助けた亀に連れられて
赤銅色っぽい霧が出てたら教えてくれヨ、と亀道丸から言われていた。
どうやらその霧であれば間違いなく〈龍の夢〉へと入っていけるらしい。
高松大寒波にて花純が張った結界は、現実世界と〈龍の夢〉との間の境界線を強固にする。妖どもの侵入を防ぐために。つまり裏を返せば、結界の内側にある場所からは〈龍の夢〉へ乗り込んでいけないのだ。
「守人の結界が及ぶ範囲は、およそ半径30キロといったところでしょう」
テツにそう教えてくれたのは、守人の花純ではなく狸の親分である太三郎だった。何なら花純は「そんなに広範囲なんだ」と逆に驚いていたほどである。
そのため、猛烈な速度で海面を突っ走る亀道丸の甲羅に乗ったテツたちは、結界より少し外側の海にいた。
「どこやどこやどこや、霧どこや」
「落ち着いてってば。焦ったらなかなか見つかんないよ」
テツにしがみついている千鳥の指摘が正論だ。野球をやっていたときだって、マウンド上で焦っていい結果が出たためしはない。
年下の友人の忠告を受け入れ、テツは少し呼吸を整える。
だがその間に茶がまが目ざとく見つけることに成功した。
「あった! あったで亀道丸! ほら、ここから右寄りのところ、結構遠いけど」
「あれか。時計でいうたら二時の位置や」
茶がまが必死に前足で差し示してくれたので、すかさずテツも補足する。
「おう、さすが小さい兄弟」
よくやったゼ、と称賛の言葉を口にし、亀道丸は進路を微調整した。
赤銅色っぽい霧へ近づいてみれば、普通のぼんやりとした靄のようだ。
「さあ、〈龍の夢〉へ入るゼ。この霧は龍宮城への危険な近道だからヨ」
「危険って亀道丸、後出しはやめえや」
テツのぼやきとともに霧の中へ突入していけば、すぐに空模様が明るい夜へと変わってしまった。間違いなく〈龍の夢〉である。
「また来たな」
「来ちゃったね」
テツも千鳥も慣れたものだが、なぜか亀道丸だけは「やべえとこに出ちまったヨ、ったくついてねえナ」とやけに焦っていた。
「この海の荒れ方はさすがに洒落になんねーゼ」
確かに亀道丸の反応通り、海面は尋常ではなく荒れていた。
いくつもの波がうねり、それぞれがまるで黒い大蛇のように見える。すべてを呑み込もうとするかのような黒い大蛇の前では、さすがに亀道丸であってもひとたまりもないだろう。
しかしテツと千鳥は落ち着き払っていた。なぜならすでに一度、二人はこの光景を目にしていたからだ。
「さっそく千鳥の出番やな」
「うん、任せて」
どうにか歌える姿勢をとろうと上半身を起こし、千鳥は胸を張った。
そして彼女の唇から音が生まれ、歌声となっていく。
ここから先も、やはり〈仏の御石の鉢〉を通して見た光景と同じだった。モモの歌と同様に、千鳥の歌も荒れ狂う波を鎮めていく。
次第に波は割れ、まるでテツたちを龍宮城までエスコートするかのような、一本の道が海面に現れた。
茶がまは短い前足で必死に拍手をし、「さすがやチドリ」と喜んでいる。
「とんでもねエ……。夢か現か幻か、ちょっと信じらんねえナ」
「〈龍の夢〉やし、夢やろ」
驚いている亀道丸が面白く、つい混ぜっ返してしまう。
「ほんまかどうか知らんけど、狸の親分さんはおれらのことを『桃太郎と壱ノ鬼の生まれ変わりだ』って言いよったで」
「何と! じゃあ嬢ちゃんはあの伝説の歌姫の再来ってわけかヨ! こいつぁたまげたゼ!」
またしても大げさに驚く亀道丸。
千鳥はなおも歌い続けているが、その横顔には苦笑いが浮かんでいた。
波を問題にしなかった一行の前に、もはや障害はないも同然だ。千鳥の歌声とともに亀道丸もすんなり海面を往く。
そしていよいよ、前方に辺りを睥睨する巨大な建造物が見えてきた。龍宮城である。海中ではなく海上にそびえ立ち、威容を誇っているのだが。
「何でノイシュヴァンシュタイン城そっくりやねん」
龍宮城のイメージと違いすぎるやろ、とテツが文句を言う。
新しい白鳥の名を冠する、ドイツのノイシュヴァンシュタイン城。近代の建築物でありながら世界遺産にも認定されている。
スピードを落としながら亀道丸も答えた。
「乙姫サマのたっての希望でなア……。白亜のお城って素敵、なんだとヨ。改築の際は〈龍の夢〉界隈をざわつかせたゼ」
「白鷺の姫路城がモデルではあかんかったんかい」
「そりゃ龍宮城内だって百家争鳴サ。だけどあの方に一目惚れって言われちまったらヨ、おれっちたちにゃ従うより他ないのサ」
白亜の巨大な城がどんどん近づいてきている。黒い空を背景にしているせいで、ぽっかりと浮かんでいるようにも見えた。
「でもヨ、おかげで今の城に代わってから海面への浮上が可能になってナ。兄弟たちは海中だと息ができねえンだろ?」
「そう言われてみたら、そやな。おれがイメージする龍宮城って海の中やったわ」
絵本でも漫画でもアニメーションでも、海の上に龍宮城があった例はない。
「まア、久々に浮上する機会を狙われて、宝目当ての賊に襲われたンだけどヨ。妖連中もなかなか海の中ってのは苦手みたいでナ」
さらりと亀道丸が告げた事実は、テツと千鳥の二人にとっては衝撃的だった。
「おれたちのせいで襲われたんか」
「そんな」
謝罪して済むものではない、と思いつつも「申し訳ない、亀道丸」とテツは甲羅へ額がつくぐらいに頭を下げる。
「いやいや、兄弟たちが気にすることじゃねえヨ」
何も大したことではないかのように亀道丸が応じた。
「人の身でありながら、勇敢にも龍の神さまに会いに行こうってンだ。乙姫サマだって諸手を挙げて歓迎するつもりだったサ」
「その乙姫さまは今どこに……?」
心配そうに千鳥が訊ねる。
「安心してくンな、嬢ちゃん。うちの乙姫サマは狸の大将よりずっと年上だが、いまだに逃げ足は天下一品の早さなのヨ」
「じゃあ、襲われる前にちゃんと逃げだせたんだね」
「そうさなあ……城にいた全員逃げおおせてはいるンだろうが、乙姫サマに関しちゃ今頃はしまなみ海道の向こうあたりだろうサ」
これにはテツも驚き半分、あきれ半分だった。
「どこまで泳いでいくねん。速すぎやろ」
「そういう方なのサ。ま、乙姫サマのことはさておき、そろそろ龍宮城だゼ。まだどこかに賊が潜んでいるかもわかンねえから裏手へ回ろうや」
亀道丸の提案を受け、一行は正面の玄関を避けて城の台座へ上陸する。
ただこの時点でもまだテツは認識できていなかった。陸地では亀道丸の動きが制限されてしまうことに。
テツや千鳥の歩調にすぐついてこられなくなり、亀道丸との距離が開く。
そのことに真っ先に気づいたのは茶がまだ。
茶がまがくるりと後ろを向き、急いで亀道丸へと駆け寄っていたことで、ようやくテツも以前の〈龍の夢〉での出来事を思い出す。
「足手まといですまねエ、兄弟」
喘ぐように亀道丸は言う。
もちろん彼を置いていくわけにはいかない。賊がまだ残っているかもしれない上、亀道丸以外に龍宮城の中を知る者は誰もいないのだ。
「しゃあない、そしたら亀道丸はおれが担いで──」
「おいテツ。ぼく、役に立つって言うたやろ」
そう口にするなり、茶がまがまた変化の術を披露した。
「おまえ、その姿は」
「へへ。さっき屋島におるときにじっくり見たから。いい出来の変化やろ」
茶がまが変じたのは大きな赤い鬼、〈仏の御石の鉢〉に映っていたイチに似せた姿である。まさしく瓜二つだ。
「よっこいしょ」
鬼となった茶がまは、亀道丸の体を悠々と担ぎ上げた。
「これでもう気を遣わんでええけんね、亀道丸」
「ありがとヨ、小さい──いや、大きい兄弟」
えっへん、と鬼の姿で胸を張る。こんな仕草はやはり子どもの茶がまらしい。
龍宮城の裏口から入ればすぐに厨房があった。昔ながらの竈ではなく、厨房の内装も欧風様式だ。料理の仕込みの真っ最中だったらしく、本当にいきなりの襲撃だったことが生々しく伝わってくる。
「兄弟たち、ここへやってきた目的は煙なんだってナ。おれっちたちはあれを〈時隠しの紫煙〉って呼んでるんだがヨ」
テツを見下ろすほどの高い位置から、亀道丸が話しかけてきた。
「ありゃあ扱いが難しい宝だからナ、宝物庫とかにゃねえのヨ。そんなわけで盗まれちゃいないはずだから安心していいゼ」
「そいつは助かるわあ」
胸を撫で下ろしながらテツが言う。
「で、どこに保管されとん?」
「乙姫サマの第十二私室だナ。あそこはほぼ倉庫扱いの部屋で、使わねえ宝具が放り込まれるのサ」
隣を歩く千鳥がぼそっと「自分の部屋、多すぎ」と呟いていた。ただしテツは聞かなかったことにする。
先ほどまで海中にあった城らしく、あちらこちらで水が滴り落ちていた。亀道丸の説明によれば、乙姫の第十二私室へは吹き抜けとなっている空間の階段を使う必要があるそうだ。
「目立ちやすい場所だし、賊が去ってりゃいいんだけどヨ」
そんな危惧を口にする亀道丸だったが、彼の懸念は的中してしまった。
近づいただけでそれとわかる、粗野な口調での言い争い。内容は財宝の取り分を巡ってのもの。間違いなく賊の一味だ。
テツだけが物陰からそっと連中の様子を確認する。馬の顔や牛の顔、他にも様々なルーツを持つ寄せ集めのような集団であり、中には鰐のような顔をした妖までいる。全員が得物を手にしており、総勢二十人弱といったところか。
「あいつらが言い争っているうちに、何とか突破できんもんやろか」
みんなのところへ戻り、小声で相談する。しかし茶がまの肩に乗る亀道丸からは「難しいナ」という答えが返ってきた。
「見つかったらまず間違いなく殺されちまうだろうからナ。迂回できりゃいちばんいいンだけど、乙姫サマしか知らない抜け道ばっかでヨ」
「んがっ、ここへきて手詰まりかいな」
顔をしかめ、思わずテツは短い髪の毛を掻きむしってしまう。
そんな彼の腕をつつく者があった。
「テツくん、わたしが行く」
「千鳥。いやしかし、さすがに危ないやろ。いま策を考えてるから、もうちょい待っててくれへんか」
「そんな時間の余裕はないでしょ。それにさ、龍の神さまに会う方がもっとずっと危険なんじゃないかな」
そう言い切った千鳥はテツの制止を振り切り、迷いなく歌いはじめる。
彼女の澄んだ歌声が吹き抜けの空間に満ちていく。いつ耳にしても、テツの心までほぐれていくような声だった。
その直後、歌とは違う金属音が立て続けに響いた。
「何ごとや」と再びテツが物陰から覗くと、賊の集団が武器や宝をあっさり手放していたのだ。
「やっぱり盗んだりするのってよくないよな」
賊どもは口々に言い合い、吹き抜けの階段前から退出していく。もちろん放棄した宝を振り返ることもなかった。
歌っている千鳥がピースサインを作っている。
テツはもう一度頭を掻き、「すごいを通り越して、もはや怖いわ」とこぼす。改心というよりは洗脳の方が表現として近い。心の底からの本音だ。
一行はそのまま階段を上がり、亀道丸に案内されるがまま龍宮城の奥を目指して歩いていく。
第十二私室は三階の奥まった場所にあった。施錠はされておらず、中へ入った瞬間に埃が舞い、先頭のテツはくしゃみを連発してしまう。
宝具然とした品々が所狭しと置かれているが、亀道丸は「ほぼガラクタ同然ヨ」と手厳しい。
「かつてはこの龍宮城にも、〈火鼠の皮衣〉に〈燕の子安貝〉、〈蓬莱の玉の枝〉、そして〈龍の頸の玉〉と超級の宝具が四つも揃っていた時代があったのサ」
亀道丸曰く、乙姫とかぐや姫はともに認め合う宿命のライバルだったらしい。それもあって二人の姫は宝集めに精を出していたのだそうだ。
そんな話を聞きながら、ガラクタの宝をかき分けて部屋の隅へと向かった。
「おっと兄弟、少しだけ戻ってくれヨ」
「ほーい」
鬼の姿の茶がまが半歩分だけ後退する。
「ほら、足元にあンだろ玉手箱」
そう言われてテツはしゃがみ込み、茶がまの足のあたりを確認した。確かにうっすらと埃の積もった玉手箱らしきものがある。
「そいつが〈時隠しの紫煙〉サ」
お目当ての宝にようやく出会えた。
さっそくテツはポケットにねじ込んでいた〈龍の頸の玉〉を取り出す。ただしまだ問題が残っていることに、このときようやく思い至った。
「ところでやな、どうやって〈龍の頸の玉〉に、玉手箱の中の煙を吸わせたらええんやろか」
「えー、テツくん考えてなかったの?」
カフェで自信ありげに提案してたのに、と指摘されると何も言い返せない。
だがその瞬間、玉手箱ががたがたと揺れて勝手に開きはじめる。続いてテツの手の中にあった〈龍の頸の玉〉も呼応して光を放ちだす。
「この光、花純さんが結界張ったときと一緒や……」
さらには玉手箱から線状に漏れ出てきた紫色の煙を、〈龍の頸の玉〉は何も命じずとも勝手に吸い込みだしたのだ。
玉手箱の揺れが収まり、再びぱたりと閉じたときには、すでに信じられないほどの量の紫煙が〈龍の頸の玉〉へと収まっていた。




