壱ノ木島の歓迎会
千鳥の着替えは花純が用意してくれていた。
背の高い扇風機の目盛りを強に合わせてぶん回し、お気に入りの丸襟のシャツに袖を通す。地味なせいで「まるで制服みたいだね」と揶揄されることも多いが、彼女はこの服が好きなのだ。
蒸し暑い夏とはいえ、びしょ濡れになった体にはぬるめの湯が気持ちよかった。
シャワーのない風呂などこれまでの人生で見たことがなく、多少苦戦はした。やはり新しいものほど使いやすいようにできている気はする。
最後に髪を乾かすべくドライヤーを探すも、洗面台の周囲には見当たらないようだ。
どうしようか、と思い悩んでいるところへ花純がやってきた。
「着替え、それでよかった?」
「あ、はい。ありがとうございます」
慌てて頭を下げた千鳥だったが、ドライヤーについては切りだせない。
ところが花純の手にはまさにそのドライヤーが握られていた。
「ほらほら、あたしが乾かしてあげる」
「いや、でも」
「しばらく一緒に暮らすんだし、これもコミュニケーションだと思ってちょっとだけ付き合ってよ。ね?」
年上の女性からそこまで言われてしまえば、千鳥としても任せてしまうしかなかった。洗面所に置かれてある丸い椅子に腰掛け、花純へ身を委ねる。
「お客さーん、かゆいところはないですかー」
「え、あ、はい。だいじょぶです」
「ふふ。散髪屋さんの物真似だよう」
花純は朗らかに笑っている。
けれども千鳥にしてみれば、受け答えを間違えたような気がして仕方なかった。生真面目でつまらない、そんな自分が凝縮されていたように思えるのだ。
そんな姪っ子の葛藤など知る由もなく、花純は手際よくブラシで髪をとかしながら乾かしていく。
「よし、出来上がりっ」
最後に千鳥の肩をぽんと叩き、終了を宣言した。
父の妹、つまり叔母である花純とは年に一度会うかどうか、その程度の付き合いでしかなかった。なので千鳥も彼女がどういう人物なのかはよく知らない。
ドライヤーのコンセントを抜き、くるくると本体に巻きつけながら花純が言う。
「あとね、お昼ごはんの前に挨拶だけしてほしいんだ」
そう言われて千鳥は先ほど出会った男性二人の顔を思い浮かべた。老人と青年、いずれもがっちりとした体格の持ち主である。
だが彼女の見立ては違っていたらしい。
案内する花純は、二人の男たちが働くキッチンを素通りし、玄関付近にある和室へと足を踏み入れていった。もちろん千鳥もその後ろに続く。
日が陰っており、やや薄暗い分だけ過ごしやすい六畳間だった。
「よしずのおかげだね」と花純が説明してくれる。
和室の奥には立派な仏壇が鎮座しているが、おそらく千鳥の背丈よりも高い。
仏壇の前に正座しながら花純は言った。
「この人は南沢里紗さん、あたしの終生の恩人でさ。ここの家も里紗さんから受け継いだものなんだよ」
遺影には見るからに上品そうな年配の女性が映っていた。千鳥も叔母にならい、脇に控えて正座する。
丁寧に線香を上げた花純はそっと手を合わせて拝む。その一連の動作だけで、どれほど故人を慕っていたのかが伝わってきた。
千鳥も心の中で「しばらくの間、よろしくお願いします」と短く語りかける。
「じゃあ、お待ちかねのごはんだよっ」
うって変わって明るい調子となり、花純が勢いよく立ち上がった。
叔母のペースに流されっぱなしの千鳥ではあったが、だからといっていやな印象は受けていない。むしろ気持ちとしては楽なくらいだ。
六畳間から出ると、隣の居間へ次々に料理が運び込まれていた。廊下を横断してキッチンと居間を忙しなく往復しているのは先ほどの日に焼けた青年だった。
千鳥としては、彼と顔を合わせるのは何となく気まずい。初対面の際に間違いなく目が合ったはずなのに、猛然と顔を背けてしまったためだ。
どうしよう、ちゃんと謝っておいた方がいいのかな。
決めかねて悶々としている千鳥をよそに、当の青年は両手で大皿を持った格好のままで話し掛けてきた。
「おー、さっぱりしたなあ姪っ子ちゃん。もうすぐごはんやからなー」
「ちょっとテツさあ。その言い方、親戚のおっさんっぽい」
すぐさま花純から厳しい指摘が飛ぶ。
「弾けるような若さが足りないのよ、若さが。あんただってまだ高校生になったばっかりでしょうに」
「だはは。でもほんま、東京の子って感じやなあ。雰囲気が都会やわ」
二人の会話に圧倒されながら、千鳥は少し驚いていた。どう見たって目の前にいるテツという男の体つきは大人をも凌駕している。春までは中学生だったと言われても、にわかには信じられない。
大皿を居間のテーブルに置き、テツが先ほどと同様に笑みを浮かべた。目元にできた皺がやけに人懐っこそうに見える。外見の厳つさはあれど、もしかしたら話しかけやすい人なのかもしれない。
「もうすぐ全部揃うから、居間に座って待っときやー」
「あ、いえ、手伝いますので」
自分一人だけがお客さん扱いでいるのは、逆に居心地が悪い。
テツのような立派な体格ではないが、それでも千鳥にだって人数分のグラスを盆に乗せて運んだりはできる。
居間といっても仏壇の置かれていた六畳間と同じ和室だ。ただし畳の上に絨毯が敷かれており、角にはテレビも置いてあった。
たくさんの料理はすでにテーブル上を占拠している。刺身に天ぷら、煮つけ、それぞれが魚の種類の数だけ並んでいた。さらには汁物や炊き込みご飯まで。グラスを置くスペースもなかなか見つけられないほどであり、どちらかといえば小食の千鳥にとっては想像を絶する量だ。
「うんうん、壮観だね」
特に何の手伝いもしていない花純は、オーバーオールの前ポケットに手を突っ込んだまま、襖に軽くもたれて何度も頷いていた。これでは誰がこの家の主なのかわからない。
「突っ立っとらんとさっさと座れ」
叔母の後ろからやってきたのが、ずっとキッチンで黙々と作業していた白髪混じりの男性である。テツより小柄ではあるものの、体の厚みは引けを取らないほどだ。
「へいへい」
子供っぽく口を尖らせ、花純が入口近くにどすんと腰を下ろす。
彼女の隣に千鳥も座る。老人は二人の向かい側に陣取った。
最後に残ったテツは三本のビール瓶を左手の指に挟みつつ、もう片方の手で瓶用の栓抜きを持ってきた。
花純が訊ねてくる。
「ジュースの方がよかった?」
千鳥は首を横に振り、充分であることを伝える。気を遣ったわけではなく、実際にそうなのだ。甘ったるい飲み物を彼女は好まない。
大人組である花純と老人はビールを、千鳥とテツは麦茶を。
それぞれグラスに注ぎ終えれば乾杯だ。大人たちは決まってそうする。
周りの動きに合わせるよう、おずおずと千鳥もグラスを上へと掲げた。
「えー、このところ厳しい暑さが続いております。皆様におかれましては──」
率先して音頭を取った花純に対し、老人が「いらんいらん、そういう堅っ苦しいのはいらんやろ」と言い放つ。
「ほれ見い、ビールの泡が消えていっきょるわ。そもそも挨拶なんざ短ければ短いほどええけんの」
「ふん、あっそ。挨拶は短くても老い先は長くしてよね」
「こいつ、口だけは達者やの」
軽口を飛ばし合うあたり、花純と老人はずいぶん気安い間柄らしい。
この壱ノ木島は小さな島だ。当然、人間関係もすでに確立されている。そこに紛れ込んできたのが千鳥であり、島にとってはいわば異物だろう。
テツはどうなのか、まだわからない。この島の人間なのか、余所者なのか。
いずれにせよ、千鳥としてはここでも居場所を失いたくはなかった。
「茶々が入れられましたが、気を取り直しまして」
改めて花純がグラスを高々と掲げた。
「我々、世代も生活スタイルもばらばらな面子ですが、そういう人たちを繋げてくれるのが瀬戸内の島の魅力ではないでしょうか。そんなわけで──」
ここでいきなり、花純はグラスに入ったビールをぐいっと喉へ流し込む。
「ぶはっ、最高の夏にしようぜ! かんぱぁい!」
たぶん、千鳥が知る乾杯のやり方とは違う。
それでもこれが叔母である花純の流儀なのだ。彼女は自信を持って堂々と己のやり方を貫ける大人なのだ、と千鳥の目に映った。




