようやく台所へ向かった。


 土地神も店先までついてきていた。人の目には見えない姿のまま、茶太郎へ一枚の茶葉を差し出す。


「これは、巨椋池で四柱の縁が結ばれたとき、地脈に芽吹いた葉じゃ」


「無病息災の葉?」


「病や傷を消すものではないぞ」


 土地神は念を押した。


「弱った体へ温もりを届け、乱れた霊気が本来の流れへ戻るのを助ける葉じゃ。使い方を誤るでない」


「うん。治すためやなくて、長逸さんが休めるように使う」


 茶太郎は志乃とかん太に手伝ってもらい、米を柔らかく煮た。


 傷を負った体へ負担をかけないよう、味はつけない。土地神から受け取った茶葉も粥へ直接入れず、布へ包んで、立ち上る湯気に香りだけを重ねた。


 米の甘い匂いへ、若葉の青く柔らかな香りが混じっていく。


「痛いことを忘れさせるんやない」


 茶太郎は鍋を見つめた。


「今は戦わなくてもいいって、伝わる味にしたい」


 胸の奥に宿った温かさが、湯気へ溶けていった。


 ◇


 粥を人肌まで冷ましてから、茶太郎は長逸の前へ運んだ。


「少しずつ食べて」


「かたじけない」


 長逸は椀を受け取り、ひと口すすった。


 柔らかく煮えた米が、疲れた体へ静かに落ちていく。続いて茶葉の香りが鼻を抜け、張り詰めていた呼吸がゆっくりと整った。


「これは……」


 傷が消えたわけではない。


 巻かれた布の下には、今も痛みがある。それでも、霊性味覚で感じていた赤く荒い味は少しずつ薄れ、焦げるような苦みも和らいでいった。


「体の奥が温かい。痛みも、少し遠くなったようだ」


「傷は治ってへん。粥を食べたからいうて、動いたらあかんで」


 かん太が念を押す。


「承知した」


 長逸は素直にうなずき、茶太郎を見た。


「見事な手当てだ、茶太郎殿」


「殿はいらないよ」


「では……茶太郎」


 長逸は、もうひと口粥をすすった。

 椀を持つ両手には、まだわずかな震えが残っている。


「長逸さん、ずっと力が入ってる」


 縁が、その周囲の糸を見つめていた。


「傷のところだけやない。胸の糸まで赤く固くなってる」


「使番が気を緩めれば、知らせを届けられぬ」


「でも今は、休まなあかんよ」


「それが、どうにも難しいのだ」


 長逸が苦笑した、そのときだった。


 希太が静かに近づき、長逸の膝へ前足を載せた。


「にゃ」


「……猫?」


 長逸の体が、先ほどまでとは違う意味で固まった。

 希太は構わず、その手へ頬を寄せる。


「にゃあ」


「ま、待て。私は猫に触れたことがない」


「嫌いなん?」


 こたろが尋ねた。


「嫌いではない。ただ……どう触れればよいのだ」


「優しく撫でたらいいよ」


 茶太郎に教えられ、長逸は恐る恐る希太の背へ手を置いた。


 一度。

 毛の流れに沿って、もう一度。


 希太が喉を鳴らし、長逸の膝へ体を預けた。


「……温かいな」


 その声から、武士らしい硬さが少しだけ消えた。


 長逸の指は、壊れ物を扱うように慎重だった。希太が逃げないと分かると、肩からようやく力が抜けていく。


「赤かった糸が、柔らかい色になったよ」


 縁が微笑む。


「私は、そのような顔をしていたか?」


「うん。ずっと戦ってるみたいな顔だった」


「戦っていないときの顔など、とうに忘れていたのかもしれぬ」


 長逸は希太の背を撫で続けた。


 粥が体の内側から温め、猫の体温が外から強張りをほどいていく。


 茶太郎には、長逸の胸を覆っていた苦い味が、ほんの少し薄くなったのが分かった。


「希太も、料理みたいだね」


『俺は食べ物ではないにゃ』


 希太の声が、茶太郎の胸へ響いた。


「そうやなくて、心を温かくしてる」


『……当然にゃ』


 希太は得意そうに目を細めた。

 すると、その鼻が長逸の腰袋へ向いた。


「にゃ?」


 茶丸の耳も、ぴくりと動く。


『あの袋……またたびだ』


 長逸は腰袋を確かめた。


「これは、槇島の薬師から預かった匂い袋だ。疲れを和らげると聞いたが――」


「にゃああっ!」


 言い終える前に、希太が袋へ飛びついた。


 茶丸まで長逸の足元へ寄ってくる。獣王としての威厳を保とうとしているが、尻尾だけは隠しようもなく左右へ揺れていた。


『長逸。その袋を、ただちに閉じろ』


「なぜ私の名を――いや、それより、獣王までどうしたのだ!」


『どうもしておらぬ。早く閉じろ』


「言葉と尻尾が合ってへんよ」


 茶太郎が指摘すると、茶丸の尾がぴたりと止まった。


『見なかったことにせよ』


 長逸は慌てて袋の口を固く縛った。

 希太は長逸の膝で一度転がると、何事もなかったように座り直し、片方の前足を上げた。


「にゃっ」


「希太の決め姿や!」


 かん太も面白がり、片手を上げる。


「よし!」


「ヨシ〜!」


 こたろも続いた。

 茶丸はしばらく迷った末、威厳を取り戻すように姿勢を正した。


「……にゃっ」


 全員の視線が長逸へ集まる。


「私もやるのか?」


「仲間になったら、やるんだよ」


 茶太郎が言うと、長逸は困ったように笑った。

 それから希太を膝へ載せたまま、片手を静かに上げる。


「……ヨシ」


「長逸さん、上手!」


 茶畑の店に、笑い声が広がった。

 ほんのわずかな時間だけ、長逸は使番でも武士でもなく、猫の温かさに戸惑う一人の若者になっていた。


 ◇


 夜が近づくころ、長逸は店の一室へ寝かされた。


 すぐに槇島へ戻ると言い張るかと思われたが、傷を悪化させれば知らせを届けられないと、かん太と薬師に説得されている。


「使番は、生きて知らせを届けるまでが役目だからな」


 長逸はそう言い、横になることを受け入れた。


「えらい立派なことを言う使番やな」


 かん太が見つめる。


「教えられたことを守っているだけだ」


「それだけやないやろ」


 長逸は答えず、茶太郎へ顔を向けた。


「宇治川と巨椋池、それに、この茶畑の異変。傷が癒えたら、私も調べよう」


「手伝ってくれるの?」


「ああ。ここには守る価値がある」


 長逸の足元で、希太が短く鳴いた。


「にゃ」


 仲間と認める声だった。


「それに、巨椋池で見た光も、今日食べた粥も、主へ報告する必要がある」


「長逸さんの主って、誰?」


「いずれ話せるときが来る」


 口調は穏やかだったが、長逸は主の名を明かさなかった。


 それでも茶太郎は、それ以上尋ねなかった。話せないことを無理に聞き出せば、ようやくほどけた心が、また固くなってしまう気がしたからだ。


『名だけでなく、身分も伏せているな』


 茶丸は、長逸の言葉遣いや周囲を見る目を思い返していた。


『使番に身をやつしているが、人へ命じることに慣れた者だ。だが今は、問うまい』


 店の外へ出ると、縁が宇治橋の方角を見つめていた。


「黒い糸が、まだ残ってる」


 巨椋池から逃れ、長逸を傷つけた糸。

 それは宇治橋の下へ潜り込み、さらに北の都へ伸びていた。


「長逸さんを斬った影も、誰かを待ってるのかな」


『あるいは、待つ心を利用しているのかもしれぬ』


 茶丸の答えに、茶太郎は表情を曇らせた。


「悪い霊なの?」


『まだ決めるな。何者か確かめるまでは、ただの影だ』


 茶太郎はうなずいた。


 迷った者を、最初から悪いものと決めつけてはならない。けれど、誰かを傷つけるなら、そのままにもしておけない。


「声を聞こう。それでも誰かを傷つけるなら、止めなきゃ」


 その夜。


 宇治橋の下で、黒い影が水面からゆっくりと立ち上がった。

 顔のない影の手には、水で形作られた細い刃が握られている。


『長逸……』


 影は、若武者の名を呼んだ。


『次は、帰さぬ』


 巨椋池の霊を救った光は、槇島の使番・三好長逸との縁を結んだ。


 同時に、茶太郎たちを宇治橋の下へ潜む、新たな濁りへ導こうとしていた。


【本日の一椀・無病息災の茶粥】


柔らかく煮た粥へ茶葉を直接入れず、湯気に若葉の香りを重ねた一椀です。傷を治す薬ではなく、手当てを受けた者の体を温め、安心して休むための料理として描きました。


どれほど気丈な武士でも、休まなければ歩き続けることはできません。今回、長逸の心を最後にほどいたのは、料理ではなく希太の温もりでした。


次回、長逸を傷つけた黒い影を追い、茶太郎たちは宇治橋の下へ向かいます。


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『茶太郎がゆく』
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