旅の終着点
香川県西部の荘内半島には数多くの浦島伝説が残っている。そんな荘内半島の先、室浜と呼ばれる海岸で亀道丸と落ち合う手筈になっていた。
時間は待ってくれない。一行は高速道路を使い、高松中央インターチェンジから三豊鳥坂インターチェンジまで借り物の車を飛ばしていく予定である。
千鳥は大切なコンクールの前と同様、気持ちを落ち着かせることに注力しつつも、緊張を取り除こうとはしなかった。そちらの方がよく歌えるのだ。
ただ、高速道路本線に合流したあたりから花純の様子がおかしかった。
「踏みたい……。アクセルを思いっきり踏み込みたいっ」
しきりにそう口にしている。
そのたびに後部座席のテツが「あかんで」と諫めていたのだ。
「ほんまやめてな、そういうの。安全運転で頼むわ」
「だってだって、マツダのあのロータリーエンジンなんだよ? 耳を澄ませてみなさいって、この素晴らしいエンジン音。たぶんあたし、この先の人生でも乗れる機会なんてないんじゃないかな」
「ロータリーなんちゃらはようわからん。そんなんええから飛ばしすぎんなや」
後部座席は非常に狭い上、席の左右が区切られている。大柄なテツにとって乗り心地はよくないはずだが、彼の文句は花純の運転へと集中していた。
「おれだけならまだしも、千鳥も乗っとるんやからな。忘れたらあかんで」
「実はぼくもおるんよ!」
いきなり茶がまの声がした。不意打ちすぎる。
助手席の千鳥がきょろきょろと探していると、小さなハムスターがシートの下から這い出てきた。
ハムスターは千鳥の体をよじ登り、膝の上へとやってくる。その途端、元の茶がまの大きさへと戻ったのだ。
「えへへー。親分にも気づかれんかったー」
「茶がまおまえ……ええ度胸しとるな。帰ったら泣くほど怒られるやつやぞ」
ボコボコにしばかれるんちゃうか、とテツが脅してくる。
しかし茶がまはどこ吹く風で「親分はぶったりなんかせんもーん」と余裕の構えだ。
「どうする、花純さん。下ろしている余裕はないよね」
「しょうがないなあ。茶がまちゃんにもロータリーエンジンの乗り味をたっぷり堪能させてあげるから、ちーちゃんがちゃんと支えてあげてね」
「りょうかーい」
軽く返事をしながら千鳥は茶がまを抱きかかえた。
当の茶がまはといえば、車窓からの眺めに興味を示している。
「ぼく、速いん好きやで。景色が早く流れていくんが気持ちいいんやもん」
「お、わかってくれる? さすがは茶がまちゃん、こりゃ次期頭領の器だね。無粋なテツとは違うわあ」
「ええ? おれがあかん流れなん?」
テツがわざとらしく情けない声を上げる。
あはは、とつい千鳥も笑ってしまった。
ひとしきりにぎやかな会話が続き、これから命の保証もないような場所へ向かっているとはとても思えないほどだった。
笑い合える時間が過ぎて車内の空気も落ち着きだした頃、花純が何気ない口調で話しはじめた。
「あたしね、東京に住んでいた頃はドライブが唯一の趣味だったの」
大学ではデザインを専攻したのだけれど、と彼女は言う。
「社会に出てみれば全然通用しなかった。就職しても想像していたような仕事とは全然違ってたし、忙しすぎてずっと海の中を漂っているみたいな、息がつまりそうな日々だったなあ。車を走らせているときだけ、あたしは何とか呼吸できていたのかもね」
千鳥にも当時の叔母の気持ちが何となく理解できた。壱ノ木島へやってきた当初の千鳥は、まさにそういう精神状態だったのだ。
「二十六歳だったか二十七歳だったか、白い目で見られながら強引に長期の有給休暇をとってね。まったく縁のなかったこっちへ旅行したのよ。新しい空気を心が欲していたんだろうね」
「そういや花純さん、瀬戸内のいろんな島を旅してたってじーちゃんから聞かされたわ」
「たぶん、無人島以外はほぼ訪れたんじゃないかな。何も決めず、ゆっくりとあちらこちらを巡ったよ」
そこで花純は一呼吸置く。
「どこも優劣なんてつけられないし、いい思い出を作らせてもらった。で、最後にあたしは里紗さんのいる壱ノ木島へたどり着いたの」
「その言い方だと、まるであの島が目的地だったみたい」
千鳥としては何気なく口にした一言だった。
「本当にそうなんだよ、ちーちゃん。壱ノ木島へやってきて、里紗さんと出会って受け入れてもらって、あたしは『ああ、やっとたどり着いた』って、心からそう感じた。あの島こそが旅の終着点だったみたいにね」
「流れ着いたような感覚やったら、おれにもわかるわ」
千鳥もそうだったんやないか、とテツが話を振ってくる。
「うーん、最初はね。でもいつの間にか、あの島で自分がずっと暮らしていたような、そういう懐かしさみたいなものを感じるようになったかな。ずっと住んでた東京よりも、初めて訪れた島の方が懐かしいって何か変だよね」
「変じゃないよ、ちーちゃん。あたしはどっちも知ってるから。そこにいていいんだ、って感覚は都会ではなかなか持ち得ないものなのかもね」
花純はなおも語っていく。
東京での仕事を辞めて壱ノ木島へ移り住み、南沢里紗とともに暮らしだした。
折しも瀬戸内海の島嶼部では、三年ごとに現代アートを集めた瀬戸内国際芸術祭が開催される運びになっていた。このことが花純の背中を押す。
デザインの勉強を再開し、現代アートの道へと足を踏み入れた。
並行して里紗とともに花を育て、和菓子を作り、知り合った戎清三と酒を酌み交わす。ゆっくりと流れていて忙しい、充実した日々。
「そんなある日にね、里紗さんから切り出されたの。『大切な話がある』って」
花純の言葉の合間に聞こえるのは、古いエアコンが稼働するがたついた音だけだ。
「里紗さんは病気だった。もう長くはないってご自身でもわかっていた。あたしも薄々気づいていたんだけど、自分に対して気づいていない振りをしていた。でもそれだけじゃなかったんだって、ちーちゃんとテツならわかるよね」
運転する叔母の隣で千鳥は頷いた。
「花純さんが守人を受け継いだ、そのお話なんだね」
「そう、〈龍の夢〉と守人の役目について、このときに伝えられたのよ。『できることならあなたが受け継いで、この世界を守っていってほしい』ってさ。そんなの断れるわけがない。あたしなんかが、って今でも思ってるよ、そりゃ。でも死にゆく里紗さんの願いを叶えるためなら、たぶんあたしは何だってした」
ここまで一息に言い切って、花純は手の甲で乱暴に目元を拭う。
「大人だって泣くんだよ。もう知ってるでしょ、あんたたち」
「意外と気にしとったんやな、花純さん」
後ろからテツの声がした。
「大人だろうが子どもだろうが、泣いたってええやん。そらみんな、生きとったらいろいろ辛いことあるわ」
「そうだよね。みんなそうなんだよね」
千鳥も勢い込んで同意する。
歌を手放してしまったからといって、「わたしが世界でいちばん不幸なんだ」とまでは思っていなかった。でも両親からすればそういう顔をしていたんだろうな、と今なら千鳥にもわかる。
明るく振る舞う花純やテツにも、普段は見せていないだけで陰はある。
いつも優しい父と母にだって、きっと辛く悲しいことが胸の裡にあるのだろう。
膝の上で抱きかかえている茶がまが千鳥を見上げて言った。
「ぼくはねえ、あんまり泣いたりせんよ。でも人間に化けとったときに友達になった子と、『もう会ってはいけない』って親分から叱られたときはたくさん泣いた」
「狸なのがばれたらダメ、って太三郎さんは思ったんだろうね」
辛かったよね、と千鳥は茶がまの頭を撫でる。
「人も狸も、鬼やっていろいろおるわ。それ考えたら大人と子どもなんて大した差やないやろ」
テツのそういう態度は、最初に会ったときから変わらない。だからこそ千鳥も、四つも年上である彼の前では自然体でいられるのだ。
「ただまあ、できれば涙は車を運転してないときにお願いできるやろか」
「台無しにするなあ、あんたは」
運転席で花純が苦笑いしていた。
「安全運転でしょ。耳にタコができるっての」
その言葉とは裏腹に、花純は徐々に車の速度を上げながら、追い越し車線へとレーンを変えていく。
◇
海の向こうに夕日が見える。
予定より早く一時間ほどで荘内半島の室浜へ到着した千鳥たちは、スマートフォンで夕暮れの写真を撮る間もなく波打ち際まで歩いていった。
「おーい、亀道丸ぅ」
いきなりテツが叫んだ。やはり運動をやっていただけあって、腹の底から響いてきたようないい声だ。
彼にならって茶がまも「亀道丸やーい」と頑張って大きな声を出す。
どれほども待つことはなかった。すぐに近くの海面が盛り上がり、大きな亀が千鳥たちの目の前に姿を現したのだ。
「よう。また会えてうれしいゼ、兄弟たち」
事前に教えてもらってはいたが、こうして実際に亀が話しているのを見ると、今までの自分の常識が何とも頼りない指針に思えてくる。
「さっそくなんやけどな、今回は──」
「いいっていいって、狸の大将からの案件だって聞いてるヨ」
事情を話そうとするテツを遮り、亀道丸は鷹揚に頷いている。
「それよか兄弟。遠いところまで足を運んでもらったってのに、ちっとばかしこっちの方がのっぴきならない状況になっちまっててだナ」
「どないした、また〈龍の夢〉のせいでごちゃついてんのか」
テツからの問い掛けに、今度は亀道丸が頑張って首を横に振っていた。
「龍宮城がサ、宝目当ての賊どもに襲われてんのヨ」
「はあ? 龍宮城を襲撃するって前代未聞やぞ」
思いっきり顔をしかめているテツだったが、そんな彼のポロシャツの裾を千鳥は引っ張って言う。
「テツくん。妖相手ならたぶん、何とかできる」
「そうか、そうやな。こっちにゃ千鳥がおるもんな」
拳骨を作り、もう片方の手のひらに打ちつけながらテツが笑顔を見せた。
「おう兄弟、そいつはどういうこった。その嬢ちゃんになら何かできンのかい?」
「まあ期待しとけって。期待以上やからな」
「へえ、この嬢ちゃんがねえ」
そいつは楽しみだゼ、と口にしながら亀道丸は背を向ける。
「とにかく二人とも乗ってくンな。急ぎ龍宮城まで飛ばすからヨ」
「ぼくも行くけんね!」
茶がまが社のときみたいにテツの左肩に飛び乗った。
「おっとすまねえ、小さい兄弟。忘れてたわけじゃねえんだゼ?」
「ぼく、絶対に役に立つけん」
千鳥にテツ、そして茶がまが身を寄せ合って、亀道丸の甲羅に体を預ける。
最後に千鳥は後ろを振り返った。
砂浜に一人残された格好となった花純が、胸の前で両手をぎゅっと握り締めている。常に気遣ってくれていた彼女に心配を掛けたくはなかったが、それでも千鳥は自分の意志で行くと決めたのだ。
「行ってきますね、花純さん」
柔らかで、それでいて決然とした姪の挨拶に、花純は寂しそうに微笑んだ。
「言っておくけど、あんたたちの旅はまだまだこの先も続くんだよ。決して途中で終わらせちゃダメだからね」
「はい。ちゃんと帰ってきます」
小さく手を振り、千鳥の目は真っすぐ前へと向けられた。




