瀬戸内兄弟仁義
「すごいぞ茶がま!」
テツは大喜びで殊勲の茶がまへと駆け寄っていく。
地面にそっと亀を置き、そのまま茶がまの傍らで膝をついた。
「やっぱり狸は変化のプロや! おまえのおかげで、おれも亀も助かったで!」
瞬く間に元のサイズへと戻った茶がまだったが、すっかり気が抜けてしまったようで仰向けになってぐったりとしている。尋常ではない緊張感だったのだろう。
毛だらけのお腹を見せた無防備な姿で茶がまは言う。
「向こうが先に退いてくれてよかったあ。あんな相手、喧嘩になったら絶対ぼくなんかじゃ勝てんもん」
「そうかあ? 茶がまの三ツ目の巨人姿、めっちゃ強そうやったけどな」
「へへ、あんなんただの虚仮威しやけん」
互いに笑顔を見せ合うテツと茶がまだったが、この場には彼ら以外にもう一人、いや一頭いた。テツが助けた亀である。
「おう兄弟たち、さっきはありがとヨ」
顔を出した亀が喋ったところで、今さら動じるテツではない。異界での様々な不思議現象に遭遇して命の危険にもさらされた。それを思えば至って平和だ。
「いやはや、おまえさんたちの勇気と度胸にゃ感服させられたゼ。おれっちの名は亀道丸。あの鵺の鳴き声ってのが昔からどうにも苦手でヨ、恥ずかしいところを見せちまったナ」
「なあに、気にすんな。おれはテツ、こっちは茶がま。よろしくぅ」
改めて互いに自己紹介を済ませる。
「このあたりは〈龍の夢〉の中でも指折りの危険地帯でナ。普段ならおれっちも絶対に通りゃしないんだが、どうも世界が混沌としちまってるみたいでヨ」
あちらこちらで地理がぐちゃぐちゃに入り乱れてんだろうサ、と亀道丸は自身を納得させていた。
「まあなんだ、龍のお目覚めが近いってこったナ」
「それよそれ。夢の段階でこのおっそろしい状況やろ? ならその龍ってのが目覚めたら、向こうの世界はいったいどうなるんや?」
「さあナ。歴史上類を見ないくらいやべえってことだけは確かだがヨ」
さすがに亀道丸にもはっきりとはわからないらしい。
一難、二難、三難と去っても、大元に火種が燻っているのでは困る。かといってこんな夢の世界を作りだせる龍の神など、どのように対処すればいいのか見当もつかない。明らかに人間の領分を超えた存在ではないか。
どうしたものかいな、と頭を悩ませているテツを気遣ったのか、亀道丸が「にしても、兄弟たち」と話題を変える。
「人間と屋島の狸ってのも随分珍しい組み合わせだよナ。古来より人間は妖を怖がるモンじゃないのかい?」
「ふふん、ぼくとテツは友達やけんね」
すかさず茶がまが口を挿み、テツも「おれらは命を助け合った仲やしな」と同意した。今朝出会ったばかりだとしても、友達になるのに時間の長さは関係ない。
「亀道丸、あんたともそうなれたらええなと思うとるよ」
「へっ、おれっちもダチってか。うれしいことを言ってくれるねエ」
大きな黒い目を細めて亀道丸が言った。
「よっしゃ、おまえさんたちなら大丈夫そうだ。お礼がてらに、どうだい? ちょっくら龍宮城へクルージングとしゃれこもうじゃねエか」
「おお……龍宮城も存在するんか」
「もちのロン。この〈龍の夢〉の中で生まれた場所だからナ」
魅力的すぎる提案だった。
〈龍の夢〉の中で生みだされ、住処としている数多の妖たち。まさかその中に浦島伝説の龍宮城まで含まれていようとは。
「おれっちの背中に乗ってりゃ、お城まであっという間ヨ。快適な高速クルージングを約束するゼ?」
亀道丸がヒレ状の前脚で甲羅を叩き、丈夫さをアピールする。広さも問題なく、茶がまを腕に抱えたテツならば充分に乗れるだろう。
けれどもこの申し出をテツは固辞した。
「すまんな亀道丸、龍宮城はまたの機会にお願いできるか。悪いけど今日ははよ帰ったらなあかんのや」
「何てこったい。そいつはつれない返事だナ、兄弟」
「おれだって龍宮城を一目見てみたかったわ。けど船に残してきたじーちゃんも心配しとるやろうし、何より友達の千鳥に薬を届けてやらんと」
立て続けに起こった異界の出来事のせいで、本来の目的を見失ってはならない。体調を崩した千鳥のために海へ出てきたはずである。
帰るまでが遠足、とはよく言ったものだ。
「とはいえ、どこから元の世界に帰れるんかはさっぱりなんやけどな」
「灯台やってまだ見つかっとらんけんね」
茶がまも短い前脚で腕組みをしている。
結局、危機が去ったところで事態は振りだしへ戻ったにすぎない。どうにかして灯台を探しださねば、元の世界への帰還も覚束ないのだ。
「オーケー、オーケー。事情はわかった」
鷹揚に頷いた亀道丸が、再び甲羅を叩いて言った。
「だったら乗ンな。おれっちが表の世界まで送ってってやるゼ」
「ほんまか! 亀道丸おまえ、灯台の場所を知っとんやな」
「見くびってもらっちゃあ困るゼ。この瀬戸の海でヨ、おれっちが知らねえことなんざありゃしねえのサ」
右も左もわからない〈龍の夢〉にあって、これほど頼もしい台詞が聞けるなどとは思ってもみなかった。拝みたくなるほどに心強い。
「心から恩に着るわ。礼はまた改めてさせてくれ」
深々と頭を下げたテツにならい、茶がまもぺこりとお辞儀する。
だが亀道丸からは「よしなって」と制止の声が掛かった。
「こっちゃ命を助けてもらったんだからヨ。むしろこんなしけた恩返しじゃ釣り合いがとれねえって話だゼ、兄弟たち」
そこから彼の案内に従い、くるぶし程度の深さしかない遠浅の海を進んでいく。先ほどのような危険な連中と遭遇せずに済むことを願いながら。
道行きには幸い何ごともなく、ようやく海の深さも増してきたあたりで「そろそろだナ」と亀道丸が口にする。
「いいゼ。乗ってくンな」
テツが堅牢な甲羅の上におそるおそる跨ろうとすると、亀道丸から「よちよち歩きのガキンチョじゃあるまいし、びびってンじゃねえって」と笑われてしまった。
どうにかテツと茶がまが甲羅にしがみついたのを確認し、彼は宣言する。
「ちっとばかり飛ばすからヨ、振り落とされンじゃねえぞ?」
◇
亀道丸の大言壮語は単なる事実でしかなかった。
気分はさながらボートレーサー、おまけに着席もできないときている。となれば必死に甲羅をつかんで離さないようにするしかない。
海面を切り裂くほどの圧倒的な速度に、テツでさえ息をするのがやっとだ。茶がまに至っては早々に彼の庇護を求めてきたので、何とか腕の間で抱え込んでいる。
「さあ、見えてきたゼ」
灯台がヨ、と亀道丸が告げた。
その言葉通り、赤く塗られた灯台が前方にある岬の突端に建てられている。
「灯台ってのはいわゆる目印でナ。あそこを越えた先はもう表の世界サ」
テツたちへ説明しながらも、スピードはまったく落とさない。最高速のままで亀道丸は灯台のすぐ脇を突き抜けていく。
どこが境界線だったのかはわからない。
しかし元の世界へ戻ってこられたことだけはすぐに理解できた。なぜなら奇妙な明るい夜空ではなく、見慣れた曇天の空が頭上に広がっていたためだ。
「何か困りごとがあったらいつでも声を掛けてくれヨ、兄弟たち」
テツも呼びかけに反応したいのだが、この速さの中では声が上手く出せない。
なので指先で甲羅を叩き、返事の代わりにする。
「おれっちはだいたい荘内半島のあたりにいるからサ。また会おうゼえ」
猛然と泳ぎ続ける亀道丸からの別れの言葉だったらしい。
いきなり速度を緩めたせいで、甲羅にしがみついていたテツと茶がまの体が、揃って前方へと投げ出されてしまった。
ただし〈龍の夢〉に入ってしまったときとは逆である。一人と一匹が落下する先には、清三の漁船が待ち構えていたのだ。
放物線を描いたテツと茶がまが、漁船に備えつけられてある網の部分へと墜落する。おかげで特に怪我もない。きっと亀道丸はここまで計算していたのだろう。
そのとき船上では、祖父の清三がまったく別の方角へ向かって「テツぅぅぅ!」と喉を嗄らして叫んでいた。
「ういー、ただいま帰ってきたでえ」
締まらない声とともに、テツは親指を立てて無事をアピールする。
〈龍の夢〉の中でどれほど時間が経過していたのか、そこはまったく不明だ。とはいえ、他の救助船の姿が見えないところから察するに、茶がまを追ってテツが海へ飛び込んでからさほど経っていないのではないだろうか。
すぐに清三もテツと茶がまが船へ戻ってきたことに気づき、いつになく慌てた様子で駆け寄ってきた。
「テツ……テツ! 無事やったんか!」
その顔には安堵と困惑が入り混じっており、祖父らしからぬ表情に対して思わずテツは笑みを浮かべてしまう。
土産話なら山ほど持ち帰ってきた。今から話すのが楽しみだ。




