神域の記憶
住人不在の龍宮城から去り、千鳥たちはまた海での探索を行うつもりだった。〈仏の御石の鉢〉で見たモモとイチの映像でも、海の向こうの奇妙な歪みに、神域の入口があったためだ。
「この海、おかしないか?」
まだ荒れた海へと出る前にテツが指摘する。
千鳥も同じことを感じていたが、そのことに対して亀道丸が推論を語ってくれた。
「こいつぁもしかして、兄弟たち。誘われてンじゃねえのかい?」
通常、波は沖の彼方から陸地へと押し寄せてくる。その逆はないはずだ。
だが現に千鳥の目の前では、海の流れが明らかに沖へと向かっていた。
「ならここは誘いに乗るべき、かな」
千鳥が言えば、テツも「虎穴に入らずんば虎子を得ず、やな」と返してくる。
元の可愛らしい狸の姿に戻った茶がまは、すでに亀道丸の甲羅に乗って準備万端だ。
「はよ行こ。龍の神さまもきっと待ちくたびれとるで」
「そらそうや。あんまり待たせたらあかんよな」
テツが不敵に笑う。
龍宮城へやってきたときと同様、亀道丸の背にテツと千鳥、そして茶がまが乗って〈龍の夢〉の海へ、そして彼方に存在するであろう神域へと進んでいく。
亀道丸が海面を泳ぐスピードは尋常なものではないが、そこに波の流れも加われば危険と言う他ない。
流れの果てまで到達するのはあっという間だった。
「歪んでる……てのとは、ちょっと違うよね」
事前に想定していたのとは、まるで異なる光景が千鳥の眼前に広がっている。
海に大きな穴が開いていた。その穴へ向かって全方位から海の水が流れ込み、滝のように下へ下へと流れ落ちていく。ただ、下に何があるのかは肉眼で一切確認できない。
「まあ、物理法則を無視しとるってのは一緒やけどな。相変わらず何もかもがデタラメで異様な世界や」
不思議なことに、穴の縁まで近づいてしまえばもう流されはしなかった。ただ水だけが海の下へと落ちていくだけである。
そんな中、身を寄せ合っていた茶がまの体が震えているのに千鳥は気づく。
「どうしたの、茶がま」
しかしいつもの茶がまらしくはなく、何も答えようとしない。全身の毛を逆立て、必死に体を丸めようとしている。
「怖えよナ、小さい兄弟。おれっちもそうさ。さっきから全身がぶるっちまってるヨ」
亀道丸の甲羅も、小刻みではあったが震えていた。
千鳥はカフェでの話し合いの際、太三郎が口にしていたことを思い出す。〈龍の夢〉で生まれた存在である妖たちは、龍の神に近づくことさえできない。太三郎は確かにそう言っていたのだ。
「やっぱり行けそうなんは、おれと千鳥だけみたいやな」
テツの言葉に千鳥も「そうだね」と同意する。ここから先は太三郎の見解通り、人間であるからこそ足を踏み入れられる領域なのだ。
「でもテツくん、どうやって行くの?」
「そらまあ、飛び降りなあかんのとちゃう?」
「やっぱり……」
選択肢が一つしかないことくらい、千鳥だってわかっていた。念のために確認しておきたかっただけだ。
千鳥とテツが並んで穴の縁、そのぎりぎりに立つ。
「うう、高い……」
「おれはどっちかといや、どこにも着地せずにずっと落ち続けるんちゃうかなって」
「やだ、永遠のフリーフォールなんて最悪じゃん」
「そのうち慣れてきて、平気で寝られるようになるかもやで」
「だったら傘とかこの辺に置いてないかな。『メリー・ポピンズ』みたいな感じで、ふわふわ落ちていけそうだし」
「そんなわけあるかい。裏返って即おしまいや」
なかなか踏ん切りのつかない二人が、愚にもつかない内容を話し合っていた。
そんな千鳥たちの後ろから声が掛けられる。
「なあ兄弟に嬢ちゃん、最後に一つだけ言っておきたいんだけどヨ」
茶がまを背に乗せた亀道丸だ。
「さっきの〈時隠しの紫煙〉、使わずに済むならそれに越したことはねえけどサ。現世がやべえってンなら、迷わず使っちまいナ」
「ん? 使うたら何かマズかったりするんか?」
テツからの問い掛けに亀道丸は少し言い淀んだが、ややあって口を開いた。
「ここは〈龍の夢〉。すなわち龍の神さまの老いや死が、そのままこの夢の世界へ直結しちまうのヨ」
ちょっと考えてみればすぐに理解できたことだ。
今さらながらに千鳥は、自分たちがやろうとしている選択の重さを突きつけられ、唇を強く噛みしめてしまう。
「じゃあ何で協力したのか、ってツラしてんナ。そんなの、おれっちも乙姫サマも、みんな現世を気に入ってるからってだけサ。あの美しい世界が滅びて、こっちの奇妙な世界だけが生き残ったって仕方ねえのヨ」
「美しい世界、か」
そう言ってテツが〈龍の頸の玉〉に触れた。龍宮城でもらった風呂敷に包んで、落としてしまわないようパンツのベルトループに結わえている。
「わかった。紫の煙は極力使わん、そやけどぎりぎりまで追い詰められたらどうするかわからん。これでどうや、亀道丸」
「使う、とは言わねえんだナ。律儀だねエ」
兄弟のそこが気に入ったんだがヨ、と亀道丸は笑った。
テツも軽く手を上げて応える。
「じゃ、行ってくるわ」
「行ってくるね」
千鳥はぶるぶる震えている茶がまへ手を振り、自分の心が揺れてしまわないように再び前を向いた。この穴がどういうものであれ、飛び込むしか道はない。
テツと目配せを交わし、頷き合う。
「いっせーの」
せっ、で揃って穴へと跳んだ。
◇
どれくらいの間だったのか、意識が途切れていた。
「わたし、今どこにいる?」
気がついた千鳥は慌てて周囲を確認する。白い砂の上、色とりどりの樹木のようにも見える背の高い海草、そして水なのか空気なのかも判然としない空間。ただ一つだけ確かなのは、明るい夜ではないことだった。つまりここは〈龍の夢〉ではない。
隣にはテツが立っていたが、彼の目はまるで焦点が合っていなかった。どうやらまだ意識が戻っていないようだ。
「ごめん、テツくん」
えい、と気合を入れて千鳥は彼の脇腹へパンチを見舞う。腹筋が硬すぎる。
「いったあ……」
思わず右手の甲をさすってしまうほどだったが、その甲斐はあった。
「うお! 何やここ……って神域か」
「寝ぼすけテツくん、おはようさん」
千鳥がからかうと、テツはこめかみをぐりぐりと押しだした。
「えっと、モモやなくて、千鳥やんな。で、おれは中辻徹大十五歳」
「うん、合ってる。イチさんじゃないよ」
決死の覚悟でやってきたはずの神域なのに、初めての場所ではなくなっていた。この地で意識を取り戻した瞬間から、千鳥の記憶の中にはモモの記憶が混ざり合っていたのだ。
テツも同様らしく、イチの記憶と折り合いをつけている最中なのだろう。
モモとイチ、おそらくは有史以来初めて龍の神域を訪れた者たち。
二人が神域で体験した一部始終を、そして人生のすべてをたった今、千鳥とテツはまるで自身の記憶も同然に理解していた。
「やあ、久しいな」
頭上からの声だ。やけに落ち着いていて、どこまでも響いていきそうなハイバリトンの声。
彼、と呼んでしまっていいのかどうかはわからないが、声の主は珊瑚に似た朱色の樹の天辺に、体重を感じさせることなく腰掛けていた。
その声の主が静かに白い砂の上へと降り立つ。全裸であった。
「客人と会うときはこの格好でね。失礼があれば許せ」
妖とも人とも違う存在なのが、一目見ただけではっきりと伝わってくる。
人のような肌と鈍く光る鱗の肌とが斑になっており、色素の薄い緑色である長い髪は緩やかに波打っていた。
千鳥は彼を既に知っている。神域に顕現した龍の神、いわば化身だ。ただしこれはモモによる解釈なので、現代人の千鳥からすれば「アバターだ」と考えた方がわかりやすい。
「約束通り、また遊びに来てくれたのだな」
「そういうことになるんすかね、龍の神さま」
臆することなくテツが答えた。
ただしその際の言葉遣いが、神たる鱗の人には気に入らなかったようだ。
「慣れぬ敬語はよせ。誰とでも対等でありたい、というのが其方の流儀なのだろう、テツよ」
「ならお言葉に甘えてそうさせてもらおか。まずあんたの名前、教えてくれへん?」
「そうか、人は名を付けるのだったな」
遠くを見つめるような眼差しで、彼は言う。
「モモとイチは、我のことを『リュウ』と呼んだ」
「そうやったわ。安直すぎるやろ、あの人ら」
こういった遠慮のなさはいつものテツだ。
「ふふ、其方らも好きに呼べばいい。狸の茶がまもそうしたのであろう?」
まさかこの場で茶がまの名前が出てくるとは、千鳥としてはほんのわずかにも予測していなかった。
「全部お見通しなんだ……」
つい口から漏れてしまった感想を、神たる鱗の人は聞き逃さなかったようだ。
「チドリ、其方の歌声も我には心地よく聴こえていたぞ。社では途中で止めてしまったのが残念だった」
元よりするつもりはなかったが、隠しごとは一切できないのだと認識を改めるしかない。相手は龍の神なので当然といえば当然だ。
「で、我にどのような名を付ける?」
神からの問いに対し、テツは迷うことなく返事をする。
「じゃあ、『セトウチ』で」
「何それ。瀬戸内海だから? テツくんだって安直じゃん」
思わず異議を唱えてしまったのは千鳥の意思か、それとも新たに宿ったモモの記憶がそうさせたのか。
けれどもセトウチの名を、龍の神は「覚えやすくてよい」と鷹揚に受け入れていた。おそらくかつてリュウと呼ばれたときもそうだったのだろう。
そしていよいよ、テツが本題に入っていく。
「セトウチよ、おれたちはあんたにお願いがあってここまでやってきたんや」
「その単刀直入ぶりは好ましいな。だがもちろん、其方たちの願いはすでに承知しているぞ」
ずいぶんと話の展開が早い。千鳥も前のめりになって口を開きかける。
「じゃあ……」
「逸るな、チドリ。無条件で受けてしまっては、我の退屈はいや増すばかり。ここは相応の対価を求めねばな」
知っていたはずだぞ、とセトウチに言われてしまっては返す言葉もない。
一方でテツは大きく頷いていた。
「そやからあんたは、かつて神域へやってきたイチとモモ相手に、鬼ごっこで世界を賭けた勝負をしたんやな」
そう、千鳥もその記憶をすでに保持している。死力を尽くしたイチとモモの二人が、どうにか龍の神の体に触れて勝利した記憶だ。
「いかにも。つい先ほどの出来事だったような、遠い昔の思い出のような、不思議な気分を味わっているところだ」
当時はリュウと呼ばれ、今はセトウチの名をよしとした龍の神が先を続けた。
「なあに、別に鬼ごっこでなければならぬという決まりもない。面白そうであればどんな遊びでも構わぬぞ」
一呼吸置き、セトウチは軽い口調を崩さずに言う。
「たとえばテツ、おまえが持っているその玉を使った遊びでもな」
ひゅっ、と千鳥の喉の奥が鳴る。
龍宮城からもらってきた〈時隠しの紫煙〉、それもまた隠しごとなのだ。
テツのベルトループからぶら下がっている、切り札であったはずの玉が入っている風呂敷を千鳥は見た。
「気づいとったんやな」とテツはどうにか平静を装っている。
「はは、気づかぬわけがなかろう。その玉はな、遥かな古代のそのまた昔に、実体化していた時分の我の頸にできたイボだぞ」
花純たち代々の守人が必死の思いで受け継ぎ、その中に「守りたい」という祈りの念を紡いできた〈龍の頸の玉〉。
そんなすごい宝具が、目の前にいる龍の神にしてみれば、首にできたただのイボでしかないのだという。
「こんなの、勝てっこないよ……」
決して口にしてはならない泣き言を吐きだしてしまった。
けれども心が折れかかった彼女の背中を、「しゃんとせえ」とテツがタッチのごとく優しく叩いてきた。
「イチやモモはちゃんと現実の世界を守った。それやったら生まれ変わりのおれらにできんはずがないやろ」
「テツくん……」
テツはいつものテツであり、同時に鬼であったイチの姿も重なって見える。
「セトウチ、野球や。野球でおれと勝負してくれ」
今ならええ球を放れそうな気がすんねん、とテツは爽やかに言った。




