野球やろうか
千鳥の目ははるか昔に神域を訪れていたモモと重なり合い、人型となった龍の神と鬼ごっこを繰り広げているイチを見ていた。
すでにモモは力尽きている。
体力に関しては「化け物よりも化け物さ!」と自任していた彼女なのに、神であるリュウどころか、鬼のイチにも遠く及ばない。情けない話だ。
今はただ海藻のような樹に体を預け、リュウとイチの一騎打ちを、視界がかすんだ瞳で見守るのみ。
「そろそろ決着かな」
舞踏のごとき足さばきを片時も休めることなくリュウが言った。
当然、鬼といえどもイチの体力にも限界が近づいている。どれほど接近してもリュウに紙一重でかわされ続け、途方もない時間を費やしていた。もちろん神域に時間の流れなどないのだろうが。
先ほどまではモモだって加わっていたのだ。現世の強者二人を相手取ってなお、リュウには明らかに余裕がある。さすがは神、と形容するより他なかった。
「頑張れ……イチ、頑張れ」
いつものような大きな声はもう出せない。きっとイチの耳にだって届いていないはずだ。それでもモモは、今できるたった一つのことをやるだけだった。
そんな彼女の視線の先で、イチの足が極度の疲労によってふらついてしまう。つんのめったイチは顔から地面へ落ちそうだ。
勝負あった、とはモモは思わない。
災い転じて福となせ。イチなら、いやイチだからこそそれができるはずだ。
友を心の底から信じ抜いているからこそ、何者にも祈りを捧げることなく、モモは最後の戦いをじっと見つめていた。
◇
「ほう、野球」
テツの提案に対し、セトウチの反応は好意的といってよかった。
「知ってはいるぞ、テツよ。いくつもの大きな球場が我の近くにあったな」
「そうやなあ。甲子園に大阪ドーム、マツダスタジアム。プロ球団の本拠地やなくても、倉敷のマスカットスタジアムや松山の坊っちゃんスタジアムあたりも立派な球場やで」
後者の二球場でならテツもプレー経験がある。
ここでセトウチはなぜか少し目を瞑った。
「なるほど。投手と呼ばれる者が球を投げ、打者と呼ばれる者が来た球を打つ。順番に九人か。面白そうではないか」
「さすがに神、何でもありやな」
目を閉じただけで現世の情報を確認したらしきセトウチに、さすがにテツも肩を竦めるしかない。
「納得してくれたんやったら、一打席のみの野球勝負でええか?」
「無論、かまわぬよ」
二度続けて鬼ごっこでは芸がなかったようだ、とセトウチが勝手に反省している。
ただしテツとしては、少しでも勝てる確率の高い遊戯を選んだだけだ。おそらく野球以外では勝負にさえならないだろう。
そして野球じゃなければ悔いが残る。もしかしたら自分はこのときのために野球をしてきたのかもしれない、とまで感じていた。
しかし傍らの千鳥が心配そうな表情で見上げてきた。
「でもテツくん、肘が」
その後を続けなかったのは彼女の気遣いだろう。
「それがなあ、ここへ来てから何となく投げられそうな気がするんやわ」
イチが助けてくれとるんかもな、とテツは右肘をさすっている。
これは本当の話だ。神域にやってきてからというもの、鬼のイチが時を超えて乗り移ったかのように、体中に力が漲っているのを感じていた。
「ごめんね。わたし、テツくんを応援することしかできなくて」
俯いたままの千鳥の髪に、テツは手のひらをそっと乗せた。
「野球やっとるやつが、どれだけ応援に背中を押されとるか。一生懸命応援してくれる人たちがおるからこそ、おれらは最後の一滴まで力を振り絞れるんやで」
そしてぽんぽん、と彼女の頭に触れてから、再びセトウチと相対する。
「待たせたなあ。じゃ、野球やろうか」
セトウチは目力だけで応じてみせた。
「では、舞台を拵えよう」
その言葉とともにセトウチがどこからか取り出したのは、何の変哲もない木の枝だ。けれどもここは神域、そんなはずがない。
案の定、木の枝をさっと一振りしただけで周囲の空間が拡張していく。扇形のスペースに四つのベースとマウンドが生まれ、内野は土で埋められる。外野には芝生が敷き詰められ、最後に白いラインが引かれていった。
あっという間に野球場の誕生である。
球場と外とを海藻の樹で区切っているところなどは、テツの好きな映画を想起させた。あちらはトウモロコシ畑の中の球場だが。
今、テツと千鳥が立っているのはネクストバッターズサークルあたりだ。
「おお、『フィールド・オブ・ドリームス』みたいや」
「気に入ってもらえたかな?」
「もちろん。全身をアドレナリンが駆け巡りだしたわ」
テツの返答にセトウチも満足したようだ。
「なら、次は装いだ」
またしても木の枝を振る。今度はテツの服装が着慣れた宝丞学園のユニフォーム姿へと変わり、左手にはグローブ、足元にはスパイクと揃う。
「至れり尽くせりやなあ。ここまでしてもろてええんやろか」
「遊びは互いが拮抗していなければつまらんだろう?」
あとは球と打つための棒で仕上げだな、とセトウチが言った。
「打つための棒て。ボールとバットな」
「そんな名だったか。覚えておくとしよう」
彼がそう口にしている間に、先ほどの木の枝がバットへと変わる。
「これは〈蓬莱の玉の枝〉でな。バットにするには最適だろう」
「あの枝、三つめの宝具やったんか……。どうりでおかしな力を備えているわけだわ」
「さて、残るはボールだが」
ちょっと借りるぞ、とセトウチが言うなり、テツの腰に結わえていた〈龍の頸の玉〉が勝手に吸い寄せられていく。
「質感だけでなく赤い糸での縫い目も、きちんと再現しなくてはな」
セトウチの手元で、〈龍の頸の玉〉は白球へと形を変えた。そのボールを無造作にテツへと投げて寄越す。
「テツ、おまえが投手でよいか」
「もちろん。ただ、このボールを使うんは危ないやろ」
玉の中は龍宮城で手に入れた〈時隠しの紫煙〉で満たされているはずだ。そんなものを野球のボールとして使用するなど、正気の沙汰ではないだろう。
にもかかわらず、セトウチに撤回の意思はなさそうだった。
「なあに、破れて漏れ出たりなどはせぬよ。だが遊びに危険は付き物だ。今からの勝負に敗れた方が、その紫煙を浴びるくらいの覚悟でいいではないか」
「つまり罰ゲームを付け足そう、そういうことやな」
神の前では、テツに何かを決定できる権利などない。
危険な罰ゲームを呑めと言われれば、そのまま呑むしか選択肢はない。
「ええよ」
短い言葉で応じ、右肩を回しながらマウンドへと向かっていく。ずいぶん肩が軽い。投球練習をせずともエンジン全開で投げられそうだ。
「テツくん!」
いつもの千鳥らしからぬ大きな声である。
「わたしには応援するしかできない! だから精いっぱい応援する! 頑張って、勝って、みんなのところへ一緒に帰ろう!」
その声援はもはや絶叫だった。
これにはテツも内心で「大事な喉を痛めたらあかんよ」と彼女に忠告する。セトウチに勝てれば、再び千鳥の前に未来が拓かれるのだから。
ようやくテツはマウンドに立った。およそ二か月ぶりのマウンドだ。
踏み出した足が着地するあたりをスパイクの歯で丁寧に掘り、万全を期す。
「ここからの眺めがええんよなあ」
そう呟いたテツは、右の拳で胸を軽く叩く。彼なりのルーティンである。
バットを握ったセトウチがバッターボックスに入ってきたが、意外にも左打席だ。そのまま二度、三度と動きを確認するような素振りをした。
実に素人くさいスイングだぞ、とテツはこっそりほくそ笑む。仮にセトウチがどれだけ並外れたパワーを有していようと、その力を当たったボールへ上手く伝えられるかどうかは技術なのだ。
「あとキャッチャーが……いや、出現したわ」
捕手だけでなく、内外野の守備陣も、球審と塁審までもが突然姿を現した。ただしどう見ても人形のような容貌だが。
「ま、今さら驚きもせんわ。ほな始めよか」
「楽しみだ」
セトウチがぎこちなくバットを構えた。
それを合図として、人形の球審が「プレイ!」と宣告する。
テツはゆったりと両腕を上げ、ワインドアップモーションに入った。大きく振りかぶるそのモーションは、かつては速球派投手の代名詞でもあった。
現在では絶滅危惧種のような扱いだが、テツは好んで使う。
彼が選択した初球はやはりストレート。打者セトウチの内角低めへの、糸を引くような直球は豪腕中辻徹大の面目躍如だ。
セトウチのバットの始動は遅く、テツの速球へまったくタイミングが合っていなかった。
球審から「ストライク!」のコールが上がる。ずっと声援を送り続けてくれている千鳥も飛び跳ねて喜んでいた。
ふむ、と打席内でセトウチが考えこむ。
「投手が投げるボールとは、こんなにも速いものなのだな」
「ありがとさん。褒め言葉として受け取っとくわ」
人形捕手からの返球を受け、テツは帽子のつばに手をやった。敬意を表す簡単なジェスチャーだ。
続く第二球もストレートを選ぶ。先ほどのセトウチのスイングを見るかぎり、テツの速球へタイミングはまったく合っていない。ならばここは強気で押すしかないだろう、というのがテツの方針だった。
今度のコースは外角低め、先ほどの内角の後ではずいぶん遠くに感じるはずだ。
しかしテツが投じたストレートに対し、今度はセトウチもバットを合わせてきた。たったの一球だけでフォームも様になっている。
カアン、と快音を残して捉えた打球が三塁線へと飛ぶ。わずかにラインの外側、ファウルだ。真芯ではなくバットのやや先端寄りだったのが幸いした。
「なるほど。今のタイミングでも振り遅れになるのだな。テツよ、やはり其方は素晴らしい投手のようだ」
またしても称賛の言葉を口にしたセトウチだったが、今度はテツに受け止める余裕がなくなってきている。想定していたよりはるかに順応が早いのだ。
野球を知る者/知らない者という、テツにとっての唯一のアドバンテージが、この二球でほとんど消えてしまったとなれば無理もない。
ひたすら速球で押す、という戦略がこれで取りにくくなってしまった。
ならば、と彼は三球目で目先を変えることにする。投げるのはチェンジアップ、スピードが遅く緩急差をつけられる上に、打者の手元で少し沈む変化球だ。
「落ち着け。カウントは投手有利や」
自分自身にそう言い聞かせ、まったく同じ腕の振りから外角へチェンジアップを投げ込んでいった。
だがややコースが甘い。やや内側、真ん中寄りに入ってしまう。
加えてセトウチのバットはまだ出てこない。逸らずに堪えているのだ。
「やば」
思わずテツの口から呟きが漏れる。
セトウチが豪快に振り抜き、ライト方向への打球は最も飛距離の出る角度で上がった。
「切れろ切れろ切れろ切れろ」
フェアか、ファウルか。もしフェアならば文句なしのホームランとなり、勝負が決してしまう。テツはひたすらファウルになることを願い続けた。
打球の行方を見届け、一塁塁審が両手を肩より高く掲げる。
「ファウル!」
ライトポールのわずかに右、ファウルボールだ。すんでのところで命拾いした。マウンド上で腰を割り、膝に手をやって「ぷふうー」と大きく息を吐く。
セトウチはといえば、会心の打球がファウルと判定されても平然としている。そんな態度もすでにスラッガーの風格だ。
この三球目でテツも確信した。次の一球が勝利への最後のチャンスだ。このペースでセトウチに成長されてしまえば、いずれ投球の組み立てになど何の意味もなくなってしまう。
勝っても負けても、次でラストのボールになる。
テツは深呼吸をし、顔を上げた。千鳥の声援が久しぶりに聞こえた気がする。やはり余裕を失っていたらしい。
「ここまで痺れる勝負は初めてやなあ」
あえて声に出してみる。
もしもここが甲子園だったら、と想像もしてみた。
九回裏、相手チーム最後の攻撃、一打逆転のピンチ。そして打席に立つのは、高校野球の長い歴史においても最強と目されているバッター。
そんなん最高すぎるやないか、とテツは笑った。
今、この瞬間に自分の投手人生のすべてを捧げなければ。
セトウチが打席でバットを構える。どこにも隙がなく、一球目のときとは雲泥の差だ。
相手にとって不足なし。大きく振りかぶりながらもテツは、全身の隅々にまで神経を行き届かせる。
無駄な力は入っていない。ボールの縫い目への指の掛かり具合まで、これまでにないほどはっきりと認識できる。
そして彼が投じたのは真ん中高めのストレート。真っ向勝負だ。
右腕を振り抜いた後、セトウチの動きがスローモーションのように見える。そのバットはボールのわずかに下、まさに紙一重で空を切った。
三振である。空振りによるストライク・バッター・アウトだ。
「やったやった、テツくんやったー!」
めちゃくちゃなステップを踏んで喜びを表現しながら、千鳥がマウンドまでやってくる。
「勝ったよ勝ったよ、勝ったんだよ!」
「嘘みたいやなあ」
自分のことながらにわかには信じられず、テツは放心してマウンドに座り込んでしまっていた。
そんな彼の下へ、敗れたセトウチも歩み寄ってきた。満面の笑みを浮かべて。
「やはり其方はあのイチと同じだな。劣勢に陥っても、最後に我の想像を超えてきた。本当に素晴らしかったぞ」
イチが鬼ごっこでどうやって勝利したのか、すでにテツも知っている。
前のめりの体勢で倒れそうになり、万事休すかに思われたイチだったが、彼は最後の力を振り絞って両腕で踏ん張った。そして鬼ならではの膂力で地面を腕で蹴り、龍の神たるリュウ目掛けて飛び出していったのだ。
結果、イチは逃げようとするリュウの足の爪先に触れた。
「其方たちの勝ちだ。ああ、何と楽しい遊びの時間だったことか。よろしい、この気分のまま我は再び長い眠りにつくこととしよう」
だがその前に、とボールを握ってセトウチが言う。
「約束だ。敗者たる我が、紫煙を浴びておかねばな」
どうやら律儀に罰ゲームを遂行する腹積もりらしい。
「いらんいらん、そんなんいらん」
慌ててテツは止めに入った。
「セトウチ、おれも千鳥もあんたにそんなこと望んどらんで」
「なに、百年や千年くらい老いた方が眠りにもつきやすくなるだろう。其方らにとっては悪いことではないはずだが」
「あかんって。おれらはすでに〈龍の夢〉に生きるたくさんの連中と知り合うとる。あいつらに迷惑が掛かるのは避けたいんや」
「ふふ、おまえは優しいな。そこまで言われては仕方ない」
思い止まってくれたらしいセトウチが、今度は指先でボールを回転させている。
「とはいえ、この玉はすでに人の世へ与えたものだ。紫煙のような中身が入っていては使えぬであろうな」
そう言ってセトウチはいきなり煙を解き放つ。龍宮城の宝である〈時隠しの紫煙〉、あの浦島太郎をあっという間に老いさせた煙だ。
「案ずるな。そこで見ておれ」
セトウチが指を一振りすれば、紫煙は輪になって宙へ広がった。そのまま周囲の海藻の樹と重なり合い、すべての樹が薄い紫色へと変わっていく。
この光景にセトウチは満足そうだ。
「どうだ、まるで紫雲出山のようであろう」
そう告げられても、テツにはどこのことを指しているのかがわからない。千鳥も首を横に振っている。
「はっは、まだ足を運んでおらぬか。其方たちがやってきた荘内半島に位置する、春には桜が美しく咲く山だ。浦島なる者が龍宮城より帰還した際、持ち帰った玉手箱の煙によって山が紫色の煙に包まれたのだぞ」
説明とともにセトウチは、マンホールほどの大きさの渦を作りだす。
「この渦を通れば、友である狸と亀の待つ場所へ戻れよう」
「じゃあセトウチ、あんたは」
「ああ、そうだ。我はこれから眠りにつく。長らく神域への道も閉ざされてしまうだろう。だが其方たちの行く末はこの海とともに見守っておるぞ」
二人とも壮健であれ、とセトウチが告げる。
テツと千鳥は無言のまま、泡沫の体を持った龍の神へ深々と頭を下げた。




