第10話 「槇島の使番・長逸と、茶畑の光」
――傷ついた使番と、猫がほどく武士の心――
巨椋池から宇治へ戻るころには、陽が西へ傾き始めていた。
茶太郎たちが秘密基地へ向かうと、竹林の前で土地神が待っていた。いつもの穏やかな笑みはなく、土色の杖を強く握っている。
「巨椋池の声には届いたようじゃな」
「うん。でも、黒い糸が都の方へ逃げていった」
茶太郎が答えると、土地神は茶畑の奥へ目を向けた。
「こちらにも、その濁りが流れ込んだ。地脈が怯えておる」
「糸が、まだ震えてる……」
縁の瞳には、地中を走る白い糸へ、細い黒糸が絡んでいるのが見えていた。
湿った土の匂い。その中へ、血を思わせる鉄の味が混じっている。茶丸と希太も耳を立て、竹林の外を警戒していた。
『誰か来る』
茶丸が告げた直後、茶畑の端で草が揺れた。
「……誰か、おらぬか」
現れたのは、まだ若い武士だった。
旅装は泥にまみれ、袖は鋭く裂かれている。脇腹を押さえた手には血がにじみ、足元も覚束ない。
茶太郎が駆け出そうとすると、かん太が先に腕を伸ばした。
「待て、茶太郎。相手が誰か、まだ分からん」
かん太は子どもたちを背後へ下げ、若武者との間へ立った。
「名を聞かせてもらおか。どこの者や?」
「……長逸と申す。槇島を預かる御方に仕える使番だ」
「使番?」
「命令や知らせを、戦場や城へ運ぶ役目の者や」
かん太の説明に、茶太郎は武士を見上げた。
長逸は苦しそうに息を整えながらも、竹林の入口、かん太の立ち位置、二匹の猫まで順に確かめている。傷ついてなお、周囲への警戒を解いていなかった。
『呼吸は乱れているが、目は死んでおらぬ。ただの使い走りではないな』
茶丸が金色の目を細める。
長逸は茶丸の声が聞こえた様子もなく、懐から一通の書状を取り出した。
「怪しい者ではない。その証しになるかは分からぬが、槇島へ届ける書状だ」
「見せんでええ。まず座れ」
かん太は長逸の意識が確かなことを確かめ、肩を貸した。
「話は手当てをしてからや」
◇
長逸は秘密基地ではなく、宗次の店へ運ばれた。
傷のある者を子どもだけで扱うわけにはいかない。志乃は清潔な布と湯を用意し、宗次は近くにいた薬師を呼びに走った。
かん太が裂けた衣を傷口から離し、志乃が血と泥を静かに拭う。
「刃は深く入ってへんようやけど、出血しとる。無理に動いたらあかんよ」
「かたじけない」
長逸は額に汗を浮かべながら、素直にうなずいた。
茶太郎は少し離れた場所から、その傷の味を感じ取っていた。
赤く、熱い痛み。血を失った冷たさ。長く気を張り続けた疲れ。
そして傷口の周囲には、濡れた土のような黒い苦みが付着していた。
「長逸さん。どうして、こんな傷を負ったの?」
「巨椋池の上に、淡い光が立つのを見た」
長逸は荒い息の合間に答えた。
「近くの村人から、宇治の茶商の子が池の霊へ粥を供えたと聞いた。それを確かめるため、宇治へ向かっていたのだ」
「僕たちのことを?」
「ああ。ところが宇治川の近くまで来たとき、川底から地鳴りのような音が聞こえた」
縁の表情が曇る。
「黒い糸が、長逸さんの傷から川の方へ続いてる」
「宇治橋の下には、黒い影がいた。人の形に見えたが、顔はなかった」
長逸は脇腹へ視線を落とした。
「影を追おうとした直後、地面が揺れた。次に気づいたときには、姿の見えぬ刃で斬られていた」
「刃が見えなかったの?」
「気配さえなかった。ただ、濡れた土の匂いだけが残っていた」
『巨椋池から逃れた濁りが、影の形を得たか』
茶丸の声が低くなる。
『あるいは、濁りを操る者が別にいる』
茶太郎は長逸の傷へ近づきすぎないよう、床へ手をついた。
舌に広がる黒い味は、巨椋池から北へ逃げた糸と同じものだった。
「僕、お粥を作る」
「粥……?」
長逸が目を向ける。
「傷はお粥では治らないよ。でも、薬師さんが来るまでに、少し体を温められるかもしれない」
「茶太郎、まず薬師に診てもろてからや」
志乃が優しく、しかしはっきりと言った。
「食べてええ傷かどうかも、確かめなあかん」
「うん」
茶太郎は急がず、薬師の到着を待った。
やがて呼ばれてきた薬師は傷を洗い、薬草を当て、清潔な布で脇腹を巻いた。
「幸い、刃は浅い。熱も今のところ高うない。今夜は絶対に動かさず、水と食べ物を少しずつ与えるんや」
薬師の許しを得て、茶太郎はようやく台所へ向かった。
土地神も店先までついてきていた。人の目には見えない姿のまま、茶太郎へ一枚の茶葉を差し出す。
「これは、巨椋池で四柱の縁が結ばれたとき、地脈に芽吹いた葉じゃ」
「無病息災の葉?」
「病や傷を消すものではないぞ」
土地神は念を押した。
「弱った体へ温もりを届け、乱れた霊気が本来の流れへ戻るのを助ける葉じゃ。使い方を誤るでない」
「うん。治すためやなくて、長逸さんが休めるように使う」
茶太郎は志乃とかん太に手伝ってもらい、米を柔らかく煮た。
傷を負った体へ負担をかけないよう、味はつけない。土地神から受け取った茶葉も粥へ直接入れず、布へ包んで、立ち上る湯気に香りだけを重ねた。
米の甘い匂いへ、若葉の青く柔らかな香りが混じっていく。
「痛いことを忘れさせるんやない」
茶太郎は鍋を見つめた。
「今は戦わなくてもいいって、伝わる味にしたい」
胸の奥に宿った温かさが、湯気へ溶けていった。
◇
粥を人肌まで冷ましてから、茶太郎は長逸の前へ運んだ。
「少しずつ食べて」
「かたじけない」
長逸は椀を受け取り、ひと口すすった。
柔らかく煮えた米が、疲れた体へ静かに落ちていく。続いて茶葉の香りが鼻を抜け、張り詰めていた呼吸がゆっくりと整った。
「これは……」
傷が消えたわけではない。
巻かれた布の下には、今も痛みがある。それでも、霊性味覚で感じていた赤く荒い味は少しずつ薄れ、焦げるような苦みも和らいでいった。
「体の奥が温かい。痛みも、少し遠くなったようだ」
「傷は治ってへん。粥を食べたからいうて、動いたらあかんで」
かん太が念を押す。
「承知した」
長逸は素直にうなずき、茶太郎を見た。
「見事な手当てだ、茶太郎殿」
「殿はいらないよ」
「では……茶太郎」
長逸は、もうひと口粥をすすった。
椀を持つ両手には、まだわずかな震えが残っている。
「長逸さん、ずっと力が入ってる」
縁が、その周囲の糸を見つめていた。
「傷のところだけやない。胸の糸まで赤く固くなってる」
「使番が気を緩めれば、知らせを届けられぬ」
「でも今は、休まなあかんよ」
「それが、どうにも難しいのだ」
長逸が苦笑した、そのときだった。
希太が静かに近づき、長逸の膝へ前足を載せた。
「にゃ」
「……猫?」
長逸の体が、先ほどまでとは違う意味で固まった。
希太は構わず、その手へ頬を寄せる。
「にゃあ」
「ま、待て。私は猫に触れたことがない」
「嫌いなん?」
こたろが尋ねた。
「嫌いではない。ただ……どう触れればよいのだ」
「優しく撫でたらいいよ」
茶太郎に教えられ、長逸は恐る恐る希太の背へ手を置いた。
一度。
毛の流れに沿って、もう一度。
希太が喉を鳴らし、長逸の膝へ体を預けた。
「……温かいな」
その声から、武士らしい硬さが少しだけ消えた。
長逸の指は、壊れ物を扱うように慎重だった。希太が逃げないと分かると、肩からようやく力が抜けていく。
「赤かった糸が、柔らかい色になったよ」
縁が微笑む。
「私は、そのような顔をしていたか?」
「うん。ずっと戦ってるみたいな顔だった」
「戦っていないときの顔など、とうに忘れていたのかもしれぬ」
長逸は希太の背を撫で続けた。
粥が体の内側から温め、猫の体温が外から強張りをほどいていく。
茶太郎には、長逸の胸を覆っていた苦い味が、ほんの少し薄くなったのが分かった。
「希太も、料理みたいだね」
『俺は食べ物ではないにゃ』
希太の声が、茶太郎の胸へ響いた。
「そうやなくて、心を温かくしてる」
『……当然にゃ』
希太は得意そうに目を細めた。
すると、その鼻が長逸の腰袋へ向いた。
「にゃ?」
茶丸の耳も、ぴくりと動く。
『あの袋……またたびだ』
長逸は腰袋を確かめた。
「これは、槇島の薬師から預かった匂い袋だ。疲れを和らげると聞いたが――」
「にゃああっ!」
言い終える前に、希太が袋へ飛びついた。
茶丸まで長逸の足元へ寄ってくる。獣王としての威厳を保とうとしているが、尻尾だけは隠しようもなく左右へ揺れていた。
『長逸。その袋を、ただちに閉じろ』
「なぜ私の名を――いや、それより、獣王までどうしたのだ!」
『どうもしておらぬ。早く閉じろ』
「言葉と尻尾が合ってへんよ」
茶太郎が指摘すると、茶丸の尾がぴたりと止まった。
『見なかったことにせよ』
長逸は慌てて袋の口を固く縛った。
希太は長逸の膝で一度転がると、何事もなかったように座り直し、片方の前足を上げた。
「にゃっ」
「希太の決め姿や!」
かん太も面白がり、片手を上げる。
「よし!」
「ヨシ〜!」
こたろも続いた。
茶丸はしばらく迷った末、威厳を取り戻すように姿勢を正した。
「……にゃっ」
全員の視線が長逸へ集まる。
「私もやるのか?」
「仲間になったら、やるんだよ」
茶太郎が言うと、長逸は困ったように笑った。
それから希太を膝へ載せたまま、片手を静かに上げる。
「……ヨシ」
「長逸さん、上手!」
茶畑の店に、笑い声が広がった。
ほんのわずかな時間だけ、長逸は使番でも武士でもなく、猫の温かさに戸惑う一人の若者になっていた。
◇
夜が近づくころ、長逸は店の一室へ寝かされた。
すぐに槇島へ戻ると言い張るかと思われたが、傷を悪化させれば知らせを届けられないと、かん太と薬師に説得されている。
「使番は、生きて知らせを届けるまでが役目だからな」
長逸はそう言い、横になることを受け入れた。
「えらい立派なことを言う使番やな」
かん太が見つめる。
「教えられたことを守っているだけだ」
「それだけやないやろ」
長逸は答えず、茶太郎へ顔を向けた。
「宇治川と巨椋池、それに、この茶畑の異変。傷が癒えたら、私も調べよう」
「手伝ってくれるの?」
「ああ。ここには守る価値がある」
長逸の足元で、希太が短く鳴いた。
「にゃ」
仲間と認める声だった。
「それに、巨椋池で見た光も、今日食べた粥も、主へ報告する必要がある」
「長逸さんの主って、誰?」
「いずれ話せるときが来る」
口調は穏やかだったが、長逸は主の名を明かさなかった。
それでも茶太郎は、それ以上尋ねなかった。話せないことを無理に聞き出せば、ようやくほどけた心が、また固くなってしまう気がしたからだ。
『名だけでなく、身分も伏せているな』
茶丸は、長逸の言葉遣いや周囲を見る目を思い返していた。
『使番に身をやつしているが、人へ命じることに慣れた者だ。だが今は、問うまい』
店の外へ出ると、縁が宇治橋の方角を見つめていた。
「黒い糸が、まだ残ってる」
巨椋池から逃れ、長逸を傷つけた糸。
それは宇治橋の下へ潜り込み、さらに北の都へ伸びていた。
「長逸さんを斬った影も、誰かを待ってるのかな」
『あるいは、待つ心を利用しているのかもしれぬ』
茶丸の答えに、茶太郎は表情を曇らせた。
「悪い霊なの?」
『まだ決めるな。何者か確かめるまでは、ただの影だ』
茶太郎はうなずいた。
迷った者を、最初から悪いものと決めつけてはならない。けれど、誰かを傷つけるなら、そのままにもしておけない。
「声を聞こう。それでも誰かを傷つけるなら、止めなきゃ」
その夜。
宇治橋の下で、黒い影が水面からゆっくりと立ち上がった。
顔のない影の手には、水で形作られた細い刃が握られている。
『長逸……』
影は、若武者の名を呼んだ。
『次は、帰さぬ』
巨椋池の霊を救った光は、槇島の使番・三好長逸との縁を結んだ。
同時に、茶太郎たちを宇治橋の下へ潜む、新たな濁りへ導こうとしていた。
【本日の一椀・無病息災の茶粥】
柔らかく煮た粥へ茶葉を直接入れず、湯気に若葉の香りを重ねた一椀です。傷を治す薬ではなく、手当てを受けた者の体を温め、安心して休むための料理として描きました。
どれほど気丈な武士でも、休まなければ歩き続けることはできません。今回、長逸の心を最後にほどいたのは、料理ではなく希太の温もりでした。
次回、長逸を傷つけた黒い影を追い、茶太郎たちは宇治橋の下へ向かいます。




