おっちょこちょいな狸
すんなりと特異な状況を受け入れていたテツだったが、ふと我に返る。
「あかん、あかんぞ。誰か他の人間に見られたらまずい。映像で残されようもんならもうアウトや」
喋る狸の動画など、愛らしすぎてどれほど拡散されてしまうか想像もつかない。
スポーツバッグのファスナーを全開にし、中へ入って身を潜めるように促す。
「ええか、茶がま。おれが『もう大丈夫や』いうまで、絶対に顔出したらあかんぞ。千鳥と会えんようになるかもしれんからな」
「茶がまってぼくのことなん?」
「おう。といってもこの場で適当に考えただけやから、ちゃんとした名前があるんやったら教えてくれ。そっちで呼ばせてもらうわ」
周囲をうかがいながらテツは小声で話しかけた。もちろん「茶がま」の由来は狸が登場する昔ばなしの分福茶釜からだ。
意外にも狸は「ううん、その名前でいい」と答えながら、素直にバッグの中へ潜り込んでいく。
「じゃあテツ、ぼくちゃんと待っとるけん」
「しばらくの我慢や。頼むで茶がま」
付けたばかりの名で呼び、念を押した。
そして随分重さが増したスポーツバッグを左肩で担ぎ、一路薬局──の隣のコンビニエンスストアを目指す。
場所は漁港から徒歩圏内である。スマートフォンの助けを借りずとも、探し当てるのはさほど難しくなかった。
「いらっしゃいませー」
狸を連れていても何食わぬ顔で入店する。朝から蒸し暑い中で、エアコンの冷気が体に沁みた。
もちろんここはコンビニエンスストアであってドラッグストアではないため、品揃えには元々期待していない。解熱剤が置いてあればそれでよかった。
これやな、と目当ての薬を引っつかんだテツはすぐに会計を済ませる。とにかく早く壱ノ木島へ戻って千鳥に飲ませてあげなくては。
「ありがとうございましたー」
店の外へ出れば再び熱気にさらされるが、夏がやってきた証拠でもある。テツは一年の内で夏が最も好きだった。
「未練やなあ」
駆けだしながら独り言を口にする。
しかし彼は一人でないことをすっかり失念していた。
「ちょっと、あんまり揺らさんといて」
呼吸用に少しだけ開けてあるファスナーの部分から声がする。茶がまだ。
「それでチドリはどこにおるん?」
「おまえ、喋ったら怪しまれるやろって。朝早うても油断したらあかん」
「だって顔出すなとしか言われとらんもん」
なかなかに口の回る狸だ。まるで吉四六さんのようではないか。
「はあ、もうええわ」とため息をつき、テツが言う。
「千鳥は今ちょっと体調を崩しとってな。どうにかはよ治るように、ここまで薬を買いに来とったんや」
「じゃあこのままテツについていけばええんやね」
「連れていってはやれる。会えるかどうかはあの子の体調次第やな」
テツの言葉を聞き、茶がまは身をよじらせて再び顔を出した。
「実はぼく、迷子になっとったんよ」
テツの顔を見上げる茶がまの目が少し潤んでいるようだ。
「どうしてもチドリからもらったお菓子がまたほしくて、屋島に帰った後もう一度お船に乗って出かけたの。でも全然どこにおるんかわからんで途方に暮れとった」
「壱ノ木島にいる千鳥に会いたくて直島におったら、そら迷子やわ。見当違いの場所すぎるもんな」
「やけん、テツに会えて助かったんよ」
今は少し笑っているような気がした。なかなかに表情豊かな狸だ。
乗りかかった舟、という言葉があるように、一度関わると決めたのであれば最後まで付き合わなくては。
千鳥の体調が回復するまでは自分が面倒を見よう、テツは密かにそう決意する。
◇
「と、いうわけや」
祖父の漁船へ乗り込み、テツは事情を手短に語った。
つまらない冗談を口にしている、もしくは精神状態を疑われるくらいのことは想定していたのだが、清三の反応は予想外すぎた。
「そうか。戻るぞ」
拍子抜けするほどあっさりとしている。
「動じんなあ」と驚くテツに対し、清三は事もなげに言った。
「それなりに長く生きとるけんの。世の中いろいろ起こるわい」
出港までほとんど時間はかからなかった。
肝心の海だが、直島へやってきたときよりも荒れている。一段と高くなった波に祖父の小さな漁船が大きく揺らされてしまう。
「ええか、落ちんようにしゃんと踏ん張っとけよ!」
怒鳴るようにしてテツへ注意を促し、真剣な顔つきで操船に取り組んでいた。
手すりにつかまっているのもやっとなテツではあったが、祖父の技量へは全幅の信頼を寄せている。なので後は地獄の十五分間を耐え抜くだけだ。
けれども新しくできた相棒はそうもいかなかった。
「なあなあ、もう着く? しんどくてかなわんのよ」
バッグの中で茶がまが身をよじらせ、強引にファスナーから顔と両前足を出す。
よせ、というテツの叫びが声になる前に、船は激しく上下した。
「あ」
テツの耳元で茶がまの声が聞こえた。狸の体がバッグの外へ飛び出してしまい、宙に放りだされたのだ。
「何やっとんねん!」
そのまま船外へと投げ出されていくのを目の当たりにしたテツに、一切の迷いはない。というよりも考える前に波間へと身を躍らせた。
あまりにも無謀で愚かな行為だが、テツの頭にはただ「茶がまを助ける」、それだけしかなかった。
海面に呑み込まれながらもどうにか茶がまの体は確保する。とはいえ船に戻る手段などないし、海の水もひどく重い。
はたしてちっぽけな自分はどこまで波に抗うことができるのか。
「テツぅぅぅぅぅ!」
初めて耳にする、祖父の絶叫。
しかしその声もどんどん遠ざかっていき、テツの視界から海上の風景の何もかもが消え去ってしまう。
◇
目が覚めてみれば、腹部のあたりが妙に重い。
「よかったあ、テツ、よかったあ」
茶がまが乗っかっていたのだ。全身の毛が濡れているせいで、先ほどよりもえらくほっそりして見える。
「おう、おまえも無事やったか」
「ごめんなあ、ほんまにごめんなあ」
ぐりぐり、と顔をテツの大胸筋へと埋めるようにして押し当ててくる。どうやら茶がまなりの謝罪らしい。
「ぼくがちゃんとテツの言うこと聞いてればよかった。ごめんなあ」
「もうええって。そんなんいちいち気にすんな」
お互い助かったんやしな、とテツは口にしてから周囲の状況を確認した。
「いや待てよ。これ、ほんまに助かってんの?」
彼の目に映っているのは、およそこの世のものとは思えぬ光景だった。
テツがいる場所こそ砂地だが、すぐそこまで海が迫ってきている。ただし明らかに瀬戸内海の色合いではない。鮮やかな青すぎて、本能的に身構えてしまう。
陽が上ったばかりのはずの空は、なぜか夜になっていた。しかし奇妙なことに明るくもある。明るい夜、とでも呼ぼうか。
「何なんここ、えらい死後の世界みたいになってるやん……」
寒くはないが、テツの体がぶるっと震える。
加えて目覚めたばかりだというのに、まだ眠気の芯が残っているような感じだ。けれどもこんな奇妙な場所ですやすや寝ていられるほど豪胆ではない。
「頼むからよお、地獄の一歩手前とか言わんといてくれよ? さすがにまだ死にとうはないわ」
「大丈夫や、そんなんとちゃうで」
テツの胸から下りた茶がまが断言する。
「ここは〈龍の夢〉、テツたち人間からしたら別の世界や」
「それって千鳥も遭遇したっちゅうやつか」
うん、と茶がまがあどけない仕草で頷いた。
「表の世界は人間の世界。そっちと対を成す、龍の神さまが眠りながら見ている夢の世界。ぼくら妖モンはみんなこっちの世界で生まれたんよ」
「うげっ、ほんまもんの異界ってことか……」
とんでもない話になってきたで、と言ってテツは唇を噛む。
それでもどうにか取り乱さずにすんでいるのは、茶がまの存在のおかげだ。
「じゃあ茶がま、おまえはここから出られる方法を知っとんやな?」
「もちろん。灯台を探したらええんよ。夢の世界と表の世界との境目には、いつも灯台が光っとるけん」
「おお、灯台な! 古来より灯台は船乗りにとって希望の火やったわけやしな。実に希望の持てる話やないか。おっしゃ、じゃあさっそく──」
意気込んだテツの心を挫くように、突如として異様な鳴き声が耳を貫く。
どう形容すればいいのか。黒板を爪で引っかいても、フォークで皿を擦ってもここまで不快にはならない。
「きっ、気持ち悪い……! 何やこれ……!」
それだけを喉から絞りだすのが精いっぱいだ。
耳の奥をムカデが這いずり回っている、そんな錯覚を起こさせるほどに不快な鳴き声。音という形をとった呪いそのもの、と言ってもいい。こんな生き物が存在していて許されるのか、と吐き捨ててやりたいほどだった。
やはりここは長居していい世界ではない。
人間の世界とは異なる理によって支配されている以上、異物なのはテツの方だ。どうにか灯台を見つけ、速やかに元の世界へと帰還する。
野球はあきらめても、生きることまであきらめた覚えはないのだから。




