関西弁に染まった少年
舗装されていない細い道を軽トラックが走っていた。
ハンドルを握っているのは老人、助手席に座っているのは丸刈りから少し伸びた程度の短髪の少年である。二人に共通しているのは、ともに日焼けしていて、筋骨隆々の立派な体格であることだ。そのせいで車内空間はひどく狭い。
「ちょっとラジオつけるで」
そう言って少年こと中辻徹大は、カーラジオのチャンネルを合わせる。
すぐにお目当ての放送局を探し当てることができた。彼が聞きたかったのは、高校野球選手権大会の香川県予選だ。
隣の祖父、戎清三がちらりと視線を向けてくる。
「かまんのか、テツ」
「ちょっと気になっただけやから、ええねん」
テツの返事に対し、清三は「ふん」と鼻を鳴らした。
「ええねん、か。ほんの二、三か月ですっかり関西弁に染まってしもうたのぉ」
「はは。周りがみんな関西弁喋っとるし、しゃあないで。もし東京のガッコに行っとったら、今頃あれじゃんこれじゃん言うとるわ」
そこでテツはいったん言葉を切り、大きく息を吐く。
「まあ何のかんのいうて、おれも状況に流されやすいしょうもないやつやった、てだけの話やで」
祖父である清三は無表情のままで反応しない。
そこから二人の間に会話はなく、高校野球中継が流れているだけであったが、程なくして目的地へと到着した。
小高い丘の中腹にある、土と砂利のスペース。ここが駐車場だ。
手慣れたハンドルさばきで清三は車を停め、彼とともにテツも車外へと降りた。そのまま軽トラックの後方へと回りこみ、アオリと呼ばれる荷台の囲いを開く。
積まれていたのは、朝獲れの魚たちが入った発泡スチロール三箱分である。
「これ、全部運んでええんやんな?」
テツの問い掛けに対し、清三が「おう」と応じる。
「わかっとるやろうが、台車使って運べよテツ」
残ったやつはおれが手で運んでいくけん、と言われ、テツはあからさまに顔をしかめた。力仕事で他者に気を遣われたことなど、これまでの人生でただの一度もない。よく日に焼けた太い腕が泣いている気がした。
「あーあ、なっさけな」
どれだけ我が身の不甲斐なさを嘆こうと、これが今の現実である。
船上で締めたばかりの魚が詰まった発泡スチロールを台車に一箱だけ乗せ、駐車場の奥へと向かってごろごろと押していく。道の両側に綺麗に植わっている花々が案内板代わりだ。
周りを木々によって囲まれた、いかにも昭和時代の建物、と表現したくなるような家がすぐにテツの視界に入ってきた。和風と洋風の狭間のようなデザイン、各窓に備えつけられている重そうな雨戸、写真でしか見たことのない縁側まである。
「花純さーん、開けてー」
オリーブの木が植わっている玄関先で声を張った。しかし中からの返事はない。
大きな平屋建てだ、居場所によってはなかなか聞きとれないこともあるだろう。そう考えたテツは何度か呼び掛けてみたが、一向になしのつぶてだ。
「こら留守やな」
後から発泡スチロールを二箱抱えてやってきた祖父へもそのように伝える。
言外に「出直すか?」と問い掛けたつもりだったテツだが、祖父の清三は予想外の行動に出た。
「フェリーががいに遅れとるんかもしれんの」
そう口にしながら、勝手に玄関の引き戸を開いて入っていったのだ。
これにはさすがにテツも驚いた。
「おいおい、不法侵入やぞ」
「心配せんでええ。許可はもろとる。どうせ花純のやつは魚なんて捌けんからの、こっちで代わりに準備しとくだけじゃ」
「そやから施錠もしとらんかったんか……。なんぼ人の少ない島いうても、おれからしたら異文化すぎるわ」
ぼやきつつも、清三に続いて足を踏み入れるしかない。
「あのぉ、おじゃましまぁす」
主の伊庭花純が不在だというのは承知の上で、一応の礼儀として声を掛ける。
家に上がるのはテツとしても初めてだった。古い家特有の匂いがするが、もちろん不快ではない。あの甲子園球場だって百年を超える歴史があるのだ。
無作法にも足先だけでスリッパを拝借し、そのまま長い廊下を進む。
突き当たりの部屋にはなぜかブルーシートが敷かれているようだが、その手前右側がキッチンだ。
「用ができたら台所に呼ぶけん、ちょっとその辺におれ」
よっこらせ、と声に出しながら清三が発泡スチロールを床に下ろした。
テツも魚の捌き方くらいは教わっているが、祖父と比べるとその出来栄えは雲泥の差である。なので彼の役割は包丁以外の雑用だ。
ただその前に、どうしても奥の部屋を確認しておきたかった。室内にブルーシートを敷いている家などそうそうあるものではない。
「まさか床が抜けたとかとちゃうやろな」
そんなことを口にしながら、テツはこっそりと中を覗く。
非常に広い部屋だった。十二畳、いや十六畳くらいはあるだろうか。
おそらく二間続きの和室をリフォームしたと思われる空間には、家具の類は一切置かれていなかった。あるのはフローリングの床に敷かれたブルーシート、さらにその上に乗っかっている奇妙なオブジェだけだ。
「んん、何やこれ」
オブジェに近づいたテツはまじまじと眺めてみる。
膨大な数の針金を繋ぎ合わせて構成されたオブジェは、まるで立体の地形図のようだ。どこか規則正しいグラフのようにも見える。
針金オブジェの下、端の方には小さなラジカセも置かれてあった。もしかしたら何かの音楽を流す用なのだろうか。
興味を惹かれたテツが手を伸ばしかけた、そのときだった。
「おい、触ったらいかんぞ」
いつの間にかキッチンから清三がやってきていた。
「それは花純が制作中の作品や。来年の瀬戸内国際芸術祭に参加するらしいわ。さすがにおまえも知っとるやろ、瀬戸芸。現代アートの祭典じゃ」
「ああ、島ばっかりで三年に一度やっとるやつか」
「そうや。おまえ、いらんことして壊したらあいつに恨まれるけんの」
清三は重ねて釘を刺してくる。
「どこまで信用ないねん、おれ」
まるで小さな子供のような扱いであることに憮然としながらも、二週間前に初めて会った花純の顔を思い浮かべてみた。
快活でありながら都会っぽい雰囲気を漂わせているのに、なぜか小さめのメディシンボールを肌身離さず持っているあたりも印象的な人だ。都会では健康への意識がより高いのかもしれない。
いずれにせよテツからすれば、これまでの人生でまったく縁のなかったタイプの女性である。
「花純さんは現代アーティストかあ。それっぽいっちゃそれっぽいけど、何かさらに遠く感じるわ」
「そんなわけあるかい。ほんまの芸術っちゅうのは身近なもんなんや。他の島で暮らしとる外国人のアーティストとも知り合うたけどな、近所のじいさんばあさんも制作に参加しとったぞ」
「へえ、それはおもろそうやな」
「ちなみにわしも、ちょっとくらいは花純の作品を手伝ったりしとる」
少しだけ誇らしげな清三が珍しくて、テツとしてはからかいたい気持ちが湧く。
けれども彼が口を開くよりも先に、外から車のエンジン音が聞こえてきた。次の瞬間にも爆発してしまいそうな、えらくうるさい音だ。
清三は玄関の方を振り返りながら言った。
「お、やっと帰ってきたみたいやな」
「いやいやいや。めっちゃ壊れかけの音やぞ、あれ。あの人いったいどんな車に乗ってんねん」
「それがな、本人から聞いた話やと、五万円きっかりで買うた中古の車らしいわ」
しかもその業者は後で逮捕されとるらしい、と清三が腕組みをする。漁師になる前は警察勤めだっただけに、今でもその手の話題には敏感だ。
「五万って、自転車でもそれより高いのがざらにあるやろ。絶対あかんやつやん。動いとるんが不思議なくらいや」
テツとしてもあきれるより他なかった。
とはいえ、主不在の家に勝手に上がりこんでいる二人だ。ひとまず出迎えをしなければならない。
「花純も小学生の姪っ子を預かるそうやけん、ちゃんと気ぃ遣えよ」
「ほんならおれと似たような立場か」
テツが小さく肩を竦める。
「心配せんでええって。こう見えておれは紳士やぞ」
「自己申告ほどあてにならんもんはないわな。おまえの場合、とにかくガタイだけで子供が怖がるしの」
「六十の半ばを過ぎてみっちみちの筋肉しとる爺さんに言われたないわ」
やいのやいのと騒ぎながら、祖父と孫の二人は玄関のドアを開け放った。
少し先に、花々で彩られた道をやってきている花純の姿が見える。半袖の白いTシャツにオーバーオールという非常にラフな格好だ。それともう一人、小柄な少女も隣にいる。
だが少女の髪は濡れており、肩にも大きめのタオルが掛けられていた。
「あの子、海水浴でもしてきたんか?」
そんなテツの呟きが届いたわけではないだろうが、こちらの存在を認識した花純は突然声を張り上げる。
「あんたたちいいところに! お風呂沸かしてお風呂!」
しかしテツには、彼女の言葉が意図するところを理解できない。
「風呂を、沸かす……? お湯を入れるんじゃなくて? ここ銭湯なん?」
「まあ、おまえらの年代ではもうわからんやろ。昔はそういう風呂やったんや」
わしがやっとくけん、と清三が踵を返す。
一人玄関に取り残されたテツだったが、無意識のうちに視線が新たな島への来訪者へと向けられる。
俯き加減だった少女が顔を上げ、テツと目が合った。
つい今しがた清三から言い含められたばかりだ。もちろんテツとしても、これから夏の間に何度か顔を合わせる相手とは上手く付き合っていきたい。
なので精いっぱいの笑みを浮かべてみる。
その途端、少女はすごい勢いで顔ごと目を逸らしてしまった。




