二人、逃げだした先に
むかーし、むかしのことじゃった。そう思わず口にしてしまいたくなる、おむすびの形をした可愛らしい山々。さながら紙芝居の絵だ。
そんなのどかな土地でテツは生まれた。ずいぶん大きな赤子だったらしく、出産の際には母も相当苦労したという。本当に頭が上がらない。
ちなみに地元では讃岐富士の名で知られている飯野山は、お手本のように見事なおむすび型である。ダイダラボッチに似ている「おじょも」という巨人が作った山、という伝承も残っているくらいだ。
なので体の大きい幼少期のテツは「おじょも」と呼ばれてもいた。
そんな「おじょも」こと中辻徹大の両親だが、二人とも大学の教員であり、民俗学あるいは文化人類学を専門としている。
香川県は意外にも、有名な昔ばなしが語り継がれている土地がいくつもあった。桃太郎に浦島太郎、かぐや姫。そういった地元に根差した研究を掘り下げつつ、世界の民話との関連も両親は調べていたらしい。
だがテツは父母とは違い、幼い頃から野球に関心を持った。そしてどうやら、同年代の中では才能も突出していたようだ。
最下級生として所属したリトルリーグのチームではすぐにエースとなり、最上級生のときには全日本選抜も経験した。もちろん投手として。
中学に上がれば、戦いの舞台はリトルシニアへと移る。そこでも彼の背番号1は指定席であり、脅かす存在さえ皆無だった。
井の中の蛙大海を知らず。広い世界を知らない者を戒める、有名なことわざだ。もちろんテツだって知っているし、そうはなるまいと心に刻んでもいた。
だが全国レベルでも快投が続けばどうだろうか。
相手打者のバットに空を切らせ、築くのは三振の山。スコアボードへもひたすら0を並べ続ける。自身の名を轟かせ同世代の中でも大注目の投手となったテツに、もはや以前の謙虚さは微塵も残っていなかった。
「あんなしょぼい連中、かすられただけでも気分が悪いのぉ」
相手チームへのこういった放言もいつの間にか日常茶飯となってしまう。
テッちゃんの将来はプロ野球選手やな、とチームメイトから水を向けられても、「アホか」と鼻で笑い飛ばす始末だ。
「おれの才能がNPBで収まるわけないやろ。見とけよ、甲子園を沸かせたらすぐMLBに行ったるけん」
おおー、と笑顔とともにどよめいていたかつての仲間たちだが、今にして思えばお山の大将に対する追従の愛想笑いでしかなかったのだろう。
ここまでテツは挫折を経験することなく、順風満帆の野球人生を歩んでいた。
その一つのハイライトといっていいのが進学先選びだ。野球に力を入れている高校、特に私学は有望中学生のスカウト活動に心血を注いでいる。
なので当然、テツを巡っての争奪戦が繰り広げられ、両手両足の指では足りないほどの高校から誘いを受けた。
テツにとっては一生を左右しかねない選択だ。普通ならここでじっくり思い悩むのだろうが、彼は違った。
周囲の誰も本命としては扱っていなかった、神戸にある私立の宝丞学園。十年以上甲子園への出場から遠ざかっており、なかなかライバル校の壁を突破できずにもがいている、そんな学校をテツは選んだのだ。
己の右腕で久しぶりの甲子園に連れていってやるよ、という不遜なまでの自信ゆえに。レベルの高い関西地区だからこそ余計に燃える。
総白髪ですでに老境にある三枝監督と、スカウト兼任である梁田コーチとが揃って中辻家を訪問してきた際にはテツの両親も同席はしてくれたが、放任主義を標榜しているため息子の決定に口を挿むことはない。
とんとん拍子で話は進んだ。最終決定の前には、神戸市にまで出向いて高校とグラウンドの見学もさせてもらった。環境は充分に整っているのを確認し、「ここで三年間、野球に打ち込んでいく」と覚悟も決めた。
「寮生活? まあ、あんただったら一人暮らしでも大丈夫だろうし、寮ならなおさら問題なさそうねえ」
進路に対する母の反応はあっさりしたものだ。
父に至っては「ならこの家も売りに出すか」ととんでもないことを言いだした。
「おまえももう十五歳、一足早い自立を決めたわけだ。ならおれたちはしばらく海外でフィールドワークをやってこよう」
「想定より早いタイミングだったわねえ」
こうしてテツは帰る家を失い、香川県の郡部から神戸市へと拠点を移す。
宝丞学園ではまず三軍でのスタートとなった。新入生は一律で三軍へと振り分けられ、そこから有望な選手が引き上げられていく仕組みである。
ここでもテツは駆け上がっていく。めったにない飛び級で一軍へと昇格し、春季の兵庫県大会でのベンチ入りも認められた。
「先輩ら、大したことないしな」
内心でそのように考えていたテツだったが、きちんと結果を出し続けることで二年生と三年生にもその実力を認めさせた。
入学して間もない四月の段階でもはやチームに欠かせない戦力となり、唸りを上げる速球を武器にして久々の県大会制覇に大きく貢献する。
その余勢を駆った春季近畿大会でも、強豪校を撃破し四強入りを成し遂げた。宝丞学園が豪腕中辻徹大を中心にして回り始めたのは誰の目にも明らかだった。
「夏にはおれが背番号1や。誰にも譲らん」
言葉ではなく、投球でテツはそう主張したのだ。
しかし彼は気づいていなかった。豪速球の代償として忍び寄ってきている、大きな災いの影に。
夏の大会を見据え、五月六月になればどの強豪校も活発に練習試合を組む。この時点でテツの背番号は10、先輩たちを差し置いて二番手ピッチャーの位置までやってきた。後は練習試合でも実力差を見せつけ、エースの座を奪うのみ。
そんなテツの快進撃が止まったのは六月最初の日曜日だ。
いつものようにマウンド上で堂々と振る舞い、圧倒的な力でゲームを支配していた彼だったが、五回表の最初の打者相手に投じた一球ですべてが変わった。
何かがちぎれたような、嫌な音がした。それとともに激しい痛みも襲ってくる。
本来なら仁王立ちすべきマウンドでうずくまってしまったテツは、すぐに梁田コーチの車で病院へと連れていかれた。
診断の結果は重度の右肘内側側副靭帯損傷。医師へ何度も何度も聞き返し、ようやく現実であることを受け入れる。多大な負担のかかる速い球を投げ続けてきたせいとはいえ、まだ高校一年生になったばかりのテツにとっては、あまりにも無情な宣告というしかないだろう。
ただ安静にするだけの何もできない時間を経て、七月の上旬には日常生活をある程度は普通に送れるところまで回復した。重いものこそ持てないが、それ以外なら支障なく。けれども夏の大会へは間に合わない。当然だ。
もう少しで手が届きかけていた宝丞学園の背番号1は、もはや見えないほど遥か彼方へと消え去ってしまったのだ。
マウンドを追放された格好の彼にもはや居場所はない。実際はそうでないにせよ、少なくともテツ自身はそう思いこんでいた。チームメイトに知られないよう荷物をまとめ、練習の真っ最中である午後に彼は静かに寮を出た。
残してきたのは三枝監督宛ての書き置きと、一日たりとも手入れを欠かさなかった投手用のグローブ。もしも誰かが使ってくれるのであればそれで構わない。
テツにとっては目にするだけで辛い記憶が蘇ってしまうのだから。
◇
「今でもな、夜に寝ようとした拍子に、あんときの音が耳に響くんよ。ブチッってな。蜘蛛の糸で救いを得ようとしたカンダタの気持ちがようわかるわ」
時折麦茶で喉を潤しつつ、淡々とテツが語っていく。
そんな彼へおずおずと千鳥が訊ねてきた。
「もう怪我は治らないの? 二度と野球ができなくなっちゃったの?」
ここまで耳を傾けてきた彼女からすれば当然の質問だろう。
表情筋を歪めるようにしてテツも答える。
「野球は、できる。手術すればやけどな」
「だったら」
言い募ろうとする千鳥を手のひらで制し、先を続けた。
「詳しい話をすると、トミージョン手術ってのがあってやな。他の部位、主に手首あたりの腱を肘に移植して、靭帯を再生させる手術なんよ。プロ野球選手にもやっとる人多いわ」
「ならテツくんだって」
「術後、一年から一年半は実戦に戻れん。そんなことしてたら、おれの高校野球に残された時間なんてほとんどなくなってまう。せやろ? もちろん手術が上手くいくかの保証だってない。成功したところでリハビリ漬け、ひたすら暗い夜道を歩いていくような日々が待っとるわけや」
ここでテツは一拍置いた。
「早い話が、おれの心はあっさり折れた」
情けないことにたった一度の挫折でな、と自嘲気味に吐き捨てる。
誰よりも強くあろうとした。誰よりも速い球を投げようとした。
そんな自分が、突きつけられた己の弱さを直視することなく、すべてを懸けていた野球を捨てて逃げ出してしまうとは。
帰る家こそもうないが、祖父が壱ノ木島で漁師をしていたのは幸いだった。瀬戸内海の穏やかな波を見つめて心を癒し、今後の身の振り方をゆっくりと考えたかった。宝丞学園にはもう戻れない。
「さ、おれの話はこんなところや。しょうもなかったやろ?」
けれども千鳥は「ううん」と首を横に振る。
「わたしも、四年生のときからずっと合唱に打ち込んでいたの。もちろんテツくんみたいなすごい実績なんてないんだけど」
「へえ、音楽。ええやんええやん」
「合唱はね、みんなの声が揃う瞬間が最っ高に気持ちいいんだ。自分が自分じゃなくなるみたいな、どこかよその世界へ連れていかれる感じがして」
今も消えていない合唱への情熱を垣間見せた千鳥だったが、次の瞬間には俯きながら肩を落としてしまう。
「でも結局、わたしも逃げ出したんだよ。合唱から逃げて学校から逃げて、東京からも逃げてこんな小さい島にやってきちゃった」
「こんな小さい島、か。確かになーんもないけどな」
率直な千鳥の物言いに、思わずテツも苦笑いを浮かべた。
それでもわかったことが一つある。
「歌、まだ好きなんやろ? 本当は東京へ帰りたいんとちゃうの」
図星を指されたのだろう。テツからの問い掛けに、千鳥は弾かれたように顔を上げて彼を見た。
唇を噛み、聞きとりにくいほどの小声で彼女が呟く。
「結局さ、一度逃げたらもう戻れないよ。また同じ場所へ立つのに、今度は何倍もの勇気が必要になるんだもん」
言い終わるなり、千鳥はくしゅんくしゅんと盛大にくしゃみを連発した。




