第10話 「槇島の使番・長逸と、茶畑の光」
――傷ついた使番と、猫がほどく武士の心――
巨椋池から戻った茶太郎たちは、急いで茶畑へ向かった。
茶畑へ足を踏み入れた瞬間、風が重くなる。
湿った土の匂いに、鉄のような苦い味が混じっていた。
「……糸が震えてる」
ゆかりが茶畑の奥を見つめる。
「地脈が、何かを怖がってるみたい」
希太が背を低くした。
「にゃ……」
茶丸も耳を立てる。
『地の気が乱れている。気をつけろ』
茶畑の奥へ進むと、一枚だけ淡く光る茶葉があった。
「これ……」
茶太郎が手を伸ばす。
葉から伝わってきたのは、温かく、力強い味だった。
「土地神さまが言ってた、無病息災の霊性だよ」
ゆかりが言った。
茶太郎が茶葉を摘み取った、そのときだった。
畑の端から、人影がよろめき出てきた。
「……誰か……おらぬか」
若い武士だった。
旅装は泥にまみれ、袖は斬られ、脇腹から血がにじんでいる。身につけている物に、はっきりした家紋はなかった。
「怪我してる!」
茶太郎は駆け寄った。
「待て、茶太郎!」
かん太が先に武士との間へ入る。
「名を聞かせてもらおか。どこの者や?」
若武者は苦しそうに息を整えた。
「……長逸と申す。槇島を預かる御方に仕える使番だ」
「使番?」
「命令や知らせを、戦場や城へ運ぶ役目だ」
長逸はそれ以上、主の名を語らなかった。
茶丸が金色の目で見つめる。
『呼吸に乱れがない。傷を負っても周囲を見ている。ただの使番ではないな』
茶太郎は長逸の傷へ手を近づけた。
赤く、痛く、焦げたような味がする。
「どうして、こんな傷を?」
「宇治川の流れを調べていた」
長逸は茶畑の向こうを振り返った。
「川底から、地鳴りのような音が聞こえた。さらに宇治橋の下では、黒い影が人を呼んでいた」
「黒い影……」
ゆかりの顔が曇る。
「橋の方から、黒い糸が伸びてる」
「影を追っている途中で地面が揺れた。その直後、姿の見えぬ何者かに斬られた」
長逸は傷口を押さえながら続けた。
「刃の姿は見えなかった。だが、濡れた土の匂いが残っていた」
『地の乱れが形を得たか』
茶丸の声が低くなる。
「話は後や。まず傷をどうにかせな」
かん太が長逸を支えた。
茶太郎は先ほど摘んだ光る茶葉を握る。
「ぼく、お粥を作る」
「粥……?」
「この茶葉なら、長逸さんの痛い味を軽くできると思う」
茶太郎は秘密基地へ戻り、文福茶釜の湯で粥を炊いた。
光る茶葉を細かく揉み、炊き上がる直前に加える。
湯気が淡い金色を帯びた。
「長逸さん、食べて」
「かたじけない」
長逸が粥をひと口すする。
乱れていた呼吸が、ゆっくりと整った。
「これは……」
傷が消えたわけではない。
だが、赤く荒れていた霊の糸が薄れ、出血も穏やかになっていた。
「身体の奥が温かい。痛みも和らいでいる」
「傷そのものは治ってへん。無理したらあかんで」
かん太が念を押した。
長逸は少し驚き、それから素直にうなずいた。
「承知した。見事な手当てだ、茶太郎殿」
「殿はいらないよ」
「では……茶太郎」
長逸が腰を下ろすと、希太が静かに近づいた。
「にゃ」
前足を長逸の膝へ載せる。
「……猫?」
長逸の身体が固まった。
希太はそのまま、長逸の手へ頬を寄せた。
「にゃあ」
「ま、待て。私は猫に触れたことが……」
「嫌いなん?」
こたろが尋ねる。
「嫌いではない。ただ……どう触れればよいのだ」
「優しく撫でたらいいよ」
茶太郎に教えられ、長逸は恐る恐る希太の背へ手を置いた。
希太が喉を鳴らす。
「……温かいな」
長逸の張り詰めていた顔が、わずかに緩んだ。
ゆかりが笑う。
「赤かった糸が、柔らかい色になったよ」
「私は、そのような顔をしていたか?」
「うん。ずっと戦ってるみたいな顔だった」
長逸は答えず、希太の背を撫で続けた。
そのとき、希太の鼻が長逸の腰袋へ向いた。
「にゃ?」
茶丸の耳も動く。
『あの袋……マタタビだ』
「これは槇島の薬師から預かった匂い袋だ。疲れを和らげると聞いたが——」
言い終わる前に、希太が袋へ飛びついた。
「にゃああっ!」
茶丸まで長逸の足元へ寄ってくる。
『長逸。その袋を、ただちに閉じろ』
「獣王まで!?」
希太は長逸の膝で転がり、茶丸は威厳を保とうとしながら、尻尾だけを忙しく揺らしている。
「猫さん、踊ってる〜!」
こたろが真似をして両手を上げる。
長逸は慌てて袋の口を固く縛った。
やがて希太は満足そうに座り、片方の前足を上げた。
「にゃっ」
「希太の決め姿や!」
かん太も面白がって片手を上げる。
「よし!」
「ヨシ〜!」
こたろも続いた。
茶丸は何事もなかったように姿勢を正す。
「……ニャッ」
全員の視線が長逸へ集まった。
「私もやるのか?」
「仲間になったら、やるんだよ」
茶太郎が言うと、長逸は困ったように笑った。
そして、片手を静かに上げる。
「……ヨシ」
「長逸さん、上手!」
茶畑に笑い声が広がった。
長逸は希太を見つめ、目を細める。
「茶太郎。私はこの地の異変を、主へ報告しなければならない」
「もう行くの?」
「傷が落ち着いてからだ。使番は、生きて知らせを届けるまでが役目だからな」
その言葉に、かん太が長逸を見た。
「えらい立派なこと言う使番やな」
「教えられたことを守っているだけだ」
長逸はそう答えたが、その口調には、人へ命令することに慣れた者の響きがあった。
茶丸だけが、その違和感を見逃さなかった。
『名も主も伏せているか。だが、今は問うまい』
長逸は茶太郎へ向き直る。
「宇治川と、この茶畑の異変。私も調べよう」
「手伝ってくれるの?」
「ああ。ここには守る価値がある」
希太が短く鳴いた。
「にゃ」
仲間と認める声だった。
茶太郎はまだ知らない。
槇島の使番を名乗るこの若者が、三好家の重臣となる三好長逸本人であることを。
そして、この日の一椀が、やがて三好長慶へ続く縁の始まりになることを。




