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せとうちに眠る龍の夢  作者: 遊佐東吾


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10/19

思い出残照

 脇に挟んでいた体温計から電子音が鳴る。


「おー、37.4」


 平熱が高めの千鳥からすれば、充分に許容範囲の数字だ。

 先ほど起床した際も、昨日の朝のようなしんどさはもうなかった。本調子とまではいかないものの、どうにか頭も体も動きそうである。


「テツくんと清三さんにお礼言わなきゃ」


 昨夜、花純が教えてくれた。二人は悪天候の中で船を出し、わざわざ違う島まで行って解熱剤を買ってきてくれたのだそうだ。

 花純といい、テツといい、清三といい、この壱ノ木島ではみんなが千鳥に優しくしてくれる。居心地がいいのだ。何でも揃う東京とは違ってひどく不便な島暮らしだが、少しずつ悪くないような気がしはじめていた。

 ただ一つ、しこりのように居座っている合唱への思いを除けば、だが。

 邪魔な埃を吹き飛ばすように「ふう」とため息を一つついた拍子に、部屋の襖がノックされた。何とも頼りない音である。


「おはよう、千鳥。入ってもいい?」


「はい、どうぞ」


 ノックの主はもちろん花純だった。

 静かな動作で部屋へと入ってきた彼女は、布団の傍らに座って千鳥の額に手を当てる。さっき体温計で測りましたよ、とは言いだしづらい雰囲気だ。

 自身の熱と比べながら花純が言う。


「昨日よりは下がったみたいね」


「かなり楽になりました。お薬を飲んだおかげかなって」


「よかったあ……」


 胸に手を当てた花純の姿は、心底ほっとしているように見える。

 彼女の用件は朝食についてだった。

 食べられそうかな、と訊ねてきた花純へ千鳥は即答する。


「お腹、すっごい空いてます」


「あはは。回復している証拠だね。じゃあすぐ用意するよ」


 ようやく快活に笑った花純が手早く作ってくれたのは、消化にいいにゅうめんだった。といっても千鳥はこれまで冷たいそうめんしか食べた経験がない。

 折り畳み式の小さなテーブルとともに供された初めてのにゅうめんは、温かい出汁も相まって何だか安心する味である。細い青葱がたくさんかかっているのも千鳥の好みだ。


「それね、小豆島のそうめんなの。美味しいでしょ」


 座布団へ腰を落ち着けた花純が話し掛けてくる。

 聞けば小豆島というのは、この壱ノ木島から少し離れた位置にある島らしい。瀬戸内海の中では淡路島に次ぐ大きさなのだそうだ。

 醤油とオリーブ、そしてそうめんが名産とのことで、花純は毎年夏になれば醤油とオリーブオイル、他諸々を掛け合わせた独自の調味料を作って、麺類のお供にしているのだという。

 千鳥はきっちりと完食し、「ごちそうさまでした」と手を合わせる。

 けれども花純はまだ腰を上げようとしない。


「ね、体調が戻ったら今度流しそうめんやろっか。半分に割った竹もどこかに置いてあったはずだし」


 家の中でなのか庭でなのか、いずれにせよ場所の問題はなさそうである。ただし千鳥がやりたいかどうかはまた別の話だ。


「このおうち、本当に広いですもんね」


 とりあえず当たり障りのない返事を口にした千鳥だったが、それに対して花純は「もう」と子供っぽく頬を膨らませた。


「他人行儀だなあ。敬語はやめてよお、ちーちゃん」


「ち、ちーちゃん……?」


 ちゃん付けはやめてほしい、とテツに対しては先日要望したばかりだ。見た目こそ厳つい彼だが、意外にもずけずけと物を言いやすい大らかな雰囲気がある。

 一方で叔母の花純はどうだろうか。受け入れてくれるだろうか。

 とはいえ単なるちゃん付けではなく、姪っ子への親しみのこもった呼び名だ。それを拒絶するというのも了見の狭い話のように思えた。

 千鳥の内心の葛藤を知らず、花純はそのまま話を続ける。


「でも、そうね。この家は確かに一人で暮らすにはちょっと大きすぎるかな」


 里紗さんがいなくなって随分広くなっちゃった、と寂しそうに笑う。


「南沢里紗さん、でしたね」


 仏壇に遺影が飾られていた女の人だ。


「うん。三年前に亡くなられてね。結局、この家であたしがあの人と一緒に暮らせたのはわずか二年の間だけ。でもその二年があったからこそ、今のあたしがいるの」


「どういう方だったんですか?」


 おそらく花純とは相当に年齢も離れていたはずだが、二人の関係が千鳥には見えてこない。年の差に関係なく友情は成立するのかどうか、小学生の彼女にはまだはっきりとはわからないでいた。


「ちーちゃんってばまーた敬語使ってるぅ。おいおいフランクにしていってよね」


 前置き代わりに釘を刺してくるのも忘れず、花純は恩人について語りはじめた。

 岡山県に本社がある大きな企業に勤め、若くして経営陣に名を連ねるほど優秀なビジネスパーソンだった南沢里紗。

 そんな彼女でも家庭には恵まれなかった。子供ができず、夫とは離婚。

 定年を待たずして早期退職した里紗は、それまでの人生でまったく縁のなかった壱ノ木島へと移り住む。十五年前の出来事だ。


 空き家を買い取り、ほんの少しの改修だけで暮らしだした。彼女は初めてのことだらけの不便さを楽しんでいた。

 たくさんの種を蒔き、色とりどりの花を育て、周囲の景色を変える。

 配偶者と死別した年下の漁師とも親しくなり、しょっちゅう互いの家を行き来するようになった。あくまで友人関係として、だが。

 時折、島へ旅人が迷い込んでくる。どこへ行く当てもなく瀬戸内をさすらい、引き寄せられるように無名の壱ノ木島へ流れ着いてしまった人たちだ。

 里紗が最後に迎えた旅人、それが花純だった。


「瀬戸内海みたいに穏やかな人でね。誰かを悪く言ったり声を荒げたりしたところなんて、一度も見たことがなかったなあ」


 さしずめ瀬戸内菩薩だね、と花純は柔らかく笑う。


「あの人からは本当にいろいろなことを教わったよ。花の育て方なんかはもちろんそうなんだけど、他にもたとえば和菓子の作り方とかさ」


「あ。じゃあ、一昨日の大量のあんこって」


「ふっふっふ、あたしの手作りあんこです」


 得意げに花純が胸を張った。

 千鳥の家では父と母、どちらも料理を作る。それぞれ得意なレパートリーが違うのだが、お菓子作りは双方のラインナップに含まれていなかった。洋菓子であれ和菓子であれ、東京では買いに行く店にも事欠かない。

 なので自らあんこを作るような人と出会ったのは、これまた千鳥にとって初めての経験だった。


「すごーい……。花純さん、お店出せそう」


「そう? ならちーちゃん、あたしが作った和菓子、食べてみたいって思う?」


「うん、ぜひ食べてみたい」


 千鳥も勢い込んで返事する。もちろん本心からだ。

 これを聞いてどういうわけか、花純は胸を撫で下ろしていた。


「よかったあ。というのもね、実はすでにたくさん用意してあるのです」


 全部水まんじゅうなんだけどさ、と照れくさそうに彼女が言う。


「昨日は作品の制作をさぼっちゃって、気がついたらひたすらこしらえてたってわけ。それこそ『お店か』って突っ込みたくなるくらい」


 体調を崩してしまった千鳥を、花純はとても心配してくれていた。もしかしたら作品制作をさぼったわけではなく、手につかなかったのではないだろうか。

 と、そんなことを考えている自分がひどく自意識過剰のように思えて胸が痛み、途端に花純の目を見られなくなってしまった。

 もちろん花純の態度は変わらず朗らかなままだ。


「でも作り方は意外に簡単なんだよね、水まんじゅうって。生地に葛粉を使ってるから血行にもいいんだよー」


 葛粉とわらび粉と水と砂糖、それらを火にかけて混ぜながら練り上げる。そうして出来上がった生地に小分けにしたあんこを詰め、冷やして固めれば完成。

 話を聞いているかぎりでは、初心者の千鳥にだってどうにか作れそうだ。

 けれども「今度一緒に作ってみたい」の言葉がなかなか出てきてくれない。何度も喉元までやってきては飲み込む、その繰り返し。


「体調が大丈夫そうなら、後で水まんじゅうパーティーしよっか」


 ねえちーちゃん、と花純はにこにこ笑っている。

 他の誰かから好かれる人って、こういう人なんだろうな。自分とは違う。

 千鳥の胸の奥で、また少しだけちりっと火花のような痛みが走った。


     ◇


「こら、慌てんな茶がま。玄関開けてもらうまでおとなしぃにしとれ」


 テツの制止も耳に届いていないほど、狸の茶がまは興奮気味だ。

 先ほども抱えてインターホンを押させてやると、何度も連打する始末。まるでテンションの上がった小学生男子のようである。


「だってなだってな、もうすぐチドリに会えるんやろ?」


 ぼくめっちゃうれしくて、とすっかり上機嫌だった。

 花純から「もう大丈夫そうだよ」と連絡があったのは午前十時頃だ。千鳥の体調はだいぶ回復したらしい。なのでお見舞いも兼ねてテツと清三、そして茶がまは午後に伊庭家を訪れていた。


「ほーい、いらっしゃーい」


 いきなり玄関の引き戸ががらりと開く。今回も鍵を掛けていなかったらしい。

 応対に出てきたのは花純だったが、上り口のところまで千鳥も姿を見せていた。パジャマ姿で小さく手を振っている。調子はよさそうだ。


「わーい、チドリー!」


 猪のごとき突進で、茶がまは千鳥目掛けて飛びついた。

 千鳥も踏ん張って受け止めたのだが、茶がまの体は意外に大きい。思わずよろめいてしまった姪の体を、慌てて花純が手を伸ばして支えている。

 茶がまを廊下へ下ろしながら千鳥が言う。


「こんにちは、狸さん」


 けれどもそんな彼女に対し、茶がまはぶんぶんと首を横に振った。


「ぼくねえ、テツに名前つけてもらったんよ。だから『茶がま』って呼んでや」


 これを聞かされた千鳥がテツへと視線を向ける、というより睨んでくる。


「ネーミングセンスへの文句は受け付けとらんで」


 先手を打って予防線を張った。

 とはいうものの、テツとしては「茶がま」を結構気に入っている。今さら変更するのも気が進まない。


「ずるい。テツくん、ずるい。茶がまは確かに結構可愛いけど、でも。狸さんに名前がないなら、わたしがつけてあげたかったのに」


「そっちか……」


 どう言い訳したものか、と思案するテツだったが、意外にも茶がま自身が「ちゃうよ、チドリ」と否定した。


「ぼくねえ、持っとる名前はたくさんあるんよ。名前って大切なものやけん、多い方がいいってうちの親分も言うとった」


 ここまで黙っていた清三が「斬新な意見やの」と呟くと、花純も「狸の親分さんはさぞかし豪快な方なんだろうね」と苦笑いしている。

 ただ茶がまだけがきょとんとして、みんなの顔を見回していた。

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