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せとうちに眠る龍の夢  作者: 遊佐東吾


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千鳥と狸と瀬戸内海

 小型の旅客船が穏やかな瀬戸内海を航行している。

 目的地である壱ノ木島まで一時間程度の船旅を、伊庭千鳥は席に座ったまま静かに過ごしていた。出港当初からずっとだ。

 夏休みに入ったばかりとあって、家族連れの姿も少なくない。同い年くらいの子供がデッキではしゃいでいる声も聞こえてくるが、今の千鳥にそんな元気はなかった。

 もちろん睡魔に襲われているせいもある。昨夜は両親とともに高松市内のホテルに宿泊したのだが、やはり慣れない場所では寝つきも悪い。


「どうしてこうなっちゃったんだろ」


 背もたれに体を預けながら独り言を口にした。

 港で千鳥を見送ってくれた両親は、揃って「いい機会だからいろいろと体験しておいで」などと言う。


「ほら、壱ノ木島には桃太郎がいたって話も伝わってるそうじゃない。桃太郎よ桃太郎、昔ばなしのスターよ」


「岡山をはじめ、瀬戸内にはそうした伝承も多いからなあ」


 母も父も、千鳥のことを何もわかっていないのだ。

 お伽噺が身近にあるからといって喜ぶ年齢ではないし、そもそもそういう時代でもないだろう。

 夏の間、千鳥は壱ノ木島で暮らす叔母の世話になる予定だった。叔母の名は伊庭花純、年は離れているが父の妹だ。島民が百人いるかどうかの島へ移住した人なのだから、結構な変わり者といっていい。

 東京で生まれ、東京で育った千鳥にとっては、はるか西の瀬戸内海に浮かぶ小島など、ある意味異世界のようなものだ。

 現在、航路はちょうど半分くらいのところまでやってきている。まだもうしばらくはこの退屈な時間が続くらしい。


「本当なら今頃……みんなと歌ってたはずなのに」


 うつらうつらとしながら、後にしてきたはずの小学校のことを思い出している。

 居場所を失うのはこんなにもあっけないものなのか、と悔やんでも、こんな遠い地まで来てしまっていてはどうにもならない。

 自然と目の中に涙が溜まってきた。他の人に見られたくなくて、ぎゅっと力を入れて目を瞑ると、逆に涙は筋となり頬を伝って落ちた。

 いつの間にか千鳥は微睡んでいたらしい。

 気づけば窓の外は夜のように真っ暗で、天候も随分と荒れ模様だ。稲光だって確認できる。天気予報では晴天だったはずなのに。

 少し自信なさげに彼女は呟いた。


「寝すぎて夜になったり、してないよね?」


 鞄からスマートフォンを取り出して時計を確認する。電波は圏外だが、表示されている時刻は午前九時四十五分。大丈夫、何も問題ない。

 天気こそひどい状況になっているものの、あと十五分もすれば壱ノ木島に着く。

 そう自分に言い聞かせていた千鳥だったが、内心では不安で仕方なかった。

 あまりにフロアが静かすぎるのだ。元気な子供どころか誰の声も、息遣いさえも千鳥の耳に届いてこない。生の気配が感じられずにいた。


「うう、パパ……ママ……」


 体を縮こまらせ、祈るようにして両手を固く握る。

 だがそんなときだった。千鳥の座るシートの脇を、猫が二足歩行で走り抜けていったのだ。ありえない光景である。


「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ。このままやったら屋島に帰れんようになってしまうんやけどどうしよか」


 やけに慌てている様子で、通路を行ったり来たり。

 こっちの猫は喋ることができるんだろうか、と千鳥も一瞬疑いかけたが、すぐに考え直す。そんなはずはない。

 ならこの生き物はいったい何なのだろう。

 そんな素朴な疑問が千鳥を動かした。


「ねえねえ、猫さん」


 前の座席につかまりながら立ち上がり、わかりやすいように手まで振る。猫と呼んだのはあくまで便宜上だ。

 猫らしき生き物はよほど驚いたのか、綺麗に両足を揃えて跳び上がった。

 それからおそるおそるこちらへと振り返る。


「わわっ、動いとる人がおった!」


「そりゃ動くよ、みんな。生きているんだしさ」


 そう口にしつつも、千鳥は周囲を確認してみた。先ほどからどうにも胸がざわざわして仕方ない。

 彼女の心配はすぐに的中してしまう。歩いている人も立ち上がっている人も、おしゃべりをしている人さえも見つけられなかった。誰もが席から離れず、物音一つ立てることなく同じ姿勢のままで座り続けていた。

 明らかにおかしい。時間が止まっているかのようだ。


「うそ……。寝ている間にわたし、変な世界にでも迷い込んだの?」


「まあ、けっこういい線やね」


 千鳥の存在に慣れてきたらしく、猫っぽい生き物は普通に話しかけてきた。


「あとぼく、猫やないよ。狸やけん」


「そうなの? 可愛いからつい、猫かなって」


「あのねえ、狸だって可愛いの。ちゃんと覚えといて」


「はーい」


 猫ではなく狸なのだそうだが、千鳥からすればどちらにせよ愛らしいことに変わりはない。心細いよりは不思議な方がましでもある。なのでもうちょっとだけでもこの狸と会話していたかった。


「わたしの名前はチドリ。狸さんのお名前は?」


 ついでに「これどうぞ」とパッキングされたお菓子を渡す。金塊を模して薄い長方形に作られたフィナンシェだ。

 千鳥の大好きなお菓子だから、ということで親が買ってきてくれたものだった。前日に百貨店の行列にわざわざ並んで、である。これをもらって喜ばない人はいない、と彼女は心から信じていた。


「なんこれ。見たことのないお菓子やなあ」


 そう言いながら狸は包んでいる袋を器用に破り、中身を取り出す。

 くんくん、とひとしきり匂いを嗅いでからぱくりと齧りついた。

 その瞬間「うっま!」と狸が叫んだ。よほど美味しかったのだろう、三口ほどで一気に食べ尽くしてしまう。名残り惜しそうに袋を覗きこんでいるが、もちろん空っぽのままだった。

 想定していた通りの反応に、千鳥としても気分はいい。懐柔作戦成功である。

 にこやかに頷きつつ再度訊ねてみた。


「で、お名前は?」


「えーと、ぼくはねえ──」


 つられて答えそうになっていた狸だが、いきなり我に返ったかのように地団駄を踏み出す。


「もう、こんなお喋りしとる場合やなかった! 急がないかんけん!」


 器用に前足の部分を振り上げながら狸が熱弁を振るう。


「チドリ、悠長にはしとれんよ。きみやってこのまま〈龍の夢〉から出られんなったら困るやろ? ほら、外で一緒に灯台探そ」


「〈龍の夢〉……? 灯台……?」


 思わず千鳥も首を傾げてしまう。

 狸の口にしている単語がまるで理解できない。今の時代、船の航路はあらかじめ決まっているものだし、素人の子供が口出しできる領分ではないはずだ。

 しかしそんな彼女の様子に狸は業を煮やしたらしく、「ええけんこっち来て!」と強引に腕を引っ張ってきた。


「ちょっと狸さん、痛いって」


 無理やりデッキへと連れてこられた千鳥だったが、外へ出てみれば状況の異様さがよくわかる。

 ドアを開けて外へ出た瞬間に全身がずぶ濡れになるほどの強い雨と風、大きな雨粒が激しく叩きつけてきて痛みさえ感じる。そして同時に何本も発生している稲光。まるでこの世の終わりみたいな光景だ。

 けれども狸はこの悪天候を物ともせず、千鳥から手を放して駆けだし、デッキに設けられてある手すりへと飛びついた。


「危ないよ!」


 風雨に負けないよう千鳥も精いっぱい声を張ったが、直後に揺れる船のせいで体勢を崩してしまう。

 転倒し、なす術なくデッキを滑っていく彼女に狸も気づいたようだった。


「チドリ、待っててや!」


 果敢にも手すりを蹴って、狸が一目散に千鳥へと飛んでくる。ぶつかった一人と一匹は向きを変えてもつれ合い、そのままキャビンの壁に衝突した。

 勇気ある狸の行動のおかげで、千鳥は事なきを得た。荒れている海へと落ちずに済んだのだ。

 上半身を起こして「ありがとうね、狸さん」と口にした彼女だったが、その視線の先では別のものを捉えていた。


「あれ……灯台じゃないの?」


 確かに見える。夜の世界にぼんやりと浮かび上がった、光を放つ白い灯台が。

 これには狸も大喜びだ。


「やったー! これでやっと〈龍の夢〉から抜けられるー!」


 相変わらず〈龍の夢〉が意味するところはわからなかったが、千鳥としてもこんな異空間からは早く抜け出したかった。

 濡れ鼠になったせいで、ひどく体が寒い。倦怠感もどっと出てきた。

 今すぐ家に帰って温かいシャワーを浴びたいな、と思っているうちに、自然と眠気に襲われ目蓋が閉じてきてしまった。

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