めくるめく異界
前足で耳を塞ぎ、体を縮こまらせながら茶がまが言った。
「最悪や、テツ。どっかに鵺がおる」
テツは学校の勉強こそ毛嫌いしていたが、両親から日本や世界の民話を聞かされるのはわりと好きだった。なので自分の中のおぼろげな知識を総動員する。
「鵺ってあれか、猿と狸と虎と蛇が混ざっとるっちゅう」
「あんなんとぼくら狸を一緒にせんといて!」
今度は前足を勢いよく振り上げて怒りを露わにした。なかなかに感情表現が目まぐるしい狸である。
猿の顔、狸の胴、虎の手足、蛇の尾が合わさったとされる伝説上の怪物、それが鵺だ。愛媛県の山間部にも鵺にまつわる言い伝えが残っており、夜な夜な雲に乗って京の都まで押しかけていたのだという。
「確か、鳴き声が不吉なものとされとるんやったよな」
「テツ、よう知っとるねえ」
「うえっへっへ、それほどでもあるわ」
調子に乗ってみたテツだったが、さすがにもう一度あの声を聞かされるのは御免こうむりたかった。
少しでも鵺から遠く離れよう、と決断するのは自然な流れだ。
しかしテツと茶がまよりも早く、目の前の海面を跳ねながら逃げていく者たちがいた。人魚である。
「お、お、おい茶がまぁ。今度は人魚の群れや」
しかも人魚たちは海を泳ぐのではなく、尻尾で水の上を蹴るように進んでいる。
全員が一斉に同じ方向へ逃げていることから察するに、人魚たちも鵺の声からとにかく離れようとしているのだろう。
そんな人魚たちの最後尾には亀もいた。だがそれほどスピードが上がらず、先行する人魚たちとの差は開くばかりだ。
ぴったりとテツに寄り添いながら茶がまが言う。
「なあなあテツ、この海めっちゃ浅そうやで。たぶん遠浅よ」
「なるほど、そやから人魚たちは泳がずにあんな逃げ方しとるんか」
遠浅の海であればさほど陸地と変わらず、亀にとって条件が悪い。深い海であった方がもっと早く逃げられただろうに。
心の中で「頑張れよ、亀」と呟いてテツも逃げだそうとした、そのときだった。
いきなり夜空から飛来した獣が、亀の体を両脚で押さえつけてしまう。がっちりと亀をつかんだその足の柄は黄と黒で構成されており、見た目はまさに虎。
翼はなく、鳥ではない。間違いなく鵺だ。
「えらいことになってきた……」
すでに鵺とは視認できるくらいの距離になっている。こんな近さで、先ほどのような恐ろしい声を耳にしてしまえばどうなるか。
想像するだけで肝が冷えてしまう。
「茶がま、思いっきり耳塞いどけ」
それくらいしか対処のしようがない。
あんな怪物を相手にすることなどできない以上、テツに思いつけるのは身を潜めてやり過ごす選択だけである。
けれども異界の状況は刻一刻と変化するらしい。
突然放たれてきた矢によって、猿の顔をした鵺の頭部が貫かれてしまったのだ。
鵺の巨体は小さな水飛沫とともに浅い海へと倒れ、それきり動かなくなった。
時を同じくして二つの方角からどよめきの声が聞こえる。おそらくは鵺を仕留めた弓の腕を称えての喝采と思われた。
「なんやなんや、異界の那須与一かい」
「あ。その人、ぼくも名前知っとる。屋島の有名人やもん」
「おおう、茶がまは賢いなあ。人間顔負けやで」
そんな会話を交わしながらも、テツの視線は九死に一生を得た亀へと熱く注がれていた。転がり込んできたチャンスを無駄にしたらあかんぞ、と。
しかし状況はまたしても変化する。
まず法螺貝の音が鳴り響き、続いて二つの方向から鬨の声が上がった。
それを合図に雪崩のように押し寄せていく双方の鎧武者たち。まさしく絵巻物に描かれているような合戦だ。
「今度は何や、戦争か」
勘弁してくれ、とテツがぼやく。
独り言同然の彼の問いに答えたのは茶がまだった。
「うわ、うわ。源平合戦やで。ぼく、初めて生で見るんよ」
「おいおい茶がま、まるでスポーツ中継のノリやんか」
それにしても源平合戦とは穏やかではない。
とてもじゃないがテツとしては観戦する気になどなれないし、まだ取り残されたままの亀も心配だ。
そんな彼の心中を知らない茶がまは鼻息が荒い。
「だってうちの親分やったら幻術使って、屋島の源平合戦を再現することができるんやもん。太三郎狸いうてすごい方なんよ」
「それはえらいごっついな」
狸たちも〈龍の夢〉で生まれた、と先ほど茶がまが口にしていた。
生まれ故郷を後にして表の世界で暮らす決断に至ったのは、狸たちをまとめ上げる有能なボスがいたからこそなのだろう。
「うちの親分、今度テツにも紹介しよか?」
茶がまが呑気にそう提案するのをよそに、合戦はどんどん激しさを増していく。
無数の弓矢が上空を飛び交い、両軍の激突も始まった。刀を打ちつけ合う音もここまで届いてくる。
テツとしてもうかつに身動きがとれない状況だ。あの武士たちに見つかってしまえば、それこそ問答無用で斬られかねない。
「ほらテツ見てみ、あっこの武士の首が転がったわ」
平氏側やろか、と茶がまが平然と恐ろしいことを口にしている。
「やめやめえ! 生首とか目撃してしもうたら、おれはこの先一生安眠できんわ」
「そうなん? でもあの武士たち、みんな骸骨やからすぐ復活するで?」
茶がまの指摘通り、胴体だけとなった武士が慌てて自身の首へと駆け寄り、まるで帽子をかぶるかのようにくっつけ直していた。
兜の下に覗いているその顔は、まぎれもない骸骨だ。
「ひええ……。あれはあれでおっかねえわ」
「んもうテツ、もうちょっとしゃんとしてや」
「そう言われてもやなあ、骸同士の合戦見てびびるなって方が無茶やぞ」
マウンドでのピンチに動じた記憶はないが、それとこれとは話が違う。異界での出来事はとにかく心臓に悪い。
「そういやさっきの亀、どないしてんねやろ。茶がまわかるか?」
「見えるで。うーんとね、甲羅に閉じこもって矢から身を守っとるみたい」
テツは安堵して「まだ無事でおったか」とほっと一息つく。
合戦は激化の一途をたどり、遠浅の海のそこかしこに両軍の骸が転がっている状況だ。とはいってもすぐに起き上がってまた戦いだすのだが。
そしてさらに状況は移り変わっていく。
遠方に暗い天を突くような大入道が現れたのだ。
大入道は悠然と歩を進め、行く手を塞ぐ源平の武士たちを容赦なく踏み潰していく。腕を振れば一気に十人ほどの骸武者が吹き飛ばされた。
こんな怪物が現れてしまえばもはや合戦どころではないのだろう。再び源平両陣営の法螺貝が鳴り響き、その音に合わせて一斉に退却が始まった。
その様子を観察していたテツが言う。
「これは……もしかしたらチャンスかもしれん」
「チャンス? なんの?」
「亀や。あいつを助けるんやったら今しかないで」
そう茶がまへ答えるなり、テツは全速力で飛びだした。目指すは縮こまったまま動けずにいる亀である。
脱兎のごとく波打ち際を低く駆けていくテツは、真っ直ぐ亀のもとに到達した。すぐさま太い左腕で亀を抱えつつ、伝わるかどうかはわからずとも「逃げるからじっとしとれよ」と声を掛ける。
けれども彼は状況を見誤っていた。確かに源平の武士たちは退却したが、その原因となった大入道はどんどん近づいてきていたのだ。
テツと亀のいる場所まであともう少し。大入道からすればたった数歩の距離だ。先ほどの骸武者たちのように薙ぎ払われてしまっては、一つしか持ち合わせがないテツの命などあっという間に消えてなくなるに違いなかった。
大入道はゆっくりと首を動かし、テツたちを見る。一ツ目だ。
「あかん……目が合ってもうた」
魅入られたように大入道へと視線を向けてしまったテツは、生物としての圧倒的な差を思い知らされる。「おじょも」だ何だと持て囃されていようと、そんなのはしょせん人間の中での話だ。大入道はスケールが違いすぎた。
「おれもここまでなんかな。人生に悔いしかねえわ」
体が硬直し、逃げだしたくても上手く足が動いてくれない。
大入道が腕を振り上げようとする、まさにそのときだった。
「テツぅ!」
ひと際大きな声で茶がまが叫ぶ。
だが小さくて愛らしい茶がまの姿はどこにもなく、代わりに現れたのは異様な三ツ目の巨人であった。
一ツ目の大入道と三ツ目の巨人、大きさはまったくの互角。この新たな局面で、一ツ目の大入道もテツたちのような小さき者にかまってはいられないと判断したのだろう。すぐさま三ツ目の巨人へと正対する。
両者の睨み合いが続いた。亀を左腕に抱えたままのテツにとって、その時間はとてつもなく長く感じられた。
声には出さず、三ツ目の巨人へ「踏ん張ってくれ、茶がま」とエールを送る。
テツにはちゃんとわかっていた。一ツ目の大入道に勝るとも劣らないほど恐ろしい三ツ目の巨人は、茶がまが変じた姿なのだと。
祈りとともにテツが見つめる先で、一ツ目の大入道がくるりと背を向けた。
遠浅の海へ足音を響かせ、そのまま後ろを振り返ることなく去っていく。
茶がまである三ツ目の巨人は微動だにしない。離れていく一ツ目の大入道の姿が芥子粒ほどに小さくなるまで、じっとその場に立ち続けていた。




